第9話 大切なもの
肩を震わせる彼女の泣き声が消えたのは、屋敷に着いてから三十分ほどのことだった。膝の上で縋るように顔をうずめていた彼女は今、泣き疲れた様子でぐったりと身を寄せている。
(……眠ったか)
それを確認したルシウスは、髪を撫でていた手を止めると、ゆっくりと立ち上がった。そして、彼女を数部屋離れた場所にある寝室へと連れて行く。
本来なら、長い脚を覗かせた無防備な姿に胸が高鳴る展開も、今回ばかりは、彼の心を高揚させはしなかった。
ただ眠る彼女を見つめ、そっと、目元に触れる。
(赤く腫れているな……。どれほど泣いていたのだろう、セシリーヌ……)
長い睫毛に彩られた目の周りは、海上に現れたときからずっと真っ赤に腫れ上がっていた。
おそらくは海の中でも相当責められ、枯れるほど涙を流していたのだろう。
彼女から
(まずは、この目元を癒やしてあげよう。目を覚ましたら、心もきっと……)
心配げな表情で目元を撫でていたルシウスは、一度離席した後で、小さなボウルを抱え戻って来た。
透明なボウルの中には、ルシウスの
この世界に数多存在する
薬草と
「……ん」
重たい瞼をこじ開けると、視界の先に見知らぬ天井が広がった。
ルシウスに縋り、彼の屋敷へと運ばれてから、どれだけの時間が経っただろう。窓の外ではオレンジ色に輝く夕日が、ゆっくりと空の向こうに消えていく。
もうすぐ
「目が覚めたか。セシリーヌ」
「……!」
柔らかなシーツの上に身を預けたまま、赤く色付く光を見つめていたセシリーヌは、心配を滲ませたルシウスの声に、視線を向けた。
ベッド脇の椅子に腰かけていた彼は、身を起こすセシリーヌを心配そうに見つめている。
「迷惑をかけてすまない。ルシウス……驚いたろう……」
「いや、俺よりきみの方が心配だ。目元や頬は痛くないか?」
「ん……」
覇気のないセシリーヌを気遣うように身を乗り出し、ルシウスは彼女の目元を撫でながら、そっと優しく問いかけた。
彼の治癒により腫れは治まっているようだが、見た目よりも心の方が心配だ。
揺れる青紫色の瞳を見つめ、静かに答えを待つ。
「……大丈夫だ。目は痛くない。それより話を聞きたいだろう、説明するよ」
「ああ……。ならば談話室へ移動しよう。今日は着替えなくてもいいから」
「……うん」
半分強がりだと分かっていながら、ルシウスはいつも着ている黒の
夕日はついに空の彼方へ消え失せ、菫色の夜へと変わっていく。
紅茶やお菓子を用意しようと、忙しなく魔法を使うルシウスを視界に入れながら、窓の外を見つめていたセシリーヌは、やがて小さく呟いた。
「もうすぐ水礼が始まる」
「……」
「なのに私は……」
「行くな」
「……!」
「行かなくていい、セシリーヌ。あんな殺気立った連中の元へきみを帰したくはない。今日は俺と……」
もの悲しげに、焦がれるように呟く彼女の言葉に、ルシウスは思わず抱きしめると、はっきりと告げた。
力強く自分を包む彼の手は、とても優しくて温かい。
本当に心配をかけてしまったのだろう。
胸の奥に痛みを感じながら、セシリーヌはうんと頷いた。
「……ありがとう、ルシウス」
龍樹の件は一旦保留とし、ルシウスは傷付いた心を癒そうと、できる限りのもてなしを行った。
手始めに、彼女が美味しいと笑っていたカップケーキやパイを作ってみたり、故郷に根付く魔法や、不思議な生き物の話をしてみたり。
姉に付き合わされて身に着いた料理の腕が、こんなところで役に立つとは思わなかったけれど、少しずつ笑みを零す彼女の姿に、ルシウスはほっとしていた。
「ありがとう、ルシウス。ずっと気遣わせてすまない。でも、とても嬉しかった」
すると、懸命に励まそうとする彼を見つめ、セシリーヌは改めて礼を告げた。
時刻は午後十時を回り、精霊に頼んで身支度を済ませた彼女は今、モスリンの寝間着姿でソファに座っている。
「気にする必要はない。もともと巻き込んだのは俺なんだ。それに、あのとき俺がもっと周囲を気にしていれば、こうはならなかっただろう」
「それでも、私は嬉しかったよ。慰めてくれたのはきみだけだ。姉は擁護してくれたけれど、父には怒られ、友人たちにも冷たい目を向けられた。それに……」
髪を撫でてくれる彼の横で、セシリーヌは小さく肩を震わせ、呟いた。
昨日、お使いを頼んだパルフィーが戻ってきてしばらく、突然父に呼び出しをされた。
もうすぐ就寝だというのに、何事だろうと向かった先で彼女を待っていたのは、怖い顔をした父と、心配そうな姉。傍には幼馴染みたちもいて、彼女はそこで朝まで詰問され続けた。
そして、海上に向かうと言い出した父の怒りから逃がすため、ルシウスの元へ向かったのが、ちょうど半日前のこと……。
あれからまだ半日しか経っていないなんて、嘘みたいだ。
「……今日はもう休もう。セシリーヌ。朝まで傍にいるから」
「ん……」
また泣き出しそうな彼女を抱きしめ、ルシウスはセシリーヌを寝室へと連れて行った。
初めての添い寝も、今日だけは照れずにいられるだろう。
遠くの海に焦がれながら、彼女は腕の中でそっと目を閉じた……。
――細い三日月が地上の夜を照らしている。
窓から注ぐ海風に、ゆっくりと目を開けたセシリーヌは、隣で眠る彼の美しい
何も言わず彼の添い寝を受け入れたのは、今この瞬間、彼を殺すためだった。
懐に忍ばせていた珊瑚を――海獣の牙で作られた短剣を手に握り、彼女はそっと息を吐く。
(………)
ルシウスには決して言わなかったけれど、夜が深くなるに連れ、焦燥感に駆られていた。
掟を破り、人間と
もう一度セイレーンとして生きるためには、自ら
それが、セシリーヌに与えられた、死よりも辛い罰だった。
(すまない、ルシウス……。私は、きみと出逢ってはいけなかったんだ。幼いあの日、私が過ちを犯さなければ、きみがこんな目に遭うことはなかったのに……)
鞘を抜き、象牙色の刃を彼の心臓に向ける。
あとは振り上げたこの腕を下ろすだけ。
苦しませたくはない。だから一突きで、彼の命を終わらせるんだ。
さようなら、愛しき人よ……。
「……っ」
その途端、彼女の頬を涙が伝った。
まるで心が抵抗するように、手を動かそうとするほど涙は溢れ、止まらなくなる。
早くしなければ、気付かれてしまうかも知れないのに。
これしか方法はないと、分かっているはずなのに。
どうしても、手が動かない。
「……俺を殺すの? セシリーヌ」
「……!」
と、声を押し殺して涙する彼女の頬を、今度は温かい手が包んだ。
ハッと視線を向けた先で、サファイアブルーの瞳が憂うように自分を見つめている。
「ルシウス……」
「海王の命令か?」
「……っ。すまない、ルシウス……。だが、こうしなければ、私は海へ帰れない……。このままでは私は、セイレーンとしての誇りを…力を……っ。なのに……」
ゆっくりと身を起こす彼の、愁いを帯びた瞳を見つめ、セシリーヌは泣きながら囁いた。
誇りを失い、力を失うくらいなら、彼を殺す方が心は楽だと思っていた。
だけど、刃を突き立てようと思うほど、心はひどく痛み、涙が零れる。海を愛しているのと同じくらい、自分は彼のことも愛しているのだろう。
今さらながら、それを突きつけられた気分だ。
「セシリーヌ。こんなことを言えば、きみの心を惑わせるだけかもしれない。だが俺は、きみがセイレーンであろうがなかろうが、きみを愛しく思う」
「……!」
「今回の件だけじゃない。きみが望んでくれるなら、俺はこれから先ずっと、きみと共に夢を叶えていきたい。傍にいてほしいんだ」
すると、涙を零す彼女を見つめ、ルシウスは静かに切り出した。
もしかしたら彼女は、今の今まで、ルシウスの想いになんて気付いていなかったかもしれない。
種族の差がある以上問題は山積みで、二人の恋路に平坦な道もきっとない。
だが、たとえそうであっても、彼女がきっかけで懐いた夢を、彼女と共に歩みたい。
それが、ルシウスの想いだった。
「ルシウス…私は……」
「きみの父上のことは必ず説得してみせる。あの程度で俺は諦めたりしない。だから立場を捨てて、きみの心を聞かせてくれないか?」
涙を拭うように頬を撫で、青い瞳を向けるルシウスに、セシリーヌは迷った後で、そっと彼に寄り添った。
恋を口にするには、まだもう少しだけ時間が必要で、だけど傍にはいたいと思う。これが今答えられる精一杯。どうか伝わるといい。
「……」
心からの想いを込め寄り添うと、ルシウスは優しく彼女を抱きしめた。
懸命に伝えようとする彼女の不器用さが、愛おしくてたまらない。こちらを見上げる美しい相貌を前に、理性が自然と溶けていく。
「セシリーヌ、一度だけ……」
「……っ」
まるで心が求めるように、ルシウスは気付くと顔を寄せ、彼女と唇を触れ合わせていた。
心の奥が甘く痺れるような口づけに、セシリーヌは驚いた後でそっと目を閉じる。
柔らかな熱はまるで、すり減った心を満たす魔法みたいだ。
自然と止まる涙を前に、彼女はただその熱を感じていた――。
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