第8話 逢瀬の代償

 雲一つない夏の空に、白い太陽が燦々さんさんと輝いている。

今日はセシリーヌに逢える大事な日。

昨日貰ったメモを手に、ルシウスはいつも通り、ジゼラの西海岸で彼女を待った。


(……そう言えば、今朝はセイレーンの歌が聞こえてこなかったな)

 その途中、寄せては返す波を見つめ、ルシウスはふと今朝のことを思い出していた。

ジゼラに滞在して一ヶ月弱。海の中からかすかに聞こえるセイレーンの歌は、朝と晩、必ずこの辺りにまで響き、何も知らない航海者たちを驚かせている。

セシリーヌ自身も朝晩の水礼すいれい…水の精霊のために歌う儀式は欠かせないものだと言っていた。

自分が聞き逃しただけならいいのだが、胸の奥を一抹の不安が過る。



「――ルシウス! 遠くへ逃げて! 今すぐに!」

「!」


 と、まるで彼の不安を裏付けるように、水が大きくざわめいた。

穏やかな風に反して渦巻く波は、やがて大きく盛り上がり、中から青い顔をしたセシリーヌが現れる。

酷く目を腫らした彼女は必死に逃げてと訴え、海中の影を見つめているようだ。

「セシリーヌ? 一体……?」

「早く!」

「――それ以上の庇いたては身を危ぶめるだけぞ、セシリーヌ」

「……っ!」

 突然の事態にルシウスが混乱していると、海に響くような低い声と共に、セシリーヌによく似た青紫色の瞳を持つ男のセイレーンが現れた。

鋭い矛を持った何人もの騎士を従えた彼は、傍目からも分かる怒りの形相で、浜辺のルシウスを見つめている。

「おぬしじゃな、我が娘をたぶらかした人間とは……っ! 許せん、今ここで断罪してくれる!」

「娘……?」

「待ってお父様っ! 話を聞いて……!」


 海水が沸騰しそうな勢いで怒る彼と、必死に取り縋るセシリーヌ。

二人のやり取りにようやく状況を理解し始めたルシウスは、驚いた顔で目を見開くと、思わず呟いた。

どうやらこの、深海のような藍色の髪に青紫色の瞳をした、見た目はどう見ても二十代後半の美丈夫こそセシリーヌの父親であり、数百年海を治めるという海王・ネプトリア。

そして、巨大な金の矛を構えた彼が突然姿を見せた理由は、おそらく、逢瀬の露見にあるのだろう。


「海王自らお越しくださるとは至極光栄ですね」

「……!?」

「私はルシウス・アフォロニアと申す者。ぜひあなたにも、私の話を聞いていただきたいと思っていました」

 すると、セイレーンの言葉で必死に何かを訴えるセシリーヌと、声を荒げ怒る海王を交互に見つめていたルシウスは、おおよその状況を理解した途端、丁寧な言葉で語り掛けた。

セシリーヌは今回の件を、同胞の誰にも悟られたくないと思っているようだったが、どの道、種族が和解するためには王の理解が必要だ。

龍樹りゅうじゅの件にカタが付き次第説得し、ネプトリア王への謁見を取り計らってもらう予定が、少し前倒しになっただけ。

怒れる海王を前にも物怖じせず告げると、彼は美丈夫が台無しになりそうな顔で、叫ぶ。

「おぬしの話なぞ聞くわけなかろう人間! そうやって娘を……っ!」

「誑かしたと? まあそれなりに否定はしませんが、大事な話なのです」


 再会したばかりのセシリーヌと同じ…いや、その何倍も聞く耳を持たない海王に、ルシウスは肩をすくめ、どうにか説得を試みた。

やはり、掟を絶対とする種族はそれに固執し、頑固になる部分があるのだろう。

セシリーヌしかり、親子揃って強情なことだ。

「……!」

 と、同じように説得を試みるセシリーヌを視界に入れながら苦笑していると、突然甲高い音が響き、その勢いで彼女が砂浜に投げ出される姿が見えた。

間一髪、波打ち際で受け止めたものの、涙を流すセシリーヌの頬が赤くなっていることに気付いて、ルシウスの目が大きく見開かれる。

まさか、自分の娘を殴ったのだろうか。

「……っ」

「セシリーヌ…――」

 唖然とするルシウスの一方、彼女の横に珊瑚でできた長細い棒のようなものを投げた海王は、セイレーンの言葉で何かを彼女に突きつけた。

ルシウスにその言葉を理解することはできなかったけれど、溢れた涙から、なにか酷いことを言われたのだろう。打ちひしがれた顔で涙する彼女の姿に、胸が痛んだ。

「――…」



 セシリーヌにあることを言いつけた海王は、最後にフンと鼻を鳴らし、海へ帰って行った。

こちらの弁解になど微塵の興味も示さず、怒りのまま睨む父の視線はあまりにも恐ろしい。

普段温厚なだけあって、怒り狂う父の形相に、逢瀬の罪深さを突きつけられた気分だ。


「セシリーヌ。簡単なことだ。そうだろう?」

「……」

 すると、波打ち際でルシウスに支えられるセシリーヌの元に、オークスが近付いて言った。

怖い顔でルシウスを睨みつけた彼は、ネプトリア王が置いて行った珊瑚を手にしている。

やはり、彼もこの逢瀬をゆるしてはくれないのだろう。

「……お父様に告げたのは、オークス、あなた……?」

「……っ」

 涙で滲む視界に彼を映し、セシリーヌは静かに問いかけた。

もし、ルシウスとの逢瀬を誰かに見られていたとしたら、あの日、自分を迎えに行っていたという彼の可能性が一番高い。

それに、姉たちなら直接事情を聞いて来るだろうし、他の友人たちも、あの時間は水礼のため各地の海へ散っていた。

だからもう、考えられる選択肢なんて、ほとんどありはしないのだ。

「怒ってなんかいないよ。悪いのは私だって、分かってる」

「じゃあさっさと……!」

 半分確信を込めて問うと、オークスは一瞬間を空けた後で、苛立ったように珊瑚を差し出した。

やはり父に告げたのは彼なのだろう。そうと思うと、より一層悲しくなる。

いつだって傍にいてくれた幼馴染みでさえ、自分の行動を、赦してはくれないんだな。


「取り込み中だったら失礼」

「!」

 と、波打ち際で話す二人を遮るように、突然ルシウスの横やりが入った。

母国語で話し続ける彼らが、どんな会話をしているのかは理解できなかったけれど、今はとにかく、悲壮な顔で涙を流し続ける彼女をどうにかしたいと、つい言葉が出てしまった。

反応を見るに、彼の方は人の言葉が分からないようだが、それはこの際関係ない。

早く彼女の涙を、癒してあげたいんだ。

「セシリーヌ、一旦屋敷へおいで。何があったのか、詳しく聞かせてほしい」

「ルシウス……」

「それに、他の人間が来たら厄介なことになる。だろう? さあ」

 青紫色の瞳を涙で濡らし、視線を向ける彼女に、ルシウスは両手を差し出した。

彼の口調はいつもと変わらないままで、父の一方的な物言いにも、突然の事態にも、一先ひとまず平静を保っていることが窺える。

心配と優しさを混ぜた瞳に、つい、甘えてしまいたくなった。


「……つ」

 幾度かの逡巡の末、セシリーヌはおずおずと手を伸ばした。

そして、首元に腕を回す彼女を、ルシウスはそっと抱きしめる。

普段は凛としていて、気高い雰囲気を持つ彼女が泣く姿は、見ているだけでやるせなかった。

一刻も早く慰めてあげたい。急くような気持ちを胸に立ち上がったルシウスは、ふと自分に向けられた視線に気付いて、言う。

「彼女は俺が預かる。通じていないかもしれないが、きみに渡す気はない」

「――…」

 懐に忍ばせていた杖を取り出し、風の精霊に願う傍ら、彼は怖い顔で自分を睨みつけるオークスに、毅然とした態度で告げた。

この青年がセシリーヌにどんな言葉をかけていたのかは、分からないことだ。

だが少なくとも、涙する彼女を慰めている雰囲気はなかった。

たとえ彼が誰であろうと、そんな奴に彼女を任せられるわけがない。

セシリーヌは、ルシウスの大事な女の子だ。



 風の精霊に運ばれ、二人はルシウスが暮らす白壁の屋敷へと向かう。

民家から少し離れた場所にある屋敷の周囲は、いつものようにがらんとしていて、魔法で出入りしていても気付かれはしない。

それを確認したルシウスは、海辺に面したバルコニーに降り立つと、彼女をいつもの談話室へと連れて行った。

そして、彼女を抱いたまま、ソファにそっと腰を下ろす。

光の差し込む室内は、蝋燭を点けなくても平気なほど明るいはずなのに。

どこか霞んで見える二人きりの室内に、彼女の泣き声だけが響いていた。


「……すまない、ルシウス……」

 やがて、彼女を優しく抱いたまま、何も言わず頬を撫でるルシウスに、セシリーヌは掠れるほど小さな声で呟いた。

本当は一刻も早く状況を聞きたいはずなのに、彼はずっと自分を包むように抱いて、優しく慰めてくれている。

温かいぬくもりに、涙が止まらなかった。

「今は何も言わなくていい、セシリーヌ」

「……!」

 すると、どうにかして口を開こうとするセシリーヌに、ルシウスは優しく告げた。

無理に話を聞いたところで、何かが解決するとは思えない。

今はただ、傍に……。

「俺はずっと傍にいる。気の済むまで泣いて、話したくなったら、事情を聞かせてほしい」

「ん……」


 涙を拭うように目元を撫でる彼の言葉に、セシリーヌはまた涙を零した。

ルシウスの傍は、自分が思っている以上に心地よくて、少し甘さのある花のような香りが、ゆっくりと自分の心を落ち着かせてくれる。

だけど、冷静になればなるほど、父に言われたあの言葉が、彼女の涙を止めさせてはくれなかった。


 ――…あの砂浜で父は言った。

お前に帰る場所はないと。


 海とシーメル王国は、人間と逢瀬を重ねたセシリーヌを拒んだのだ。

もう一度海へ戻るためには、父が投げてよこした珊瑚に収められている刃で、彼を殺すしか道はない。

そして、去り際にオークスが持っていた珊瑚は今、彼女の手の中にある。

だけど……。


(……そんなことが私にできるだろうか。一体、どうしたら…――)

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