第2話 黒い方


 俺は大変なショックを受けている。


 失敗すると化物に寄生されるんだか変貌するんだか、そういうリスクのある代替わりの儀式。

 鱗を生やして廃人になった当主候補を監禁する座敷牢。

 それを平然と語る母親と、実行したという兄貴。


 並べてみるとどうにも陳腐で、どこかで見たような状況だ。

 現実味がない。

 この歳まで知らなかったのが、良かったのか悪かったのかわからない。

 それでも職無し宿無しの俺は、実家を離れて行くあてもない。

 飯を食い、風呂に入り、割り当てられた布団で眠って、俺は思考力が萎びていくのを感じていた。


 俺はいつもそうだ。怠惰で、鈍感で、頭が足りない。

 ……兄貴は俺のそういうところが嫌いだったんだろう。善く通る声で、毎日飽きもせず俺を咎めた。呆れて諦めてくれたら良かったのに。


 あれだけ異常なことがあったのに、改めて逃げる気力も特に湧かなかった。

 現状、差し迫った危険や不快はないし、俺の勝手な行動で起こる変化があったとして、その責任も取り切れない。事態が悪化することを想像すること自体が苦痛だというのもある。

 結局俺は翌日も、母親に言われるがまま、座敷牢に昼食を運んでいる。


 歴代の当主の写真——遺影かもしれない——に見下ろされながら仏間の隠し戸を引く。

 その先の長い回廊を歩き、行き止まりの床下扉を開けると、長方形の闇がばっくりと現れた。

 地下階段だ。湿気と土と、何かの腐臭を含んだ空気が立ち上ってくる。俺は軽く咽せた。

 棺桶の中というのは、こんな具合なのかもしれない。そういう想像をした。もっとも俺は棺桶の実物を知らないから、先に連想したのは、実はゴミ収集車だったりした。


 暗く狭い地下に、そろそろと足を踏み出す。

 素人工事の豆電球が不規則に吊られているだけで、足元を照らすには足りない。

 風もないのに時折揺れる灯りのせいで、平衡感覚がおかしくなりそうだ。

 柔らかい踏み板がいつ抜けるかヒヤヒヤしながら、なんとか階段を降りきった瞬間だった。



 「遅い!何を愚図愚図している、飯が冷めるだろう!」


 不意に鋭い罵声が飛んだ。

 反射で肩が大きく跳ねた。まんまと動揺した俺の手元で、耳障りな音を立てて食器が倒れる。ただでさえ覚束ない足元が、完全にバランスを崩した。

 アッと思うまもなく、俺は湿った床板に叩きつけられた。階段の途中じゃないのが不幸中の幸いだったが、それに感謝する余裕は無い。

 胃の底がさあと冷たくなる。この声には覚えがある。背筋を伸ばしていないと出せない声。俺を際限なく卑屈にさせる、唯一無二の怒声だ。


「馬鹿。家を離れて何をしていたかと思えば、ただ遊んでいただけか?東京の大学にまでいって、給仕の真似すら満足に出来ないのか、お前は」


 朗々たる罵倒である。

 抗議はいくらでもするべきだった。

 俺が大学に行ったのは学問と青春のためで、職業訓練のためではない。

 よしんば就職のためだったとして、それは兄貴に飯を運ぶ能力を磨く為でもない。

 更に言えば、俺に県外の大学を受験させる為、参考書を積み上げ拷問のように解かせ続けたのは、兄貴その人だったはずだ。

 文句を言ったって良かった。暗闇で脅かすような大声を出した方だって、何割かは悪いと思う。


 だが、何も言えなかった。俺が兄貴に迷惑をかけた事は明白だ。俺が馬鹿で愚図なのも、間違いなく本当だった。

 身に染み付いた習性、あるいは積もり積もった負い目のようなものが、俺の口を塞いでいる。


 蛙のように這いつくばったまま固まる俺を、一分ほど放置した後、兄貴は暗がりで溜息をついた。


「……いつまで呆けているつもりだ?俺は寝ていろと言った覚えはないぞ。役目を果たせ」

「ごめん……」


 役目。役目ってなんだっけな。そんな大層なものが俺にあったか。

 それが配膳だったことに一拍置いて気がついた。どうも俺の頭は血の巡りが悪い。


 俺はよたよたと立ち上がり、周囲を探った。俺が放り投げたはずの昼食の盆は、意外なことに、そこまで荒れてはいなかった。

 茶碗はひっくり返っているし、焼き魚や漬物は皿を派手に飛び出しているものの、湯呑や味噌汁椀はしっかりと直立している。汁物がほとんど無事なのは奇跡だった。

 俺は急いで飯を食器に戻し、盆の汚れを服の裾で拭った。


「ごめん。遅くなって」

「全くだ。台無しになるところだったぞ」


 恐る恐る座敷牢に盆を差し入れる。頭上から降ってくる声に釣られて顔を上げると、そこに居たのは別人だった。

 ……否、語弊がある。昨日とは別人のように正気付いた兄貴が、俺を睨み付けていたのだ。


 異様な風体はそのままだ。だが、狭い座敷牢を圧迫するように背を伸ばして座る様は、閉じ込められていると言うよりは、鎮座しているとでも言うべきだった。

 ぼさぼさと顔にかかるばかりだった白髪混じりの髪は後ろに撫で付けられ、そり返ったり剥がれかけてた鱗は、ぴたりと肌に吸い付いている。まるでそこにあるのが当然というように、しっとりと頬に馴染んでいた。

 真一文字に結ばれた唇と、瞳孔を引き絞るように俺を見るその男は、記憶の中の兄貴と変わらない。


「兄貴……」

「なんだ」


 俺が小声で呟くだけで、間髪入れずに返事が返ってくる。やっちまったと思った。

 兄貴は無駄口が嫌いだ。俺はそれを知っている。だから、俺のぼんやりした呟きにも、何らかの意味が必要だった。

 俺は必死に鈍い頭を回して、なんとかそれらしい疑問を捻り出した。


「あ……っと、その。今日は体調が良いのかなって」

「悪くはない。どういう意図の質問だ?」


 兄貴は右手の箸を器用に動かしながら、さくさくと飯を平らげていく。合間に投げかけられた返答は驚くほど明瞭かつ端的で、俺は尋問を受けているような気分にすらなった。


「き、昨日とは随分……様子が違うから。母さんは儀式つってたけど、本当にそれのせいなのかって、思って」

「そうだ。なんだ、詳細については聞いていないのか?」

「マジなのかよ……。なんか、儀式ってやつがあって、兄貴がミスって……神様?に半分持っていかれちまったって、そのくらいだよ。俺が聞いてるのは」

「ほとんど何も聞いていないようなものだな。いや、そもそもお前が知らんというのが、まずおかしな話だが」

「ご、ごめん……?」

「全くだ。こんな状態で説明する俺の身にもなれ」


 兄貴は一旦箸を置いて、湯呑みの茶を煽った。手首まで続く鱗が、今日はやけに光って見える。


「掻い摘んで話してやる。全て語ったところで、お前の理解力ではほとんど無駄になりそうだ。

 ……この村は始まりからして神と共にあった。荒れた地を肥やすのも、野盗を殺すのも、その神無くしては叶わなかった。

この家の当主は、代々神の力を借り受ける役目を負っている。だからこそかつては肝煎りを名乗り、今日まで権力を保っているわけだ」


 物語を読み聞かせるように、兄貴は淀みなく話し始めた。俺は聞いている他ない。

 正直なところ、逃げ出したくて仕方がなかった。どう考えても面倒ごとだからだ。知ってしまえばすっとぼけることもできなくなる。

 逃げ出せなかったのは、ひとえに兄貴の眼光が鋭すぎるせいだ。


「現代になってもそれは変わらない。人間の手で出来ることが多少増えたからと言って、神との約定を違えることは許さない」

「約定……俺達の先祖との?」

「ああ。具体的な内容までは知らなくて良いが、この家が神との約束を守らなければならんことは分かれ」

「まあ、約束なら、うん」


 俺はなんとなく頷く。兄貴の断言的な口調に流されたのもある。とはいえ、一度交わした約束は守るべきだろう。ごく一般的な感覚として。


「約定の一つが、当主代替わりの儀式だ。儀式の中で次の当主は神に宣誓し、神は当主に力を分け与える。滞りなく進めば、神の力は当主に根付き、当主とその一家は神との約束を守りながら村を治めることになる」

「……ん?待ってくれよ。それだと父さんも、会ったことないけど爺さんも、その、神の力?を持ってたってことになるけど?」

「そうだが」

「そうなの!?」

「何を今更驚いている。当主代替わりの儀式といっただろ」

「そ、それ、まずくない?遺伝とかしないのかよ」


 俺は急に不安になった。

 神の力云々は半信半疑だ。兄貴がここまで冗談をいうとも思えないが、流石に全てを真剣に捉えることはできない。俺は除け者だし、どうせ他人事だとも思っている。

 だが、先祖代々そんな胡乱な奴だというなら、話は別だ。親父がいつ鱗人間になったのかは分からないが、その血を引いている俺も、いずれとんでもないことになるのだろうか。冗談にしてもタチが悪い。


 目を白黒させる俺に、兄貴は呆れを通り越した侮蔑の目をむけた。


「するか、馬鹿。でなければ儀式など必要なものか。

 大切なのは資質ではなく手順だ。この家が何故今日まで神の特別でいられたか考えろ。神の力が遺伝するのであれば、今頃この狭い村は神で溢れているだろう。そうなっては有難みが無い」


 兄貴は、本当にお前は阿呆で愚図だ、羽虫程度の脳しかないのか、と流れるように吐き捨てた。全部真実だから、俺は縮こまるしか無い。軽率に口をきくべきではなかった。


「大切なのは手順だ。それがあって初めて、神は人間と接触できる。……その手順を違えたから、俺は今この有様ということだ」


 兄貴は苛々と手を擦り合わせた。鱗のある右手と、白い左手が交互に上下する。

 絡み合う蛇のようだ、とちらりと思った。二匹の蛇が互いを喰いあおうとする様に似ている。


「忌々しいことこの上ない。あれが残っているせいで、俺は半身分の自由しかきかない」

「あれ……というのは、昨日の?」


 俺は昨日ここを訪れた時のことを思い出す。見かけは今の兄貴と同じだが、兄貴とは思えないほど柔らかい声を出す男。あれこそが、失敗した儀式の産物なんだろうか。


「そうだ。あれが表に出ている間、俺は俺の意思を失う。記憶も残らない」

「二重人格みたいだな」

「言っておくが、俺が主だ」

「じゃあ、鱗とか、この座敷牢はソイツのせいなのか?」

「そうだ」


 兄貴は一瞬目を細めた。実に自然な表情だった。鱗に覆われた筈の目尻が、滑らかに釣り上がり、また戻った。


「儀式をやり直す必要がある。逃げるなよ。お前はこの家の次男だ」

 

 そうやって俺に釘を刺す兄貴の右目は、濁りなく光っていた。

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まだらの蛇 コトヒラ @anayannurukana

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