第4話 暗闇に揺れるもの

 橋へ行ってから夢見が悪い。

 真っ暗な空間にぽつんと何かが立ってこちらを覗いている夢を見る。何が立っているかは暗すぎて分からないが、人間ではないのは確実だ。兎に角背が高く、腕が長い。女とも男ともとれる人型の何かが暗闇の中でぼんやり見えているのはかなり不気味だ。

 夢の中で僕は立ったままぼうっとそれを見つめることしかできない。

 襲われるわけでもない。ただ気味の悪い夢を見続けているせいで寝た気がしない日々を過ごしていた。

 その夢の内容が変わったのは、三日前だった。

 ぽつんと立ち尽くしている真っ黒いそれが、横にゆらゆらと揺れていた。今まではまるで静止画だったのが突然動きだし、しかも暗闇の中でぼんやりと浮かんだシルエットが揺れているのはかなり気味が悪くぞっとしたが、その日はそれだけだったのであまり気にはしなかった。

 翌日、つまり昨日見た夢では横揺れしていた真っ黒いそれが近づいてきていることに気が付いた。

 ゆら、ゆら、ゆらと揺れる度に近づいてきている。

 それなのに僕はその場から動くことができない。

 夢での体感時間は一時間程度だった。一時間で真っ黒いそれは僕との距離をかなり縮めた。

 そして、今日見た夢ではその距離が更に近づき、薄っすらとだが真っ黒いそれに顔の様な物が付いているのが見えた。夢の中では目を閉じることも出来ず、ただ襲い来るそれを凝視することしかできない。このままではあれは直ぐに傍に来てしまう。その前に次寝たらそれの顔がはっきりと見えてしまう。

 恐らく真っ黒いそれの顔は見てはいけない。橋で僕は目が悪かったから助かったと推測している。きっとそれの顔を見てしまったら僕は二度と起き上がれないのだろうと漠然と思った。


 だから僕は朝起きると同時に隣人の部屋に突撃した。


「おはよう、トモリ君」


 扉を開けたトモリ君の顔はいつも通り不機嫌そうだ。

 僕がにこやかに挨拶すると舌打ちされたので、もしかしたらいつも以上に不機嫌なのかもしれない。


「ごめんね、寝起きだった?」

「いや、起きてたけど。今日は非番だから帰って」

「今日お休みなの? 珍しいね、年中無休で仕事しているのに」

「年中無休じゃねえよ。俺だってたまには休みがあるわ。今日がそれ。俺はこれから明日の朝まで寝るから帰れ。以上」


 そう言って扉を締めようとするので、慌てて止める。


「待って待って、お願い。お話し聞いて。大変なの」

「いつもの好奇心のせいか? 今度こそ年貢の納め時だな。供養はしてやる」

「違うよ! 夢見が悪いの!」

「夢? ……お前、夢の話なんて世界で一番つまらないだろ。だからモテないんだよ」

「ちょっとひど……いつも以上に口が悪い……いや、そうじゃなくてね。橋から帰って来てから夢見が悪いって話を相談したくて」

「橋……」


 その一言で、扉を締めようとしていたトモリ君の力が弱まった。


「しょうがない。話くらいは聞いてやる」

「ありがとう!」


 僕はトモリ君の部屋に上がり込むと、定位置につきこれまでの夢を話し始めた。

 奇妙な夢を見ること、真っ暗闇に佇むそれが揺れながら近づいて来ること、顔らしきものが見えてしまいそうなことを告げると、トモリ君は難しい顔をした。


「面倒くさいのに憑かれたな」

「どうにか出来ないかな? 対処法と知らない?」

「さあ。対処法は分からない。けど、まあ、魔よけのお守りで何とかなるだろ」


 トモリ君は僕に魔よけとでかでかと書かれたお守りを渡してくれた。

 それ以外に対処法はないらしく、というかそもそも僕に憑いているらしい橋にいたものが何なのか分からないので対処しようがないらしい。

 僕はお守りを握りしめて自室へと帰り、白紙の原稿と向き合った。

 そして、その晩。今日もしお守りに何の効力もなかったのならば、僕はそれの顔を目視してしまう。そう意識してしまうと緊張して眠れないと思ったが、ベッドに寝転がった途端に急激に眠気に襲われた。

 トモリ君に貰ったお守りを握りしめたまま眠りについた。

 夢を見た。

 黒い空間に、真っ黒いそれの輪郭がぼんやりと浮かんでいる。距離は十メートリくらいだろうか。意識すると顔らしき部分に何が付いているのか分かってしまう気がして、必死で考えないように思考を逸らす。

 それは、ゆらゆらと動き出した。しかし、一向に近づいて来る気配はない。僕を見つめたまま、ただただ揺れている。

 十分ぐらいそうしていたが、やはりそれが動く気配はない。どうやらお守りの効果が出ているらしいと分かり、ほっと安堵した。


 その時。

 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり。

 歯ぎしりの様な音が間近から聞こえて来た。

 それがこっちに来れない口惜しさで歯を鳴らしているんだと直ぐに気が付く。

 それは、大きく手の様なものを広げ、僕の方へと近づこうとする。しかし、透明の壁に阻まれて近づくことが出来ないようだ。

 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり。

 歯ぎしりが聞える。

 耳を塞ぎたいのに手が動かない。

 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり。

 耳に音が張り付いておかしくなりそうだ。

 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり。

 耳の奥で歯が鳴っている。

 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり。

 いや、耳に歯が付いたみたいだ。それぐらいダイレクトに耳の中に歯ぎしりの音が入り込んで来る。

 耳を塞ぎたい。

 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり。

 それか取ってしまいたい。

 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり。

 不快で不快でたまらない。

 耳の中に歯が入ってくるみたいだ。

 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり。

 これはいつまで続くんだろうか。

 止めてと叫びたいのに声が出なかった。


 僕は耳の中で鳴り続ける歯ぎしりの音に一時間耐え続けた。

 目が覚めてもまだ音が鳴っているような気がして、僕は叫びを声を上げながら耳を何度も叩いた。

 漸く歯ぎしりの音が消えた時には、右の耳が若干聞こえ辛くなっていたが、歯ぎしりの音が聞えなくなった方が嬉しかった。


 その晩、トモリ君に報告するとお守りを見せろと言われ、出して見せるとお守りは黒ずんでいた。


「また何かあった時のためにもう一回渡しておく」


 黒くなったお守りをトモリ君に渡し、新しく綺麗なお守りを貰った。

 またあの歯ぎしりと戦うことになるのかと思うと嫌でたまらなかったので寝たくなどなかったが、ベッドにごろりと転がるとすぐに眠気がやってきた。

 僕の心配は杞憂に終わった。

 それから僕はあの夢を見なくなったのだ。朝全く夢を見る事無く起きた時には感動して少し泣いてしまった。

 だから、トモリ君から貰ったお守りはもう必要ないと思い返しに行ったのだが、いつ必要になるか分からないからと貰ったままになった。

 そんなに頻繁に危ない目に合わないよ、笑いながらトモリ君の好意を受け取り、お守りは常にポケットに入れてある。

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