第1話 記憶の少年
「セシリーヌ、朝が来たわ。
「ん……」
青と藍が混ざり合う深い深い海の底。
美しい
ここは地中海の底に存在する海底国家・シーメル王国。
数千年もの間、他の種族との交流を断絶し、独自の文化を生きるセイレーンたちの王国だ。
「今日は珍しくお寝坊さんね、セシリーヌ」
「メイティナお姉様……、ごめんなさい。すぐに支度します」
そんな青白い光に照らされた室内で、少年の面影をぼんやりと見つめていたセシリーヌは、姉の声に慌てて起き上がると、優雅な仕草でチェストに舞い踊った。
水礼はセイレーンにとって大切な、水の精霊への儀式だ。王女である自分が遅れるわけにはいかない。
「トリテリスお姉様やオークスたちはもう外ですか?」
「ええ。みんなあなたを待っているわ。行きましょう」
海藻でできたチュニックに着替え、お気に入りの髪飾りで身支度を整えたセシリーヌは、姉に声を掛けると、共に宮殿の外へ泳ぎ出た。
深海魚たちがのんびりと泳ぐ宮殿前には、もう一人の姉・トリテリスを始め、数名の幼馴染みたちが談笑しており、皆セシリーヌの到着を待っていたことが窺える。
初めての寝坊に、心が苦しくなった。
「遅れてごめんなさい。トリテリスお姉様」
「やっと来たわね、セシリーヌ。さ、海面に行きましょ!」
「はい……!」
元気よく笑う姉の言葉に息を吐き、セシリーヌは合流した皆と共に、遥か頭上にある水面へ向かって、一直線に浮上していった。
冷たい海の底から、光の降り注ぐ人間たちの世界の、すぐ傍まで。海の色は次第に透き通る青へと変わり、陽光が海面をキラキラと輝かせている。
「今日は一段と光が強いわね。光と戯れる水の精霊たちって素敵だわ」
「おそらく、人間たちの言葉で言う夏という季節なんだと思います。気温が高く、陽の長い季節だと本に書いてありました」
「まぁ。相変わらず博識ね、セシリーヌ。じゃあその夏に負けないような楽しい歌を、精霊たちに贈りましょう」
水深十メートルほどの位置に到着した彼らを順に見回し、メイティナは光を見つめる末っ子に微笑むと、傍に寄り添っていた青年と共に、美しい音色を奏で始めた。
続いて、トリテリスやセシリーヌも傍にいた青年たちと手を繋ぎ、歌を奏でる。
彼らはこうして日に二回、水の精霊たちへ感謝を込め、水礼として歌を歌う。
精霊はこの世界に存在する、エネルギーそのものだ。
エネルギーたる精霊は、セイレーンをはじめ、身の内に魔力を宿した者の歌に力を増し、願いに合わせ、形を変える。
セシリーヌが一緒に歌うのは、焦げ茶色の髪をした幼馴染みの青年・オークス。
彼の低く伸びやかな声に自分の高い声を合わせ、水の中を自在に舞い踊る。
セイレーンが踊り、流麗な歌に煌めく精霊たちの姿は、息を呑むほどに美しい。
『沈んだ、沈んだ。船が沈んだよ』
『人間が落ちた、西の方』
と、しばらくして、海の中を優雅に舞いながら、幾つかの歌を終えたセシリーヌは、魚たちの声に動きを止めた。
群れを成して泳ぐ魚たちは、しきりに船のことを話し合い、彼女の横を通り過ぎていく。
どうやらこの近くの海で、人間の船がまた転覆したらしい。
気付くと姉たちも歌うのをやめ、困ったように顔を見合わせている。
「人間っていつまで経っても航海が下手ね。いっそ海へ出るのやめたらいいのに!」
「ほんとねぇ。でも、魚たちに人間なんて不味そうなものは与えられないわ。彼らを助けるのも私たちの仕事よ。行きましょう」
「はい」
半ば呆れ口調で肩を
ここらを通る航海者たちは、よほど船の操作が下手なのか、よく転覆しては溺れている。
初めのころは人との関わりを避けるため、彼らを放置していたセイレーンだったが、腐敗した木材や人間によって海が汚されることを避けるため、いつからか助けるようになった。
あの日も、また
「ったく、毎回助けるこっちの身にもなれって感じだよな」
すると、夜の海で助けたあの少年を思い出すセシリーヌの横で、共にいたオークスがため息と共に口を開いた。
少し長めの髪を
「仕方ないよ。これもまた古くからある掟だもの」
「まあな。それで落ちた人間…は…二人か?」
「うーん、そうみたい。
考えを断ち切るように前方に目を向けたセシリーヌは、彼に言い置くと、姉たちの傍に泳ぎ寄った。
状況にもよるが、大抵は女の子たちが人を運び、青年たちが船の残骸を運ぶ。
先に到着していた姉たちは、海に投げ出された二人の様子をじっと窺っているようだ。
「数秒前から
すると、セシリーヌの到着に気付いたメイティナは、ゆっくりと沈んでいく人間たちを見つめ、呟いた。
たとえ救助が目的だとしても、人に姿を見られるわけにはいかないのがセイレーンの掟。
故に、彼らが溺れ切るタイミングを見計らっていたようだ。
「よし。じゃあ、セシリーヌはあっちの男の子を西海岸に運べる? あたしとメイティナ姉様は、あの大柄なオジサンを南の浜に連れて行く。見つかるんじゃないよ!」
「心得ていますよ、トリテリスお姉様。行ってきます」
じっと目を凝らしたまま指示を出す姉の声に頷いたセシリーヌは、命一杯
膝まである長い黒の
それを確認した彼女は、青年の頭を抱えると、言われた通り、この近くにあるジゼラという小国の西海岸に向かって泳ぎ出した。
人間は水の中で呼吸ができないいきものだから、早くしないと死んでしまうだろう。
淡い桃色の尾鰭を懸命に動かし、一直線に海岸へ向かう。
(……誰もいないわね)
水面からそっと顔を上げ、周囲に目を向けたセシリーヌは、人の気配を気にしながら、波打ち際に青年を横たえた。
太陽が
(……!)
と、頬にかかるミルクティーベージュの髪の隙間から覗く
随分と大人びていてすぐには気付かなかったけれど、彼は、今朝夢に見たあの少年……。
見られてはいけない姿を見られ、言葉を交わした唯一の人間だ。
(二度も同じ海域で溺れるなんて、人間は愚かないきものね。だけど、私とて同じ轍を踏むわけにはいかない。海へ、帰らなければ)
月明かりが注ぐ夜。初めて助けた男の子。
浜に打ち上げ、海に帰ろうとした瞬間、見つかってしまったあのときのことは忘れもしない。
だけど……。
「……っ」
懐かしい姿に緩みそうになる頬を
そして、海に向かい身を乗り出した、そのとき。
「……また逢えると信じた」
不意に深みのある落ち着いた声がして、突然大きな手に腕を掴まれた。
驚いて振り返ると、サファイアブルーの美しい瞳が、自分を見つめている。
予期せぬ事態に、頭が真っ白になった。
「きみを探していたんだ。あのときのセイレーンを」
「……!」
顔を強張らせ、ただただ自分を見つめ返すセシリーヌに妖艶な微笑みを向けた青年は、腕を掴んだままゆっくりと起き上がった。そして何も言えずにいる彼女の腕を引き、優しく抱きしめる。
不意を突く行為に、セシリーヌは慌てて抵抗を試みたが、彼の手は意外なほど力強い。
思わず、離せと叫んだ。
「……離せと言っているのか? きみたちセイレーンの言葉は分からない。だが、きみは以前こちらの言葉を理解し、話していた。俺の話を聞いてほしい」
「……」
「分からないふりを続ける気か? ならば根競べといこう」
肩と腰のあたりに手を回し、なおもぎゅっと抱きしめる青年に、セシリーヌは頬を赤らめると、しばらく抵抗を続けていた。
だが、何度尾鰭をばたつかせても、砂が付くばかりでどうにもならないことを悟った彼女は、やがて諦めたように息を吐く。
「……離してくれ。あのとき言ったはずだ。我々は交われぬ種族、こんなところを誰かに見られるわけにはいかない。海へ帰らなくては」
好きで勉強しただけの
人間たちの言葉を使うのは、彼と出逢ったあの日以来……おそらく十数年ぶりだろう。通じているかどうかさえ危うい言葉に、それ以上言えず押し黙っていると、青年は笑って、
「根競べは俺の勝ちだな。だが、それは困る。まずは話を聞いてほしい」
笑みの後ですぐに表情を執り成した青年は、切れ長の瞳を向け、真剣な声音で囁いた。
彼の表情はどこか焦燥感に満ちており、
だが、そんな青年から目を逸らしたセシリーヌは、断固として首を振った。
「断る」
「……強情だな」
「きみこそ強引だ」
決して自分を離そうとしない青年に、文句にも似た言葉を紡ぎながら、彼女は俯きがちに言葉を紡いだ。
正直、こんなにも長く抱きしめられているなんて、今までに例がない。燦々と降り注ぐ日光も然ることながら、色んな意味で体が熱くなる思いだ。
「……ならば」
と、そんな彼女の水色の髪を見下ろし、青年は徐に切り出した。そして、重苦しい口調に視線を上げる彼女をまっすぐに見つめ、こう提示する。
「このまま状態を放置すれば、きみたちセイレーンの国が滅ぶ。そう聞いても、同じ態度を取っていられるか?」
「……!?」
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