男装令嬢は守護獣人から独り立ちしたい~境界の街、幻都の戀~

真木

1 帰ってきた従僕

 人の中に獣人と呼ばれる種族が現れて、千年が経つ。

 獣人たちが貴族として分かれ住む西方諸国と、獣人が人と血を交えて溶け込んだ東方諸国、その狭間に幻都はある。

 飛行船が一日に何百と行き来する西方に比べると、幻都は日に一本だけの飛行船が東西を往復するだけで、西方には文明が遠く及ばない。一方、庶民までまじないが使える東方に比べると、幻都では未だまじないは超常現象の一つで、東方の幻惑されるような魅力に至らない。

 けれど山間に風がわだかまる湿気た土地にまじないが滞留するように、幻都では訳あって獣人が身を留めることがある。

 月華も獣人の流れを汲む一人だった。従僕を一人従えて、生まれた東方の国を遠く離れた幻都で学生として暮らしていた。

 新緑の薫る初夏の夕べ、月華の元に従僕が帰って来た。

 月華が学院の門を出てふと植木を見やると、そこに人間の大人ほどもある大きさの黒い獣が鎮座していた。

 硬く長い黒毛に覆われた獣は、隠してはいるが鋭い爪と牙を持つ。人目に触れたら衛兵が呼ばれることもあるが、そのたびに彼は軽やかに姿をくらましてみせた。

 ひらりと尻尾を振った獣の目が喜色に満ちているのを見て、月華は従僕が彼にとっての朗報を持って帰ってきたのだと知る。

 けれど従僕と月華の感覚は大きく違っていて、従僕にとっての朗報が月華にとって良いものとは限らない。

 月華はため息とともに彼を呼ぶ。

「おかえり、天駆てんく

 彼は月華の横に着地して、月華の足に身を寄せた。

 月華はそんな天駆を見て苦い顔をしてから歩き出す。天駆は大人しく月華の横に並んで、影のようについてきた。

 学院は小高い丘の上にあって、ほとんどの学生たちはふもとの街から路面電車で通っていた。学院の門を出てすぐのところに待合所があって、少し待てば歩くには難儀する急な坂道を下らずに済んだ。

 けれど明らかに愛玩動物とは違う険しさをまとう天駆を連れて、路面電車には乗れなかった。月華は今日も待合所を通り過ぎて坂道に入った。

 丘の上からは幻都の全景が見渡せた。都の名がついているものの、幻都はそれほど大きな街ではない。街は路面電車で半日あれば回れる広さで、周囲を山に囲まれて、南には海を臨める。

 陸路が主だった古い時代は、東方と西方を行き来するには幻都を通るのが一般的だった。その名残で旅行者たちが今も落としていく外貨は貴重な幻都の収入だが、空路と海路が発達した今となってはさびれた印象を拭えない。

 ただ幼少の頃から幻都をすみかにしてきた月華にとっては、ここが自分の街という愛着を抱いていた。

 山を仰ぎながら坂道を黙々と下って、半刻ほどの後にふもとの居宅に着いた。

 学生たちは寮に入ることが多いが、月華は子どもの頃からここで従僕と暮らしてきた。月華が住み始めた頃は新築だったから、間取りは比較的新しく広い。月華と従僕のそれぞれの部屋、テラスに出られる西方風の洋室がある。

 月華は鞄を下ろして制服から洋服に着替えると、従僕の部屋に入って彼と向き合う。

「いつも同じことから言いますけど」

 月華は顔をしかめて、お座りの態勢で待つ天駆に話しかけた。

「学院まで迎えに来ないでもらえます?」

 月華としては子どもがわがままを言うような調子になったのが、なんだか嫌だった。

「私はもう十八歳なんです。天駆がいつも手を引いていないといけない子どもじゃありませんよ」

 天駆は尻尾を振るのをやめてじっと月華を見た。

 少し思案する間があって、天駆はおもむろに口を開いた。明らかに犬のものとは違う鋭い牙を覗かせて、動物のものではないためらいの呼吸も漏れた。

 次の瞬間、底を打つような低い大人の男性の声が聞こえた。

「月華様のご機嫌がお悪い理由を、うかがってもよろしいでしょうか」

 彼は特定の一族と結びついた守護獣人だった。人よりはるかに長い時間を生きてきて、人より人の言葉を流暢に話す。

 月華は不機嫌さを隠そうとせず、端的に文句をつける。

「ここでは私は普通の一学生なんです。幻都の学生は従僕など連れて歩きませんよ」

「お言葉ですが」

 天駆は月華の言葉に流れるように反論してみせた。

「ご学友の方々は、そう見せているだけです。幻都で滞留するのは訳あり者ばかりですから、学院を一歩出ればお仕えする従僕の一人や二人お待ちしているものですよ」

 月華が黙ったのは、天駆の言う方が正しいとわかっているからだった。

 学院では、奇妙に育ちのいい学友と出会うことがある。話し方、仕草から察するに、たぶん名のある家の育ちなのだろうが、どうして故郷から離れた幻都で暮らしているか訊くつもりはない。

 ……月華とて故郷を離れた理由を人に問われたくはない。

 月華はまだ文句をつけたくなる気持ちを押さえこんで、話を替える。

「迎えの話はまた今度にしましょう。……あの手紙の真偽のほどを聞かせてください」

 天駆に幻都を離れて母国に向かってもらったのは、昨年終わりに母国から送られてきた疑わしい手紙のためだった。

 月華が手紙で真偽のほどを問い詰めても、答えは同じだった。仕方なく天駆に行ってもらって、結局二月ほども待つことになった。

 月華を惑わせるための偽りの一つだと捨てられればよかった。けれどそうしなかったのは、手紙を見たときの天駆の奇妙な落ち着きのせいだった。

 天駆はそのときと同じ、どこか誇らしげな様子で告げる。

「慎重であられるのは我が君のご気性ですが」

 天駆は顔を上げて月華をみつめた。

「もう真実を受け入れる時期でございます。当主は、月華様を次の当主にお迎えになります」

 月華はめまいを感じて天駆をにらみつけた。

 王華国と呼ばれる国で、古くから人の上に君臨してきた獣人一族がいる。

 月華は確かに現当主の末子ではあるが、母が属州の月冷州出身であったために屋敷にいることは許されず、生まれてからずっと幻都に住んでいた。

 月華は問いたくなかったことを口にする。

「……兄上たちは」

「心を落ち着けてお聞きください」

 本当は月華も答えを知っていたから、その次に続く天駆の言葉をあまり聞きたくはなかった。

 天駆はその恐ろしいほどの落ち着きで月華に言う。

「当主には月華様の他に御子がおられないのです」

「……十五人もいたはずでしょう!」

 月華は悲鳴のように言葉を返した。

「そんな事態になるまで当主は何をしていらしたんです? 一族に敵が多いのは今更でしょう? なぜ西方に助けを求めなかったのですか!」

 感情のままに月華が言ってしまうと、天駆は苦笑してみせた。

「我が君」

 その声音が甘いような響きで、月華は勢いに任せた自分を恥じながら彼から目を逸らす。

「そう言うのはやめてもらえませんか」

 月華は口をへの字にする。彼にそう呼ばれるのは自分じゃないみたいで、月華に彼を遠く感じさせる。

 天駆は月華のそんな感情をなだめるように言う。

「いいえ、申し上げます。月華様は私がお育てした、正統なる由緒の君です。これは正しき者に、正しき地位が巡ってきただけのことです」

 月華が首を横に振ると、天駆はこつんと月華の頬に鼻を押し当てた。

「月華様が恐れることは、何も。あなたは私がお守りしますから、何の心配もしなくてよろしいんです」

 月華が顔を上げると、天駆は慈しみをたたえた金色の瞳で月華を見ていた。

 当主とも母とも離れて育った月華は、家族というものがどういうものかわからない。月華にとって家族というのは、この庇護欲の化身だった。

 天駆は月華の手の上にそっと自分の前足を重ねて言う。

「まだ二月先のことです。普段通りに学院で学び、ご学友とゆっくり夏季休暇を過ごして……お帰りになるのはそれからです。不安に思う心は、私にお預けください」

 天駆の言葉は、まるで駄々をこねる子供を宥めるみたいにも聞こえた。

 月華はうつむいて内心でつぶやく。

(私を棄てた場所へ、帰りたいわけじゃ……)

 けれど月華の内なる願いは、従僕にとって快くないのを知っている。

 学院の最終学年、長期休暇が明ける前夜のことだった。

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