3 異の街
月華がシーツを洗っていたせいで、天駆が用意してくれた食事は冷めてしまっていた。それを見て、月華は気落ちした様子で食卓に着いた。
(天駆が悪いんだ。すぐ手を出そうとするから。私が悪いわけじゃ……)
「……ごめんなさい、天駆。せっかく作ってくれたのに」
言い訳を心の中で並べても、謝る言葉が月華の口をついて出る。
いくら文句を言おうとしても、並んでいた料理は彼が心をこめて作ったのを月華に知らせてくる。
天駆はくすっと笑って言葉を返した。
「今日は冷えても障りのないお食事ですよ」
確かに魚のつみれの金色のスープも、ハムと胡瓜のあえものも、軽くとろみをつけたチーズ入りの乳粥も、宮廷料理のように輝いて見えた。
天駆は手を差し伸べるようにして勧める。
「どうぞ、召し上がってください。天駆はそれだけで満足です」
月華はいただきますと言って、箸を動かし始めた。
いつものことだが、どれも完璧に月華の好みどおりの食事だった。肉と魚が苦手な月華でも口にできるように優しい味付けで、ただし栄養をたっぷり含んで。
ばつが悪そうに月華が向かいの席をうかがうと、天駆自身は食べずに月華を見守っていた。
彼のように人の数倍の時を生きてきた獣人は、ほとんど食事を必要としない。それに彼はいつも細やかに家事をしていて、月華の食事を見守る暇はない。
けれど彼はそうしてただ月華を見ているのが好きなのだった。
月華はむずかゆい気持ちで言う。
「さっさと出かけてきたらどうですか。あなたが見ていなくても、ちゃんと全部食べますから」
月華は降り注ぐような慈しみのまなざしに、精一杯の文句をつけた。
天駆は何も言わずに笑っただけで、月華をからかう風もなかった。
結局月華が食事を終えるまで見届けた後、天駆は自室に入って行って外出の準備をしてきた。
現れた天駆は、袍の上に外套をまとってサーベルを腰に下げていた。護身と言うには数段上の、殺気じみた緊張を帯びる。
玄関で月華に振り向いたときだけは、天駆のまとう雰囲気はいつもの甲斐甲斐しい従僕だった。
「我が君、どんな者が来ても鍵を開けてはいけませんよ。いいですね?」
そう小さな子供に諭すように言って、天駆は満月の夜、外に出て行く。
閉ざされた扉の前で、月華は彼が自分に見せない姿に思いを馳せる。
天駆は人の姿を取る短い間、細かい用事を済ませているのだと言う。それもきっと嘘ではない。
でもそれだけならサーベルを携える必要も、油断なく氷の瞳で前を見据える必要もないに違いない。
彼は夜の幻都で何かと対峙している。月華に言えない後ろ暗いことなのか、月華を関わらせたくない危険なことかはわからないが。
月華は言い訳のようにつぶやく。
「私だって外出したい。それだけだよ」
月華が引け目を感じるのは、彼の庇護の籠に守られてきた自覚があるからだった。
月華は女物の袍に外套を羽織ると、居宅から出て歩き始めた。
幻都には吹き溜まりのような街がいくつかある。その幻都で一番低地にあるところ、坂道を下りきったそこが三ノ街だった。
三ノ街の表通りは、隙間なく屋台で埋め尽くされた、幻都一の市場だ。
そして裏通りは幻都の影の欲望の部分で、仄暗い歓楽街がある。
月華が向かったのは三ノ街の表通りで、夜も深くなったのに大した盛況ぶりだった。
赤い灯篭が爛々と輝き、幻都の伝説の生き物である金の龍の旗が風に揺れる。
月華はしばらく屋台を見るでもなく、人並みの中をただ歩いた。
女性の体になると、月華は無性に夜の三ノ街をさまよいたくなる。
三ノ街は獣人の集まるところだと聞いていて、同類の血が月華を呼ぶのかもしれない。
歩き始めて半刻、うずきのような感覚に気づいて月華はふと足を止めた。
月華は実際に誰かを噛んだことはないが、女性の体になるとその欲求が宿るときがある。
……きっと大人はもっと大きな欲求を持っていて、夜の幻都で誰かを噛んでいるのだろう。そう勝手に思ったところで、なぜか胸が焦げた。
(私だって噛んではいけないのかな。それだって獣人の本性だ)
ほんの少しの興味は月華を影の世界へ誘ったのか、気づけば彼女は裏通りに入っていた。
そこは仄暗い歓楽街、幻都の影の楽園。陽炎のような灯が辺り一面に浮かび、格子窓の向こうに宿がひしめくところだった。
いつも優等生でいなければと思う反面、悪い子になってみたいという奇妙なあこがれが首をもたげる。
月華は路地に寄りかかって、少しの間いつもと違う悪い子の気分に酔った。
人の心の隙間を探るように目を泳がせて、ふいにぴたりと止める。
月華はすぐ側を通りかかった男に微笑みかける。彼は一瞬怪訝そうな顔をしたが、月華が歩み寄ると、好色そうな笑みを浮かべた。
月華が媚態を含んで袖を引っ張ると、男は月華の肩に手をかけた。
悪い子では済まないことをしようとしている。頭の裏で警鐘が鳴るが、噛んでみたいという欲求は走り出していて、止まらない。
……本当に噛んでみたいのは別の誰かだと自分で気づいていながら、月華はそれを頭から振り払った。
月華が男の袖をつかんだまま、路地に足を向けた時だった。
「そんな子どもはやめておきなさい、坊や」
月華が振り返ると、真っ赤な唇の女性が笑いかけていた。けれど顔を見る前に、彼女は月華の横をすり抜ける。
月華の手からするりと男の袖が離れる。月華がつかみ直そうとしたときには、もう男はその女性の手にからめとられていた。
まるで抗えない水流に入ったように、男も女性も歩き去っていく。
月華は不可思議な気分で立ちすくんで、辺りを見回したときだった。
「待って。お嬢さんは学院の生徒じゃないか?」
男物の香水の匂いをすぐ近くに感じて、月華ははっと息を呑む。
「この世界の住民じゃないね」
そこに黒色の袍をまとった男をみとめて、月華は悪いことをみつかったような気分になった。
幻都では洋服が一般的になりつつあるが、袍着の人間もわずかだがいる。王華国ゆかりの袍着を見ると、月華はつい天駆を思い出してしまう。
目の前の黒い袍着の男は浅黒い肌に黒髪をしていて、王華国人の目鼻立ちをしていた。どうすればより自分が魅力的に見えるか熟知している、雅な空気をまとっていた。
男は月華を見下ろして言葉を続ける。
「ただの興味ならたやすく遊ばない方がいい。人生を食われでもしたら厄介だ」
男は、口調は穏やかだが厳しい警告を飛ばしてくる。
月華は目に不満を混ぜて見返したが、彼は薄く笑い返しただけだった。
三ノ街の住民にとって学院の生徒など、しょせん子どもに過ぎない。
月華は諦めてため息をついて、ふてくされたような口調で言った。
「ちょっと迷い込んだだけです」
「ふむ」
男は腕を組んで首を傾げる。月華は気まずい沈黙を崩すように続けた。
「あなたの商売の邪魔をしたなら申し訳なかった。でも三ノ街は禁域じゃない。誰でも立ち入りが許されている街のはず」
「そうだね」
気まずい思いをしているのは月華だけのようだった。男はおもむろにキセルを取り出してふかし始める。
月華が目を逸らせば、彼女たちに気を留めることなく人は流れていた。
誰もがそれぞれの欲を満たすためにここへ来ているのだろう。だからここは開放的で、禍禍しい空気を漂わせながらも明るい。
この人だって、放っておいてくれればいいのに。月華が釈然としないまま黙っていると、男が言った。
「噛みたいの?」
挑戦するような言葉に、月華はすぐに反応を返すことができなかった。
そんな月華を見て、もう一度男は言う。
「それとも……噛まれたい?」
切りこむように言われて、月華は体を固くする。
幻都の人々の中には、獣人が隠れるように混じっている。
彼は三ノ街に生きる者だからなのか、見透かしたような目で月華を見ていた。
どうすると問われているように思えた。月華が獣人であることなどわかっている。けれどその欲望を表に出した途端、目の前の自分は別の生き物に変わるよと暗に伝えてくる。
月華は惑い、けれど男から目を逸らすこともできないまま立ちすくむと、突然頭を誰かに押さえられた。
「子どもをいじめるものじゃないわ」
男は面倒そうに振り返って肩をすくめたようだった。
月華の頭上で響いたのは、先ほど月華から男を取っていった女性の声だった。
女性は月華の頭をぽんぽんと叩きながら言う。
「あなたはまだ幼い。噛むのも噛まれるのも、選択をするのが早すぎるでしょう?」
軽く叩かれた頭が痛んだのは、たぶん女性の力のせいじゃなかった。
「……ましてあなたの選択で、動く者たちもいるのだから」
月華が女性を見上げようとしたとき、影が現れた。
影に見えたのは月華の心が空いていたからで、たぶん彼はずっと月華をみつめていた。
「天駆」
月華が恐る恐る名前を呼ぶと、幼い日からみつめてきた大きな存在は明らかに怒っているようだった
月華は後ろへ一歩下がったが、天駆は易々と月華の腕をつかんで引き寄せた。
「止めてくれて助かった」
黒い袍着の男と天駆は知り合いのようで、男は苦笑しながら言う。
「あまり怒らないでさしあげた方がいいですよ」
「進言はせねばならない。……では」
挨拶もそこそこに、天駆は月華の肩を抱えるようにして歩き出した。
掴まれた肩が痛くて、歩く速さも月華を無視したものだから、月華は息が切れた。
月華は天駆の鬼気迫る怒りを肌で感じていて、家に着くまで結局一言も口をきけなかった。
月華の部屋で向き合って座ると、天駆は抑えた声で切り出す。
「女性のお体でたやすく外に出てはいけませんと、申し上げたはずです。我が君」
天駆は眼光鋭く月華をみつめながら続ける。
「大人の獣人たちにとって、あなたは甘い果実のようなものです。三ノ街を一人で出歩くなどとんでもない。噛んでくれと言っているようなものです」
「……すみません」
月華は大人しく頭を下げて天駆に言った。
「あなたの言いつけを守らなかったのは確かです。興味本位で、軽はずみなことをしました。ごめんなさい」
月華は、嘘を言っていなかった。それは核心の部分でないだけだった。
「ほんの出来心なので許してください。もうやりませんよ」
思っていたよりもすらすらと言葉は出てきた。男の天駆を目の前に言えるか心配していたが、月華がずっと前から考えていたことだったから。
やがて月華が押し黙ると、天駆はため息をついて口を開いた。
「一族の女性体は害されやすいのです。長い歴史の中でたびたび踏みにじられてきました。……屋敷の中に籠めて鎖でつないだ者もいたほどです」
月華がぎくりとして身を引くと、天駆は頭を下げてから頼み込むように言う。
「従僕の私などが決してそのようなことはいたしません。ですが、我が君自ら危険に手を染めるようなことをしてはいけませんよ」
月華の頬を両手で包んで、天駆は目をのぞきこむ。
「だめですよ。約束できますね?」
黙って月華が頷くと、天駆はやっと表情を緩めた。
月華は心の中で言い訳をつぶやく。
(女性の体でいることがそんなに辛いわけじゃない。噛みたい願望だって、抑えられないほどじゃない)
けど、と月華は本音を心で続ける。
(気になるんだ。天駆と私の変身の周期は連動していないか?)
月華がその疑問を口に出せないまま、今日も天駆は優しく言う。
「我が君の憂い事は天駆が払ってさしあげます。だからゆるりとお休みください」
天駆は月華の頬から手を離して、一歩下がる。月華の中で奇妙な喪失感がうずいた。
「お体が戻るまで、学院もしばらくお休みしましょうね」
天駆が何気なくたしなめる間も、月華は暗い考えに沈む。
(私は天駆が思うほど子どもじゃない)
どこか恨めしいような気持ちで、月華は天駆から目を逸らした。
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