2 月満ちて
幻都の学院は自治区の運営する教育機関だ。幻都に滞留する人々の子どもたちに基礎的な学問を与えることを目的とする。
授業は算術や語学、護身術といったもので、建物は購買と医務室が併設されている二棟だけだが、貧しい子どもたちもいる中で、学院は一つの生活保証の機能を持っていた。
春の連休明けに試験がいくつかあって、最後が体力試験だった。
学問は初等部から学年首位を走ってきた月華だが、体力試験は人より劣る。自分の記録表を見てため息をついていると、真上から声がかかった。
「月華様は毎年少しずつ速くなられて、それが何よりの幸いです。つかみ立ちが遅くて心配したのは、昨日のことのように思い出されますから」
真上などから声をかけられるのは一人、もとい一匹しかいない。
周囲は植木ばかりで生徒がいないのが幸いだった。月華はむっとしながら、記録表に目を落としたまま言った。
「学院に来ないでくださいと言っているでしょう。大体人が覚えていないようなことを引き合いにだすのは卑怯です」
天駆は毎年体力試験の結果だけ自分に見せない月華を知っていて、こうして見に来たのだろう。
月華が焦って早口に言ったら、天駆はくすりと笑ったようだった。
「つい手も口を出したくなってしまうのです。では、また後で」
天駆があっさりと気配を消したので、月華は顔を上げた。
月華のところへ同級生の
若彦は運動着で土を払ってぶらぶらと歩いてくると、月華に話しかける。
「
月華は苦笑してから若彦に向き直った。
「我ながら冴えない結果だと思っていただけです。若彦は?」
「俺は体力試験だけはいつもいいんだけどなぁ」
若彦は学問の方はいまいちだと言いたかったのだろうが、運動能力に自信のない月華にはうらやましかった。
月華は獣人でありながら、運動能力は平凡で、体力にも自信がない。
獣人の中には生まれつき身体能力が優れていて、学院でも異常値をはじき出す者がいる。けれど月華は人並みにも届かないのが悲しいところだった。
「私はきっと、東方に行ったら真っ先に獣人に噛まれてしまう被支配者なんでしょうね」
月華が冗談交じりに言ったら、若彦は一瞬黙ってぼそりと返した。
「心を力で支配するのは感心しねぇな」
獣人が噛む行為を、支配と嫌う者たちがある。若彦もその一人らしかった。
確かに一方的で、支配的な行為ではある。幻都にはそういった獣人たちの専制を否定できる中立性がある。
若彦は一見いい加減だが秩序を堂々と口にする正義感がある。そういうところを、月華はいつも好ましく見ている。
……もっとも、噛む行為が意味するのは支配だけではないが。
月華はうなずいて口の前に指を立てる。
「あなたの言う通りです。だから聞かなかったことにしてください」
月華はそう言って、若彦の横を通り過ぎようとした。
ふと若彦は月華を呼び止めて言う。
「そういえば、お前って姉か妹がいたっけ? 三ノ街で似た女の子を見かけたんだ」
月華は一瞬ぎくりとして、思わずあらぬ方を見てしまった。
差しさわりがないように笑って、月華は言い返す。
「いるかもしれませんね。兄弟が多いもので」
それ以上を問われないように、月華は若彦の横をすり抜けて歩き去った。
試験後は答え合わせを兼ねた授業だった。昼過ぎのけだるい時間帯、試験が終わった後でみんなやる気もなく、眠っている生徒もいた。
月華が横を見ると若彦は机の下に隠して娯楽誌を読んでいた。若彦がひいきにしている女優のポラロイドは切り抜き済みで、後はたぶんクラスの男子たちに回し読みさせるのだろう。
月華は試験と見たら首位を取らずにはいられない性格で、次回の試験に向けて気が逸る。
月華が油断なく黒板に目を戻した時、その衝撃は来た。
それはずくんとした下腹部の痛みと、がんがんと鳴り響く頭痛だった。あっという間に目の前が暗くなっていく。
(まずい。こんな所で倒れたら天駆に心配をかけてしまう)
痛みはやまず、視界が真っ暗に染まろうとする。
こんな自分の体が嫌いだ。そう思った瞬間だった。
月華は肩をゆさぶられて、その衝撃ではっと意識を取り戻す。
まだ顔が上げられない月華に、若彦が言う。
「由宇、無理しないで今日は帰れよ。寝不足なんだろ、お前試験前は勉強しかしないからさぁ」
若彦が軽口を装って月華を助け起こしてくれた。三年の付き合いで相当悪いのは気づいているのだろうが、彼はずっとその理由を訊かずにいてくれた。
若彦の声に気づいたのか、壇上に立つ教授が月華に振り向く。
「ん? 由宇、どうかしたのか」
教授の問いに、月華はなるべく何気ない素振りで立ち上がって返した。
「すみません。体調が悪いみたいなので早退します」
教授は興味なさげにうなずいてチョークを別の色に代える。
「ああ、そうか。無理しないようにな」
教授は再び黒板に視線を戻して、月華には別段それ以外の言葉はなかった。
月華はチョークの音を聞きながら、手早く鞄に荷物を詰めこんで言う。
「失礼します」
月華は学友たちのまたかという視線に苦笑で応える。月華は欠席や早退の多い生徒で、学友たちは心配するというよりあきらめの目で月華を見ていた。
学院の門から出ると、見慣れた車が横づけされていた。
角張った黒い車体の運転席から、外套の下に
見るからに王華国ゆかりの車には乗りたくないといつも言っているのに、天駆は慣れていただかなければと譲らない。
月華は運転手を見下ろして淡々と告げた。
「歩いて帰ります。私は平気ですから」
月華は運転手の答えを待たずに歩き出した。
下腹部から意識が遠退きそうなくらいの痛みが襲ってくる。けれどそんなことは外では知られたくない。
月華は冬でもないのに、外套を引き寄せて体を丸めるようにして足を進めた。
坂の上に学院が消えた辺りで、天駆が心配そうに側を歩き始めた。けれど月華は気づいていないふりをして、天駆に声をかけることもなく歩き続けた。
途中からふらつき始めて、最後は熱があるみたいに息も上がっていた。けれど気力だけで居宅まで辿りついて、倒れこむように中に入る。
「我が君!」
扉の内に入った途端、天駆がずっと呑み込んでいただろう声を上げる。
月華は弱弱しく笑って言った。
「ほら、平気だと言ったでしょう」
「中へ。すぐ横になってください」
月華は精一杯の強がりを見せたものの、体はついていかずに自室に入るなり布団に突っ伏す。
「う……ん」
「よく辛抱しました。後は全部私にお任せください」
月華がうめきながらうなずくと、天駆は安心させるように言った。
「温かくして、よくお休みください。夕食には起こしますからね」
天駆は掛け布団をくわえて月華の肩まで引き上げて、湯たんぽを取りに台所へと走っていった。
月華は荒い息をつきながら、天井を見上げて思う。
(天駆の夕食を食べるのは一月ぶりだな)
ゆっくり呼吸を繰り返すと、渦を巻くように眠気が押し寄せてきた。
(食べられる時に限って体調は最悪なのが悲しいけどな。それでも天駆の料理は美味しいから)
痛みの中にいろんな気分が混ざっていた。うれしいことも悲しいこともなかったけど、近い未来には大きなうねりが待っている気がする。
ぼんやりとそんなことを考えながら、月華は眠りに落ちていった。
月華が次に目を覚ました時には、もう辺りは真っ暗になっていた。
カーテンの隙間から金色の光を放つ満月がのぞいていて、月華はさかさまにそれを見上げながらため息をついた。
月と華の両方を名に持つ月華だが、自分の本性は母の生まれ育った月冷州の仰ぐ月なのだろうと思っている。
月華は、諸国の王と自負する王華国の一族としては気弱に過ぎる。月のように満ち欠けする体も持つ。自分の意思のままにならない体と、陰の心が月華の本性だ。
こんなうつろう体と心のまま、華の国に向かっていいのだろうか。そう思いながら、しばらく月をみつめていた。
とはいえいつまでも伏せってはいられない。月華が身を起こすと、下腹部の痛みは消えていた。
「……う」
けれど布団の中の湿った感触に鳥肌が立って、痛みはなくなったというのに真っ青になった。
物音を聞きつけたのか、隣室で天駆が声を上げた。
「月華様? お目覚めですか」
開かれた扉の先にいる人を恐れるようにして、月華は掛け布団をしっかり握り締めた。
中に入ってきたのは二十代後半の屈強な青年だった。
肩にかかる程度の黒髪を後ろで無造作に縛り、黒一色の簡素な袍の上からでも筋骨隆々とした体格をしていた。峻厳な面立ちで、見るからに軍人の威圧感をまとう男だった。
「お加減はいかがですか? じきに夕食ができますよ」
けれどその口から出るのはいつも通り甲斐甲斐しい調子で、月華は一瞬甘えそうになる自分をこらえる。
月華は一息ついてから彼を見上げる。
彼の尖った犬歯と、光の角度で金色に見える瞳も、外を歩けば多くの人々が避けていく。
月華は口ごもりながら言葉を切り出す。
「痛みはもう平気です。でも、その」
月華にとって、彼は家族のように長い時間を共に過ごした唯一無二の存在。
だからこそ言えることだって、逆に言いにくいことだってある。
「……天駆。あの、ごめんなさい、またやってしまいました」
人と獣の二つの姿を持つ従僕に、月華は言葉に詰まる。
人間の姿の天駆には、月華は獣のときのように気安くはできない。
このときの天駆はオスではなく、男だから。
「シーツの替え、ありませんか……」
下腹部の嫌な感触から逃れられるはずもないのに、月華は天駆から目を逸らしてぼそりと言った。
天駆はそんな月華の反応など慣れていて、子どもを安心させるように笑う。
「ああ、そうでしたか。大丈夫ですよ。私が洗っておきますから月華様はお着替えを」
天駆はあっさりと言って、月華を抱き上げようとする。月華は慌てて天駆を押し留めた。
「い、いいです! 天駆は料理していてください。自分でやります」
「今更何を恥ずかしがっていらっしゃいます。さ、私にお任せください」
「いいから出ていってください。早く!」
月華は普段より甲高い声で抵抗して、天駆の手を振り払った。
「嫌だと言ったら嫌なんです! ……今は、私は女なんですから!」
涙目になって怒った月華に、天駆は困り顔になった。
沈黙はそれほど長くなかった。天駆に月華の感情の全部が伝わったかはわからないが、彼は天を仰いでうなずいた。
「わかりました。天駆は月華様のしもべでございますから」
天駆は天井に着きそうな大柄な体を丸めてそろそろと後退すると、扉を閉めて部屋の外へ出てくれた。
月華は深くため息をついてから、恐る恐る掛け布団をめくる。シーツには思っていた通り赤い染みができていた。
月華は肩を落としてつぶやく。
「これはひどいな」
月華はシーツを抱えて洗面所へ向かうと、栓を閉めて水を貯めた。まだ学生服を着たままで、それを脱ごうとしてふと手を止める。
鏡の向こうからこちらを見た自分は、青いような灰色の髪と、同じ灰青の瞳の、子どものようなまなざしをした少女だった。天駆に必死になって反抗しても、すぐに甘えたくなる自分が透けて見えた。
そんな月華も、満月が来るまでは大人びた優等生を演じられる。体は細いが顔立ちは中性的で、学問が得意なことを幸いに堂々とできた。
けれど満月の日に生理は訪れる。髪が伸びて青白く輝き、体は丸みを帯びる。
月華は顔に手をあててまたため息をつく。
月華には、いつ頃から変身が始まったかはっきりと覚えがない。けれど最初に男性から女性になった時は、びっくりしたに違いないと思う。
今でも天駆に、獣人の変身というのはこういうものなのですかと繰り返し訊く。天駆の答えは是でも否でもなかった。変身は月華様が特別な証ですよとだけ言う。月の満ち欠けと共に生理は終わり、元の体に戻りますとも。
月華は女性となるこのときが、いささか恥ずかしい。この間だけ、胸がむずむずする気分になる。
(だいたい天駆が悪いんだ。古い時代なら召使いに処理をやらせるくらい当然なのかもしれないけど、私は普通の学生なんだから)
月華は胸のむずむずの正体がわからないままつぶやく。
「お姫様じゃあるまいし」
単純に子供扱いされているだけなのだともわかっているから、なおさら腹も立ってくる。
洗面所の戸をコツンと叩いて、天駆がなだめるように言う。
「我が君、そろそろ夕食にしましょう?」
天駆はこの間月華の情緒も激しくなるのを知っていて、こんな風に甘い声を使う。
そのせいでかえって月華は子どもの頃のように、素直に天駆に甘えられない。
月華はむすっとしながら、そっけなく答えた。
「いいです。放っておいてください」
それからその不機嫌な顔のまま、指先でシーツをこすり始めた。
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