まだらの蛇
コトヒラ
第1話 白い方
就活に失敗した。元々真面目にやる気もなかったから、当然の結果と言える。
俺は就浪なんて賢いやり方は知らなかったし、だらだら卒業すると同時に学生アパートからも叩き出されたから、まさしく路頭に迷っていた。
だから、実家から戻ってこいと連絡が来た時も、特に何も考えずに荷物をまとめた。
俺の故郷は馬鹿みたいな田舎だった。
ぼけっとした田畑の間に思い出したように民家がある、間延びした土地の使い方をしていた。
実家はその中でも特にデカい。その阿呆らしい敷地面積のせいで、ガキの頃の俺と兄貴は、夕飯を食うにも自転車に乗って母屋まで行かなければならなかった。
もとは肝煎だか名主だかの豪農らしく、村限定だがまだそれなりの権威がある。路頭に迷った次男坊の就職先くらい適当に斡旋してくれるだろう。
ひょっとすると働かなくてもやっていけるかもしれない。
「それがまさか、こんな事になるなんて思わねえじゃん…」
「こんなこと?」
あまりの現実味の無さにため息を吐く俺の前で、その男は緩やかに首を傾げた。脂気を失った白髪混じりの髪がバサリと揺れる。
俺は時代錯誤の木格子越しにその男を眺めた。
伸び放題の前髪から覗く目玉は、片方が薄ら濁っている。
無意味に弧を描く口元は、右側だけが引き攣れている。頬をまばらに覆う鱗のせいだ。
暗褐色の鱗は首をつたい、手首あたりまで侵食している。がさがさに乾き、所々捲れた鱗は、治りきらない瘡蓋のようだ。
そいつは長い手足を折り畳み、窮屈そうに背を丸めて座っていた。
俺はこんな化け物じみた奴など知らないが、どうもこいつは兄貴なのだという。
確かに、涼やかな目元や、切り出したような鼻の形は兄貴のものに違いない。
兄貴なら絶対にしないであろう、呆けた笑みに頭が痛くなる。
俺の知る兄貴は、いつでも背筋を伸ばし黒髪を撫で付け唇を引き結び、この世の全てを躾ける義務を負っているような表情をしていたはずだ。
無駄口を叩く奴も嫌いだったから、不要な鸚鵡返しなんか絶対にしない。
ついでに言えば、暗い座敷牢等に大人しく収まっているタマでもないし、その謂れもなかっただろう。
……座敷牢。
こんなものが我が家にあった事にも、俺は大変なショックを受けている。
格子の漆はまだらに剥げ、虫喰いの穴が空いていた。座敷の畳も黴が浮き、比較的マシなものも毛羽立ちが酷い。
しかし、よくよく目を凝らせば、補修跡や交換の形跡が見えた。長く実用されてきたものらしい。
嫌過ぎる。
兄貴のような生き物は、俺の無遠慮な視線に不思議そうにしていたが、やがて興味を失ったのか、緩慢な動きで飯に手をつけ始めた。
俺が母親に言われて運んできた昼食だ。
動揺して揺らしたから、油やら汁やらが盆を汚しているが、それを嫌がるそぶりもない。
左手に箸を握り込み、ボロボロと溢しながら冷めた飯を食う兄貴など、見たくはなかった。
「しゅうじ」
名を呼ばれて弾かれるように顔を上げた。
髪も肌も異様な男が、米粒を口内に入れたまま、俺に微笑みかけてくる。
「また会えて、うれしいよ。ありがとう」
幼児のような口調だった。
あり得ないことだ。
限界だ、と思った。俺は勢いよく立ち上がり、早足で踵を返した。
自分がどんな顔をしているかわからない。
とにかく異常のない場所に行きたかった。
俺はジメジメした隠し階段を駆け上がり、曲がった廊下を走り抜け、仏間を突っ切った。
まだ地下の淀んだ空気が身体に纏わりついている気がする。振り切るように走る。ここではまだ息を吸えない。異常のない酸素を吸いたい。
そのまま母屋の玄関を飛び出しかけて、急に足が止まった。
なんてことない、田舎の玄関だ。都心のアパートの五倍くらいでかい三和土に、母親の小さい靴がいくつか揃えてある。
それに混じって、俺の汚いスニーカー。ゴミ出し用のつっかけ。下駄箱の上に木彫りの猫。紐を編んだ民芸品。母親の鍵入れ。天然木の衝立。
俺が十数年、普通に暮らしてきた母屋の玄関だ。自室のある別棟から、毎日飯と風呂の為に通ってきた玄関だ。
この玄関が、母屋が、地下の座敷牢などという異常に繋がっている。
毎日俺と飯を食い、風呂に入った筈の兄貴を監禁している。
それなら。
どこまで行けば普通に息ができるのだろう。
あの暗い土の臭いを振り切れる?
足は動かない。俺の頭では分からない。
「戻ったなら声をかけなさい」
不意に声をかけられて、心臓が縮み上がった。
母親だ。ぎこちなく振り返ると、彼女は無表情のまま俺の全身を一瞥し、「食器は持ち帰って来なかったの」といった。二度手間ね、と気怠そうに呟く。
玄関の小窓から差す強い光が、彼女の足元に濃い陰を作っていた。
不意に、問いただすべきだ、と強く思った。俺にしては珍しいことだった。
俺は母親の陰に目を落としながら、乾いた舌を動かした。
「あれは……なんなんだよ。おかしいだろ、全部」
「今更説明が必要?……ああ、貴方はお父さんのお葬式にも帰ってこなかったんだものね」
母親は俺の記憶通りの、品の良い、どこか無気力な顔付きで俺を見る。
「葬式って……そっちが来るなって言ったんだろ」
つい本筋と関係ない文句を言ってしまった。
元々病気がちだった親父のことは、正直あまり覚えていない。顔を合わせるのは辛気臭い行事の時だけだった。
だから三年ほど前、親父が死んだと聞かされた時も、大した感想はなかった。
それでも一応は家族だから、情も無いではないし、葬式に顔を出さないのも体裁が悪い。
だというのに、親父の訃報を伝えるその口で、兄貴は猛烈な剣幕で俺を叱りつけた。
「お前みたいな無作法者を、当主の葬式に出せるものか!軽率なのも大概にしろ、絶対に帰ってくるな!愚図!」
そこまで言われて、なお参列するほどの愛や情なんか、俺が持ち合わせるはずがない。
そのままなんとなく、ずるずると帰省の機会を逃してきた。久々の帰省がこうなるとは、露ほども思っていなかった。
「そうだったかしら」
「なんで知らないんだよ」
「知らないわ。あの時は必要なかったから」
母親は茫洋とした眼差しのまま続けた。
「お兄ちゃん、当主の代替わりの儀式に失敗したのよ」
「ぎ……は?儀式?」
儀式。
馴染みのなさ過ぎる単語に、俺は一瞬面食らった。馬鹿みたいに鸚鵡返しをして、ああまた兄貴が嫌がりそうな反応をした、と脳味噌の端っこが思考する。脳味噌の中心の方は、実はずっとまともに動いていない。
「お父さんの三回忌も終わったからね。色々と準備もしてきたし、あの子なら大丈夫だと思ったのだけど。
肝心なところで手順を間違えたんだわ。
そのせいで、とても中途半端な状態になってしまった」
まるで台本を読み上げるように、母親は平坦に話を続ける。その声には、なんの葛藤も、疑念も浮かんでいない。
つまり、彼女は前提の話をしているだけだ。
「え、は、な、何それ?なんかの…冗談?」
母親の表情は変わらない。そうだろうと思った。それをわかっているくせに、俺は理解を拒んで無駄に言葉を費やしている。
「百歩譲ってその、代替わりの儀式、ってもんがあったとして、それに失敗したって鱗が生えたり白髪になったりはしないだろ」
俺の声はみっともなく震えていた。俺の前提が揺るがされ、異常に接続される、その予感に怯えていた。
聞かなければ良かったと、ようやく動き出した脳味噌の中心が言ってる気がする。遅すぎるし、鈍すぎる。
いつものことだ。
「するわよ。だって、お兄ちゃんは今、半分神様にお渡ししてしまっているんだから」
当然のような声で、あの子も愚図ね、と母親はつぶやいた。
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