第3話 踏み出す覚悟

『きみが現れるまで、いつまでもあの海岸で待っている』


 唐突に語られた人間界におけるセイレーンの現状と、協力の話に心を揺らせたまま、一旦海へと帰ってきたセシリーヌは、帰り際に告げられたルシウスの囁きに、頭を悩ませていた。

既にあの日から二日が経ち、彼女は未だ、自分の立場を決められずにいる。

本当は、どうしたいかくらい、分かっているはずなのに……。


「ここしばらく、元気がないな、セシリーヌ」

「……!」

 と、脚を抱え、部屋で考え込んでいたセシリーヌは、不意に入り口から聞こえてきたオークスの声に顔を上げた。

茶色の瞳に心配を浮かべた彼は、滅多に見かけることのない彼女の悩む姿に、惑うような雰囲気を見せている。

「今朝の水礼すいれいもあまり楽しそうじゃなかった。歌はいつも通り綺麗だったけれど、なんとなく…悩んでいるみたいな……。何かあったのか?」

 海綿製のソファで丸くなるセシリーヌを見つめ、オークスは寄り添いながら問いかけた。

普段通りを装っていたつもりだったけれど、彼には気付かれていたようだ。

「……流石、幼馴染みの目は誤魔化せないね、オークス。でも大したことじゃないよ」

「俺でよければ話聞くけど…俺には言えないようなこと?」

「うーん、これは私の勇気と覚悟の問題なの。答えは分かっているはずなのに、怖くて一歩を踏み出せないままでいるというか……」

「……?」


 昔から親身になってくれる幼馴染みの言葉に、セシリーヌはつい、それを呟いた。

途端オークスは不思議顔でこちらを見つめ、首を傾げている。

幸い、何かに勘付かれることはなかったようだが、これ以上墓穴を掘るまいと、彼女はしばらく間を開けた後で言った。

「例えばそうね…いつ噴火するか分からない海底火山を横断するときの気分というか、先の見えない煙を前に立ちすくんでしまう感覚というか……うーん、何言っているのかしら、私」

「俺にも分からん」

「……オークスはさ、別の世界に行ってみたいと思うことはある?」

 だが結局、自分の感覚に対する上手い例えが思い浮かばず、首を傾げることになったセシリーヌは、抽象的な例えを諦めると、もう少し具体的な話をし始めた。

唐突な話題転換に、オークスは「どうした急に?」と惑っていたが、悩みがあると知られてしまった以上、納得させるだけの理由がなければ、彼は引き下がってはくれないだろう。

出来るだけそれっぽく簡潔な理由を見繕うべく、彼女は悩みながら言葉を続ける。

「その…本を読んだの。この間難破した船から落ちてきた本。キラキラと幻想的な地上の世界が描かれていて、いいなって思ったの。でも、うっかり地上に憧れちゃった、なんて誰にも言えないじゃない? お父様とかに怒られそうだし……。だけど、誰かに話したくて……」

「まさか、それで悩んでた?」

「そんなところ。言葉にするのって勇気がいるのよ」


 部屋の端に置かれた珊瑚の書棚を見つめ、セシリーヌはそう締め括った。

すると、彼女の答えにオークスは笑って、

「ははは、なんだ。そのくらい言ってくれればいいのに。俺は別の世界なんてよく知らないけれど、セシリーヌの話ならいつだって聞くさ」

「ん……」

「お前は昔から沈んできた本を収集する変な癖があるからな。この国で人間の言葉が分かるのはセシリーヌとネプトリア国王陛下くらいだし、読んだ世界に憧れを持つくらい平気だろ」

「変な癖は余計なお世話。でも、一応お父様には内緒にしてよ」


 ぽんぽんと慰めるように頭を撫でながら笑うオークスに、頬を膨らませたセシリーヌは、内心胸を撫で下ろしながらそっぽを向いた。

もし本当のことを知られたら、たとえ幼馴染みといえどゆるしてはくれないだろう。

だから、掟を破って人間と会い、これから先も会うか否かを悩んでいるなんて、絶対に言えないのだ。


「ぴゅー」

 と、複雑な顔でそっぽを向くセシリーヌの元にしばらくして、丸っこい何かがよろよろと泳いできた。

短い尾を懸命に動かし、覚束おぼつかない泳ぎを見せているのは、セシリーヌのペットで、魔力を持ったダンゴウオのパルフィーだ。

つぶらな瞳をこちらに向けたパルフィーは、楽しげに話す二人の間にえて入ると、肩にちょんとくっつき、何かを耳打ちする。

「……!」

 途端、硬い表情を見せたセシリーヌに、オークスは不思議そうな顔を見せた。

だが、それに気付かないふりをしながら、セシリーヌは一転して笑顔で話し出す。

「話を聞いてくれてありがとね、オークス。パルフィーが散歩に行きたがっているから、少し出掛けてくるよ」

「分かった。またなんかあったら言えよ。あと、夜の水礼に遅れんなよ」

「うん」



 オークスと別れたセシリーヌは、海淵かいえんに建つ宮殿を出ると、十五センチくらいのダンゴウオを肩に乗せたまま、ゆっくり海面に向かって浮上して行った。

海の色は次第に透き通る青へと変わり、地上までの距離が近付いてくる。

その途中、彼女の頭を過ったのは掟と彼の…ルシウスの言葉。

人間たちの島で起きている奇病の原因を突き止め、自分たちの潔白を証明できなければ、欧州国際連盟という巨大な組織が牙を剥くと彼は言っていた。

つまり、ルシウスの申し出を断れば、セイレーンは魔物のレッテルを貼られたまま、滅ぼされることになる。

強い魔力を持った海の戦士でも、圧倒的な数を前には敵わないことだろう。

だけど、人と関わってはいけないという掟もまた、数千年続く大事なものだ。

セイレーンである以上、先人たちの掟は守らなければいけない。

だが、国そのものを失っては、掟など意味を為さないのも分かっている。

死を覚悟で彼の手を取ることが、国の未来を繋ぐ唯一の希望なら、王女としての選択肢は一つ。

あとは、セシリーヌに腹を括るだけの勇気が出せるかどうかだ。


(掟と共に死ぬか、掟を破り死ぬか。私に突きつけられた選択肢はどちらも残酷だな……)


 ルシウスが待つと言ったジゼラ王国の西海岸に向かいながら、心の中で自嘲してみせたセシリーヌは、砂浜の左側に広がる岩石地帯に近付くと、そっと水面に顔を出した。

夏の太陽が容赦なく照り付ける地上は、溶けてしまいそうなくらい暑い。

その暑さに思わず目を細めていると、不意に頭上から人の声がかかった。


「ようやく決心がついたようだな、セシリーヌ」

「……!」

 唐突な声掛けに驚いて顔を上げると、海面から二十センチほど突き出した岩の上に、ミルクティーベージュの髪と宝石のような青い瞳が美しい青年、ルシウスが立っていた。

まるで待ち構えていたかのように笑う彼は、目を丸くするセシリーヌを楽しげに見つめている。

「なぜ、私がここへ来ると分かった?」

 声の主に内心胸を撫で下ろしながら、岩に手を掛けたセシリーヌは、行儀悪くしゃがみこむルシウスを見上げ、問いかけた。

セシリーヌの覚悟がいつ決まるかなんて、本人にしか分からないことだ。

にもかかわらず、わざわざ人気のない岩場で待っていたなんて、不審に思ってしまう。

すると、青紫色の瞳を細める彼女に、ルシウスは当たり前のように言った。

「先程、変な魚がこちらの様子を窺っていた。きみの遣いかと思い、セイレーンが近付いてきたら教えて欲しいと水の精霊に願っておいたのさ」

「変な魚とは失礼な。私のかわいいダンゴウオだぞ」

「ピンク色の時点で変だ。……まぁいい。そんな話より、俺に協力する気になったのだろう?」

「……っ」


 上から覗き込むようにこちらを見つめ、横にいるパルフィーの見解で揉めていたセシリーヌは、答えの直前、砂浜の方から聞こえてきた人間の声に身を固くした。

どうやら何組かの親子が浜へ遊びに来たらしく、はしゃぎ出す子供の姿が遠くに見える。

想定外の事態に、動悸が激しくなった。

「珍しいな。光の精霊mirage俺たちを隠して。浜にいる人々に気付かれないよう頼む」

 と、それに気付いたルシウスは、懐に忍ばせていた杖を取り出すと、小さく願った。

途端、魔力の結晶である淡い金色の光と共に、精霊たちが周囲に寄り添ってくれる。

だが、それ以上何もなく傍にいる精霊とルシウスを交互に見つめたセシリーヌは、首を傾げて言った。

「……? 何をしたんだ?」

「光の異常屈折を起こし、俺たちの存在を隠してもらった。蜃気楼みたいなものだ」

「そんなことも出来るのか……」

「もちろん容易い。だが、ここは暑さが堪える。一旦移動するぞ」


 感心とも取れるセシリーヌの呟きに笑みを零したルシウスは、そう言って手を差し出した。

これが、誘いを断る最後のチャンス。

この手を取ってしまえば、もう後戻りはできないだろう。

自分を見つめる彼の姿に、一瞬だけ、迷いが浮かぶ。

でも……。

「分かった。国のためならばこの命は惜しくない。きみの願いに応えるとしよう」



「……それで、私は具体的に何をすればいい」

 頭を過る迷いを霧散させ、彼に手を伸ばしたセシリーヌは、自分を抱き上げてくれたルシウスと共に、以前連れて行かれた白壁の屋敷にやって来ていた。

他の民家からは離れた場所にあるこの美しい屋敷は、ルシウスの所有物らしい。

慣れた様子で紅茶とかいう飲み物を出す彼を見上げ、セシリーヌは静かに本題を提示した。

「そうだな。まずはセイレーンの実態について詳しく聞きたい。本来なら奇病の原因特定を優先すべきだが、幾人もの医師に特定できなかったものがそう易々と分かるとは思えない。そちらは話を聞きながらおいおい調べるとしよう」

「分かった。先に言うが、私が滞在できる時間は長くはない。あまり海を離れていては他の者たちに不審がられてしまう」

「ああ。では早速、街に出てみよう」

 彼女の問いかけに笑みを返したルシウスは、湯気の立つ飲み物をあおり、立ち上がった。

そして、話を聞くことと、街へ出ることが上手く結びつかず首を傾げる彼女に、こう告げる。


「ただ話を聞くだけなんてつまらない。きみも、外の世界を見たいだろう?」

「……!」

「さぁ、外へ出よう。そしてきみたちのことを教えてくれ」

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