第6話 森の中にいる
そのメールが届いたのは、爛々と日差しが照り付ける正午の事だった。
売れない小説家を自負している僕がパソコンの前で少しも進まない原稿とにらめっこをしている時に届いたメールに偶々目を通した。スマホすら殆どの時間沈黙していると言うのにパソコンの連絡先など殆ど死んでいるようなものだったので、メールが届いたのは恐らく数年ぶりだった。メールが届いたという知らせを見た時に抱いたのは、驚きと不信感だった。
正直に言うと、迷惑メールの類だと思ったのだ。それでも中を確認したのは件名に見知った出版社の名前が入っていたからだ。
某有名出版社の名前にいかに売れない、将来性のない僕でももしかしたら仕事の話かと心が躍り、メールを開いた。
すると、メールには以下の様に書かれていた。
『○○出版社 ××××
初めまして▽▽様。○○出版の××××と申します。突然のご連絡失礼します(中略)
ぜひ、貴方とお仕事がしたいと思い、ご連絡いたしました。(中略)
取材の日付は▽▽様のご要望にお任せいたします。迎えに行きますのでよろしくお願いします』
有名出版社と言いつつ、僕は残念ながらどこの出版社だったのか覚えていない。それどころか失礼なことに相手の名前も覚えていなかった。酷いと思われても仕方がない。そしてどうやら僕は疎かにもそのメールを消去してしまったらしく、パソコンに何のデータも残っていなかったので確かめようがない。
中略としたのは、メールの内容をあまり覚えていないからだ。覚えているのは、どうやら相手は僕と仕事をしたいと思っているらしく、そのために取材に僕を誘っているということだけだった。
僕は仕事の誘いに舞い上がり、すぐに相手の車を待った。返事をした覚えはないのだが、相手が僕の家の前に迎えに来たので、きっと返事はしたのだろう。
僕を迎えに来たのは、目元が落ちくぼんだ不健康そうな男だった。ガリガリというほどではないが、かなり痩せている。背が高いのも原因かもしれないが、ひょろりとして今にも崩れ落ちそうに見えた。
男は僕の姿を認めるとぎこちない笑みを浮かべた。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
助手席に乗り込むと男はにこやかに挨拶をした。顔はぎこちないが、言葉はすらすらと飛び出す。その後にした会話も途切れることはなかった。
そう記憶しているのに何を離したのかは全く覚えていない。ただとてつもなく楽しかったように思う。
車は一時間ほど走った頃に、辺りが急に暗くなったので外に視線を向けると鬱蒼した森が目に入った。車は木々の間をするすると器用に通り抜けて行く。その時になってようやく何の取材で、どこへ向かっているのか知らないことに気が付いた。
「あの、今からどこへ行くんですか?」
僕の質問に、男は答えた。
「――――ですよ」
その言葉は聞き取れなかった。ざざざとまるで雑音が入ったように男の声は乱れ、籠った様な音になったせいだ。
僕は聞き返さなかった。ただ小さな声で「そうですか」と答えた。そうするのが正しいと思えてならなかったからだ。
車は森に入っても進み続けた。辺りは木だらけで他には何も見あたらない。こんな所で一体何の取材をするのだろうか、と疑問に思った時、運転している男が口を開いた。
「もうすぐです」
「え、この辺りですか?」
車窓から見える景色は変わらず緑一色だ。山の景色を題材にして小説でも書くのだろうか。いや、それにしてもこんな山奥に来る必要はないはずだ。
メールにきちんと書かれていたかもしれないので、改めて聞くのが憚れたが、気になって仕方がないので失礼を承知で聞くことにした。
「あのすみません、一体どこへ行くんでしょうか?」
「――様の所へ」
「え?」
男の言葉がまた可笑しくなった。いや、僕の耳が可笑しいのかもしれない。
男の言葉は、よくわからなかったが、お何々様と聞えた気がした。
僕は頭を捻って、自分が知っている単語を頭の中で並べた。最初に頭に浮んだのは、東北地方で信仰されているオシラ神だ。しかし直ぐに否定する。以前岩手の遠野へ旅行へ行った際に展示されていた布で作られたおしら様を見たことがあるが、おしら様は家の神だ。森で祀られているような神ではない。しかもここは東北ではないので信仰が濃いとは言えない。男が東北の出身の可能性があるが、それにしても山中というのが引っ掛かる。
「あの、もう一度言ってもらえませんか?」
僕の言葉に男は答えなかった。
車が突然停車し、驚く僕を置いて男が先に車外へと出た。視線で男の姿を追っていると、前方に開けた場所があることに気が付いた。周りは相変わらず木々で覆われているのに、そこだけは不自然に木々が生えていない。ぽっかりと空いた場所の中心に何かがある。
あれは、石碑か何かだろうか。遠いせいで上手く見えない。
男はそれに近づいて行った。そして何度も頭を下げる。僕に背を向けているので何をしているのか分からないが、耳を澄ますと何かが聞こえて来た。男は石碑らしきものに話しかけているようだった。
何かがおかしい。
そう感じる一方で、男はこの不思議な空間について取材をしたいのかもしれないと思った。しかし、車を降りて行くことは出来なかった。体よりも心が拒否している。
降りてはいけない。そう本能が言っている気がした。
どれくらいそうしていただろうか。不意に拝んでいた男が立ち上がり、僕の方を振り向くと手招きした。
これは取材で、連れてきてもらったのは仕事の相手の好意だ。だから断れば失礼になるから車を降りなければいけないと思いながらも僕は首を振っていた。気が付くと僕は車の鍵を締めていた。
そうしないと何かが入ってきてしまう気がした。
僕が断ると男は助手席側の窓の外まで寄って来ると、窓を下げる様に手で指示した。僕はそれも拒否した。
「どうしたんですか? 何かありました? 早く来てください」
「あの、すみません。ここって何なんですか?」
「お――様の――です。――様が呼んでいらっしゃいますから、早く降りてきてください。早く」
「そのお何ちゃら様って何なんですか? 何かの神様、とか……」
その時、視界の端で何かが動いた気がして視線を向けた。すると、石碑の後ろで何かが動いた。男が何か言っているが無視をして目を凝らすと、石碑の後ろから黒く丸い物がひょっこりと顔を出した。
それは、人間の頭のように見えた。
「あ、あ、あ、あれは何なんですか?」
「お――様です。お――様が呼んでいます。貴方を。お――様がいらっしゃいます。ほら、早く出ないと。ほら、早く」
男が助手席側の扉に手をかけ、扉を開けようとして来た。さっき鍵をかけたのが幸いし、扉は開かない。すると男は激怒した様子で顔を上げ、僕の方をきつい目つきで睨むと喚き始めた。
男の言葉は支離滅裂で何を言っているのか分からなかった。常軌を逸した様子に体を仰け反らせると、男は距離を詰めようと窓の顔をくっつけて怒鳴り声を上げる。窓の反響した音が森にわんわんの反響する。
僕は男からさらに距離を取ろうと、運転席まで移動した。すると視線に石碑が入り込んでくる。必然的にその後ろにいる真っ黒いものも目に入った。
「え」
石碑の背後から、顔が出ていた。黒っぽい物はやはり人間の頭だった。しかし、ぽっかりと空いた空間に石碑がぽつんとあるだけなので体を隠す場所が無い。子供でも足がはみ出してしまうだろう。
地面すれすれのところから覗いた顔が、僕をじっと見つめている。
逃げなくては、と思った。しかし僕は運転免許を持っていないので車で逃げる事は出来ない。絶対に嫌だが、逃げるには車を降りるしかない。
迷っている間に石碑からどんどん顔が出て来る。首だけが襲ってくる想像が浮かび、僕は叫び声を上げた。
そして、運転席側の扉を開けると外に飛び出した。
転がる様に走り出した時だった。不意に目の前を何かが通った。
――虫だ。
前を通った虫が、何故か急に行く先を変え僕の方へと飛んで来た。肩にくっつき、僕は悲鳴を上げながら足を止めかけた。しかし、直ぐに背後から草を踏み詰める男の足音が聞こえて来たので、慌てて足を進める。するとまた虫が僕の体に張り付く。どんどん虫が張り付き、僕の足を止めようとする。
虫だけではない。まわりの木々も僕の行く手を阻んでいる。木が体を擦る。服に引っ掛かる。肌を掠める。痛みに呻くと足の動きが鈍る。
虫が体中に張り付いている。僕は手を振り回し、半狂乱になりながら叫んだ。自分が何を叫んでいるのかは分からなかった。だんだんと頭がぼんやりしていく、次第に何も考えられなくなっていた。
気が付くと、僕は石碑の前にいた。
手を合わせ何かを呟いている。自分でも何を言っているのか分からない。
ただ、そうするべきだと思った。それが正しいことだ。
だって、――様は全て正しいのだから。僕は何故あんなにも逃げようとしていたのだろうか。何を怖がっていたのだろうか、分からない。
石碑の背後からお顔が覗いていらっしゃる。
ああ、何と喜ばしいことだろう。僕は選ばれたんだ。こんなことこの先一生ないだろう。
僕は手を合わせたまま、口角をあげて笑った。あまりの幸福に笑いが止まらない。嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
不意に、夢心地だった僕の頭の中でぶちりと何かが千切れるような音がした。
そこからは、記憶がない。
気が付く僕は駅の駐車場にいた。車の中に虫が入り込んでいる妄想にかられ少しだけおかしくなっていたみたいだ。トモリくんが来てくれなかったらあのままだったかもしれないと思うとぞっとする。
僕と共にあの場所へ行った不健康そうな男の姿はない。あの男が何者だったのか、一体どこへいったのかはわからない。
そして、あの山の中にいた――様というのが一体なんだったのかも分からないままだ。
僕はこの話を落ち着いた頃にトモリ君だけに話した。記憶が曖昧なのもあって話すつもりが無かったのだが、先日トモリ君に貰ったお守りが千切れた状態で見つかったので、その報告ついでに話した。恐らくあの石碑の前で聞いた何かが千切れる音というのが、お守りが千切れた音だったのだろう。
憶測でしかないが、トモリ君のお守りが僕を守ってくれたのだろうと思う。
もし、お守りを持っていなかったら一体僕はどうなっていたのだろうか。
暗いところに何かいる 水瀬蛍 @hotaru05
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