第5話 窓から入ってくる
あれ、なんでしょうか。
え?
窓です、窓。窓に何か張り付いているので。
何かいるんですよ。車の窓に。
べったり張り付いていてとれないので、とってもらえませんか?
え、何もついてない? そんなはずないですよ、ほら、これ。これ。
窓全面に真っ黒い虫みたいなのが引っ付いていてとてもじゃないけど外に出られません。誰かとってくれませんか。大きな声で言うと外にいた女性が怯えた目でこちらを見ました、
きっと窓に張り付いているのでものに怯えているのだろうと思い、女性に頼むのはやめにしました。
ああ、でも気がついたらまわりに人がいなくなっています。誰もいない。というか、見えません。窓に、窓に張り付いている奴らのせいで。
奴らって言うと生きているみたいですよね。生きているんです。動いているんです。かつかつかつかつって窓に奴らの体の一部が当たる音がします。
蠢いているんです。虫じゃない。大きな目があります。大きくて丸い目が窓をうごうごと這いまわっています。助けてください。
窓から入ってきます。僕にはどうすることもできません。窓からあれらをとってください。お願いします。
窓、開けていないのに隙間から入り込んできます。助手席に落ちてきました。一匹入ってくると次から次に入ってくるきて、運転席には真っ黒の固まりが蠢いています。目が、僕の方を見ました。奴らが僕の方へ来ます。
どうしよう、どうしよう、どうしよう、
怖くなって喉が引きちぎれそうなくらい大きな声を出した時でした。わんわんと響き渡る自分の声とは別の音を耳が拾いました。
何だろうと視線を向けるとスマホが着信を知らせていました。
スマホの灯りに奴らが集まってくる気がして慌てて電気を切ろうとしました。しかし、慌てていたのかどこを押せば電気が切れるのかわからなくなっていました。どうすれば良いのかわからなくなった僕は画面を適当に押しました。
すると、ぷつと音を立てて音が途切れ、切り替わりました。
「あんた、今どこにいんの」
スマホからそんな声が聞こえてきた途端、僕は叫び声をあげていました。
手に奴らが這ってきているからです。
手を振り払っても奴らは離れてくれません。
助けてください。助けてください。と大声で叫んだ時でした。
唐突に助手席の扉が開きました。
「……また変なもんをつれてるな」
そう言いながら扉の向こうから顔を出したのは、トモリくんでした。
「あれ、トモリくん?」
「そう。ここがどこかわかるか?」
「いや……」
周りを見渡してみて漸く自分がどこにいるのか気がつきました。
駅の駐車場でした。見覚えのある光景に安堵を覚えましたが、すぐに奴らがどうなったのか気になりました。恐る恐る運転席を見ると、そこには何もありませんでした。奴らの影なんて少しも見当たりません。誰もいない運転席があるだけです。
「運転手は?」
トモリくんの質問に僕は首を傾げました。
運転手がどこに行ったのか以前に運転手が誰なのかも心当たりがなかったのです。それどころか、車に乗った覚えがまるでありません。
そう伝えるとトモリくんは何かを考えるような素振りをした後にとりあえず車から降りろと言って僕の手を引きました。
車から降りると空気が一変するのを感じました。なんというか、酸素の薄い場所から外に出たような感じです。車の中という閉鎖的な空間にいたからそう思ったのかもしれませんね。
「帰るぞ」
トモリくんは車をじろじろと見た後にすぐに踵を返しました。
「この車は? どうすればいいかな」
「どうもしなくていい。本人が取りに来るだろ」
確かにそうだなと思い僕達は並んで自宅へと帰ろうとしました。その時、車の中から小さな音が聞こえてきました。虫の羽音に似たそれを聞いた途端、脳裏に車の窓にへばりついていた奴らのことを思い出しました。
ぶうん、ぶうん、と何かがしきりに飛び回る音が聞こえてきます。まるで僕を呼んでいるようで、振り返りたくなりました。
しかし、一方で振り返っても何も良いことはないとはわかっていました。
これは小説家としての性でしょうか。トモリくんに言うところのクソみたいな好奇心が刺激され僕は振り返りました。
それが、何なのかわかりませんでした。
真っ黒い塊が駅の駐車場に鎮座しています。
ぶうん、とそこから音が聞こえた瞬間僕はそれの正体に気がつきました。
――虫です。虫が車を覆っているのです。
「あれは、なに」
「さぁ」
僕の独り言にトモリくんがあくび混じりに答え、興味なさげに僕の腕を引きました。いつの間にか僕の足は止まっていたようです。
さっさと行くぞと言う意味を読み取った僕はふらつきながら足を進めました。
ぶうんぶうんという羽音が耳の奥でずっと鳴っている気がします。その音を聞いていると頭の奥がずきずきと痛みます。何かを思い出しそうになり、僕は頻りに頭を振りました。
いくら僕が好奇心の化け物でも、今は思い出すべきではないと思ったのです。
はっとしたのは、トモリくんが淹れてくれたお茶を飲んだ時だった。
どこか靄がかかっていたような思考が晴れ、目の焦点が合うのを感じる。
「戻ったか」
トモリくんがほっとしたように息を吐くのを見て僕は首を傾げた。
何故自分がトモリくんの家にいるのかも思い出せなかった。何があった、と聞かれても困ってしまう。なにも覚えていないのだ。
ちらりと脳裏に黒いものが蠢いた気がしたが、思い出そうとすると吐き気が込み上げてきたので、すぐに記憶に蓋をした。
思い出すことを体が拒否している。きっと今は思い出すべきではない、とそう思った。
それが伝わったのかトモリくんは深く追求することなく思い出したら話せとだけ言った。
僕は曖昧な笑みを浮かべることしか出来なかった。
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