あなたのためなら3回死ねる
サテブレ
あなたのため
「本日未明、城中(しろなか)町の高層ビルから女性が飛び降りたと警察に通報がありました。現場は閑静な」
ピッ
耳障りなテレビの息の根を止めてやった。
「ちょっと、なんで切るの!せっかく私のことやってたのに」
ソファーに座っていた女性がこちらを振り向き、膨れっ面を見せてくる。制服を着た普通の女子高生という感じだが、その制服には血がベッタリと染み込んでいた。ニュースの続きを見せろと苦情がうるさいかったが、そんなもの見ている気分じゃない。視線からさらなる抗議の意思を感じ取ったが、暫く無視していると興味を無くしたのか、部屋の中を物色し始めた。
部屋はよくある1LDKで、男の一人暮らしには十分な広さを兼ね揃えている優良物件だ。TV、机、ソファー兼ベット、その他最低限の物しか買い揃えてないので、物色しても面白くないと思うのだが、男の部屋が物珍しいのか、上機嫌で部屋中をうろちょろしている。見られて困る物はなくはなかったが、気がついた時にはすでに遅かった。
「あ、エッ◯な本だ」
「よし、死のう」
「相変わらず死にたがりだねぇ、南貝(ながい)のお兄さんは」
死にたがっているのはその通りなのだが、他人事のようにいわれると少しだけ腹が立った。こいつの邪魔されなければ、さっきのニュースで一面を飾っていたのは自分だったはずだ。
「は!いかん、いかん」
飛び降りでニュースになったところで、別に名誉なことではない。それに男の飛び降りなんて、ニュースにすらならないことだろう。そう自分に言い聞かせ、謎に芽生えた対抗心に蓋をする。
ふと部屋が静かになったと思うと、ベットの上で夢木が隠していた秘蔵書をペラペラめくっていた。お気に召したのか、真剣な表情でページをめくっては時折手を止め、訝しむように目を細めている。そんな姿をみていると、さっき見たことが嘘のように思えた。
本当は自分が落ちて死ぬはずだった。
何もかもが嫌になった。ネチネチとパワハラを受けながらやる仕事、面倒くさい人間関係、そこにままならない現実が重なり、生きる理由を無くした自分は気がつけばビルの屋上にいた。命を投げ捨てて、この世に痕跡を残してやる。そんな決意の持っていられたのも、屋上から下を覗くまでのことだった。あと一歩前に進むだけなのに足が竦む、何を怖気付く今更後には引けないだろ。それだけのことをしてきたのだ。
「お兄さん、何やってるの?」
声をかけられるまで、人の存在に気がつかなかった。誰も平日の昼間に、こんなところに来ないだろう。そんな思い込みがあったせいか、驚きのあまり足を滑らせてしまった。足裏の接地感が無くなり、体全体が微かな浮遊感に包まれる。この時は、あーこれから死ぬんだと思ったが、妙に頭は冷静だった。
だが、この時ビルから落ちたのは自分じゃない。落下が始まる前に服を掴まれ引きずり上げられた。代わりに助けてくれた人はバランスを崩し、30階の高さから落ちてしまったのだが、それが目の前にいるこの女だ。
「お前、なんで生きているんだ」
「3回、お兄さんのために死んであげる」
「なあ」
「あ、さっき1回死んだから、正確にはあと2回ね」
朗読するのに飽きたのか、秘蔵書はその辺に投げ捨てられていた。興味はすでに別の物に移っているご様子。今頃の子は話を聞かないと思ってしまうのは、自分が年老いてしまった証拠なのだろう。まだ、20代とはいえ10代とは隔たりを感じる。
様々とそんなことを考えていたらピンポーンとチャイムの音が部屋に鳴り響いた。きっとセールスか何かだろうと思い、無視を決め込むことにする。今はこれ以上見知らぬ誰かと話をしたくない。
ドンドンッ
返事がないのだから帰ればいいのに、激しくドアをノックされる。これは徹底的に無視してやると、自分の中のチンケな闘志に火がついた。
「南貝さーん、居るのは分かってるんですよ」
「お兄さん、出ないの?」
しゃがれたおっさんの声だった。
名前は表札で分かったのだろうが、なんでここまでしつこいのだろうか。その理由を考えていると、視線が自然とこちらを覗き込んでいる女の方を向いた。
その顔は妙に愛嬌があり、瞳はキラキラと純粋な光を放っていた。学生時代であったら一目惚れしていたシチュエーションだったが、枯れたおっさんの俺には効果はない。
外のおっさんと結託しているかもしれない。そんな懐疑の念を抱いたが、その清廉潔白な姿容を目の当たりにしたことで、逆に罪悪感という名のダメージが入った。
「(いやいや、女は平気で男を騙せるといってたじゃないか…)」
「ねぇ」
「お前、外のおっさんと仲間なんだろ?俺は金なんて持ってないぞ」
「あ、それ流行りのパパ活ってやつだ」
「お願いだから、真面目に答えてくれ」
「うーん、私はね…頼まれただけだよ。お兄さんを助けてあげてって。だから外の人のことはしーらない」
ガチャガチャガチャ
おっさんのアプローチがさらに激しくなる。いやはや自分がドアだったら惚れてたかもしれない。だが残念なことに、自分にそんな趣味はなかった。こいつの言ってることが本当なら外のおっさんは誰なんだ。流石にセールスにしてはしつこい気がした。
「南貝!!!これが最後だ。出てこないならドアを壊すぞ」
「クソ…おい、絶対に出てくるなよ」
「はーい」
ドアを壊されてはかなわないので、不本意ながら対応することにする。開ける前にドアスコープで外を確認してみると、厳つい顔のおっさんと、もう一人メモを取る若い男がいた。二人ともスーツにコートを羽織り、いかにもセールスマンですという格好をしているのに、どこか非現実的な恐ろしさを感じる。
二人が放つバイオレンスなオーラに気圧されて、後退りをしてしまうが、出ないわけにもいかないので、使ったことのないドアチェーンを、初めてセーフティに入れてドアを開けた。
「いいんだよこれぐらい…ほら、奴さん出てきた」
「あんた達、俺に何の用だ」
「いるならさっさと出てきなさいよ。私たちはこういう者だ」
おっさんは懐から黒い手帳を取り出し、パカっと開いてこちらに見せつけてくる。それはドラマや映画でしか見たことのない代物だった。
「警察!?」
「そう…何の用できたか、おたくが一番よく知ってるんじゃないかね」
「さ、さぁ、何のことかな」
「あくまでシラを切るか…通報があったんだよ。おたくさっきまで城中町にいたんじゃないか?」
「!!!」
警察のおっさんに問い詰められたせいで、脈が飛び心臓の鼓動が早くなる。てっきり、SNSで公にしたことについて言及されると思っていたのだが、どうやら別件のようだ。
違ったとはいえ、部屋の中を見られるのは非常によろしくない。血だらけの女子高生を匿っているとしれたら、直ちに現行犯逮捕されてしまうだろう。急なストレスで胸がチクチクと痛む、こんな事になるならあの時、無視しておけばよかった。そう思いビルでの出来事を思い返す。
放り投げられるように引き上げられたせいで、屋上の床に叩きつけられた体が痛む。だがそんなことも、忘れて急いでビルの下を覗いた。ブワァっとビル風が吹き上がり、高所恐怖症の人間でなくとも足がすくみそうな高さの先に、蚊を潰したような真っ赤なシミが見える。自分の不注意で人が死んだ。その事実を目の当たりにして、全身から血の気が引いていくのが分かる。
さっきまで死のうとしていたことなど、すでに頭から抜けていた。何かしなければという焦燥感に駆られ、ビルから駆け降りると既に人だかりができている。誰も落ちた女子高生には近寄らず、遠巻きに携帯を弄っているだけだった。そんな野次馬どもを押しのけて落下地点に近づくと、潰れたトマトみたいになった肉塊を目の当たりにする。その光景は幸運にも生きているのではないか。そんな希望を打ち砕くには十分なインパクトを持っている。
今まで精一杯生きてきたのに、なぜ自分ばかりこんな目に遭わなければならないのか、この時ばかりは無神論者の自分でさえ神を呪わずにはいられなかった。
「あーあ、早くも一回死んじゃったか」
「は?」
顔を上げるとそこには、さっきまでグチャグチャだった女子高生が血溜まりの中に立っていた。
セミショートに切り揃えられた黒髪に、赤銅色(あかがねいろ)の瞳、どことなく猫のような印象を受けるのは首についたチョーカーのせいかもしれない。
自分の願望が夢か幻を見せているのかとも思ったが、彼女の血ぬれた制服がここを現実だと教えてくれる。
「う、うわぁ」
「ちょっと、待ってよ!」
生きていて喜ぶべきなのに、この時の自分はパニックになってその場から逃げ出した。もう帰ることもないと思っていた、自分の家まで息の続く限り走って走って走りまくる。やっとの思いで家まで辿り着くと、さっきの女子高生が当たり前のようにドアの前に立っていた。
全力疾走で精も根も尽き果てていた自分には、推しかけてくる彼女を振り払う体力は残されていない。鍵を半ば強引に奪い取られ、部屋に上がり込まれてしまったのだ。
「ーーーーさん」
「ハッ!」
「聞いてますか南貝さん。さっきから上の空のようですけど」
「か、帰ってくれ」
「お、おい!」
いわれのない罪で逮捕される恐怖心から、ついドアを閉めてしまった。これでは自分に後ろめたい事があるといっているようなものだ。でもこの時はそんなことに頭が回らなかった。何とかしてここを凌がなければ、なぜならこの部屋には件の人間がいるのだから。
「お兄さん、困ってるの?」
「お前のせいでな」
こいつさえいなければ、誤魔化すという選択肢を取れたかもしれない。いや、そもそもなんで自分が通報されなければならないんだ。いくら考えたところで、理由は思いつかない。
だが、あの警察達に部屋の中を見られたら一発アウトなのは分かる。未成年誘拐で即逮捕されることだろう。今は捕まるわけにはいかない。
「ははっ、焦ってるお兄さんの顔…ぷっおもしろ」
「笑うな!なんで俺がこんなに頭を悩まさなければいけないんだ」
「はーごめんごめん。なら約束通り、私が助けてあげる」
「な、なにを」
「心配しないで、お兄さん私に任せて寝てればいいんだよ」
自分の目を塞ぐように、女が手のひらを翳(かざ)してくる。視界が遮られて一瞬で目の前が真っ暗になった。某国民的アニメの主人公じゃないんだから、こんなことですぐに寝れるはずがない。
何やら喧騒が聞こえる、またTVでも点けたのだろうか。このほんのりと暖かい手は心地よかったが、視界を塞がれるのもいいかげん煩わしい。どうしたものかと、思案していたところで瞳に再び光が差し込んできた。何故か微風と木漏れ日を肌で感じる。眩しさを我慢して目を開く事と、部屋は近所の公園になっていた。
住宅街の中にポツンとある小さな公園は、小さな遊具に砂場があるだけの簡素な場所だ。隣接する車道の往来も少なく、駐車場もないため近所の子供しか遊びにこない。平日だからか遊んでいる子供は片手で数えられる程度で、各々が遊具やボールで遊んでいる。
「し、信じられない…何が」
「あ、起きた」
人懐っこい顔が近い。どうやら公園のベンチで、膝枕をされて眠っていたようだ。目を塞がれたのはほんの一瞬の出来事だと思っていたのに、まさか自分は寝てしまっていたのだろうか。
仮にそうだとしても、玄関前で待っているであろう警察にバレずに、寝ている自分をここまで運んできたことになる。
そんな芸当が可能だとは到底思えないが、それ以外で目の前の光景を説明できない。
「お前、何をしたんだ?」
「ね、私に任せて正解だったでしょ」
「はー、もういい」
出会ってほんの数時間だが、いくら問いかけようとこの女がまともに答えないことは何となく分かる。きっとこれ以上言葉を重ねようが、猫が撫でようとした手を避けるように、のらりくらりと躱わされるに違いない。
「ねぇねぇ、何かいうことがあるでしょ」
「………」
隣で得意げに胸を張っているが、おそらく礼の一つでもして欲しいのだろう。態度から察してしまったが、なぜか腹立たしかったので、気が付かないフリをした。それに非現実的なことが度重なりおきたせいか疲れた。
「…お兄さんはまだ死にたいの?」
「もともと、そんな度胸持ってなかったよ。お前はなんで俺を助けたんだ」
「それがいおりとの約束だし」
「!!!」
思いもよらない返答に驚きを隠せない。いおりは昨日この世を旅立った自分の彼女だ。幼少期からの付き合いで、いわゆる幼馴染という存在だった。明るく人当たりもいい自慢の彼女だったが、二十歳を過ぎたころに大病を患い、入退院を繰り返すようになる。そしてつい先日、病の抜本的解決のため大手術を受けることになった。
手術は無事に成功、医師によれば後は経過を観察するだけで回復するそう聞いていたのに━━━
いおりの人生は唐突に終わりを迎える。
原因は不明、自分はその理不尽は現実を受け入れることができなかった。勿論、担当医のミスを疑ったが問い詰めても暖簾に腕押し、死という結果は覆ることない。人生に嫌気がさした自分は、腹いせに勤め先の不正を暴露し死を選ぶことにした。結局、死ねなかったわけだが。
「嘘をつくな!いおりの交友関係は大体知ってる」
「病院でお兄さんとも会ったことあるよ。まぁ、覚えてないだろうけど」
公園できゃっきゃと遊ぶ子供達の声、普段なら微笑ましいと思っていただろうが、こと今に関してはただただ耳障りな騒音と大差がない。いおりが自身が死ねば自分が後に続くことを予見していたのなら、約束についても理解できる。そう思うと涙腺から涙が止まらなくなる。それほど、自分という人間をそれほどまで理解してくれていたのだ。
涙の数だけ楽しかった記憶を思い出してしまう。あの時間が永遠に続くと思っていた。もっと一緒にいたかった。
「あ、ボールが」
子供の一人が遠くに転がっていくボールに着いていく。あのコースだと道路に出てしまうかも知れないが、きっと親が止めることだろう。そう思いつつも、目の端ではその様子を追ってしまう。しばらく様子を見ていたが、一向に親は止めにいかない。いや、そもそもママさん同士の井戸端会議で子供が道路に出そうなことに気がついていないようだ。そんな時に限って一台の車が、ボールとぶつかりそうなタイミングで向かってきた。
「おいおいおい」
本当に事故になるかも分からないのに、体は勝手に動いていた。「待って!?」という声が聞こえた気がしたが、止まるわけにはいかない。駆け出した足が重い、さっき逃げ帰るのに走ったせいだ。今日は大人になって一番走ったかもしれない。足がもつれて不恰好になっても前に進むことを止めなかった。
子供はすでにボールと共に車道に出ている。車も減速する様子はない。声を掛けても間に合わない、子供を助けるには一か八か突き飛ばすしかない。助けるために無我夢中で飛んだ自分を、誰かが襟を引っ張ることで静止した。勢いを失った体は自由落下を始める。天地がひっくり返るような感覚の後に、強烈な衝撃が体中を襲った。初めは車に轢かれたと思ったが、この衝撃は地面に叩きつけられたものだ。
ドカッという衝突音の後「うぁーん」と子供の鳴き声が始まる。体の痛みを無視して、道路を確認するため顔を挙げると、そこにはさっきと同じ血溜まりが広がっていた。自分の代わりに女が轢かれた。突き飛ばされた子供は膝を擦りむいた程度ですんだようだ。
「これで二回目だよ。お兄さん」
何事もなかったかのように女が立ち上がった。その体に車に轢かれた傷はどこにもなかった。轢かれた形跡があるとすれば、道路に残った血溜まりと制服に追加で血糊がついたことだろうか。
何かすごい音が━━━あら、私の息子は━━━
公園で井戸端会議をしていた親達が事故に気がついたようだ。ちなみに轢いた車はそのまま通り過ぎていった。いわゆる轢き逃げというやつだ。とはいえ轢いたはずの人間がピンピンしているので、警察にいったところで犯人は捕まらないかもしれない。
「やばい、また警察が」
「もう、お兄さんが飛びだすからだよ!とにかく逃げよ?」
腕を掴まれたと思うと、すごい勢いで走り出す。今日は走ってばっかだ。当てもなく走っているのだろうが、この街の風景はよく知っている。何故ならこの道は、いおりの家に向かう道だったからだ。なんの変哲もない住宅街にある一軒家、子供のころからいおりの両親にお世話になっていたことを思い出す。何となく、本当に何となくだがこの道を進むのは嫌な気持ちがした。
すれ違う人は皆が喪服に身を包み、ジャラジャラと数珠玉の音を立てている。この先ではきっと誰かの葬式をやっているのだろう。誰かのなんて知りたくない、きっと偶々昨日亡くなった人が近所に居ただけ、だからこの人たちが参加するのは誰かの葬式なのだ。
「普(ひろし)ちゃん、どこに行ってたの?心配したのよ」
声をかけて来たのはいおりの母親だった。子供の頃からの付き合いのせいか、大人になってもちゃん付けで呼んでくる。疲れたような表情に、急いでタンスから出したのだろう、防虫剤の匂いがする喪服を着込んでいる。
その姿を見ただけで分かる。この葬式はいおりを弔うものなんだ。今すぐこの場から離れたい。棺桶に入れられたいおりの姿なんて見たくない。
「お兄さんいかないと、見送るは残された者の義務だよ」
「お前…まさかこのために」
「約束だから、いおりが死んでもお兄さんが生きていけるように…初めはなんでいおりがお兄さんのこと好きなのか分からなかった。でもさっきので分かったよ」
「そんなこと、望んでなんか」
「さっきのおじさん達に捕まりたくなかったのは、これがあるからでしょう?」
そう言って葬式の立て看板を指差す。女の言っていることは正しかった。自分がビルの上から飛び降りれなかったのも、警察から逃げたのも、今日がいおりに会える最後の日だったからだ。
とはいえ自分はその事実からひたすら逃げていた。行き着く先が、いおりの葬式会場だったのは皮肉が効いていたが、これは逃げないで向き合え、そういういおりからの最後の願いによるものだったのかもしれない。
「でも…怖いんだ。いおりを見送ったら、本当に終わってしまうようで」
「いおりのいない、明日を生きるのが怖いの?」
「ッ!いおりがいたから、キツイ仕事も耐えることができた。いおりがいたから、理不尽な暴力も笑って許した。いおりが生きる理由なんだ」
「大丈夫、お兄さんならこれからも生きていける。もし何か辛いことがあっても、私が助けてあげるから」
「…分かった…行くよ」
「普ちゃん、さっきから誰と話ているの?」
おばさんの言葉にハッとして、辺りを見渡したが女の姿はどこにも見えない。周囲の人間に女の子と一緒に行動していたと説明したが、信用してもらえなかった。誰に聞いても口を揃えて、初めから自分一人しかいなかったと言われる。
そんなことあるわけない、そう思っても自分は彼女の名前すら知らない。
周りの人間に変な気を使わせつつも、とりあえずと別れを告げてこいと一輪の花を渡される。嫌々ながらも棺桶を除くと、そこには死化粧を施された、いおりが横たわっていた。
知っていたさ、死んでいることなんて━━
「これは楽しませてくれたお返しだよ」
彼女の声が聞こえたはずなのに姿はどこにも見当たらない。一瞬だけ目の前のいおりから意識が逸れた。すると花供えようと差し出していた手を何者かに掴まれる。恐ろしく冷たく、でもどこか優しい触り方をする、この手のひらの感触を自分はよく知っていた。
「普から花をもらうの初めてだ」
「い、いおり!?」
「はは、何なのその顔?面白い」
棺桶で眠っていた、いおりが目を覚ました。こっちを見て笑っているのは、驚きのあまり目を見開いて呆気に取られていたからだろう。でもそれは自分だけじゃない。参列した者達全てが同様の顔をしていた。
いおりが目を覚ましたのは、奇跡としか言いようがない。手術をした病院の医師達も現代医学では説明することはできないといっていた。
だが、そんなことは今の自分にはどうでもいいことだ。なぜなら再びいおりと生きることができるのだから。
━ミャオン
「今、むぎの声がしたような」
「どうしたいおり?」
「ううん、何でもない」
〜エピログ〜
刑事になりたての俺は今日も今日とて、先輩のおやっさんに連れ回されている。今回の通報内容は「痴漢してきた男が女の子の死体を連れ去った」だそうだ。
内容があまりに馬鹿げてる。イタズラか嫌がらせの類だろうと、同僚の皆が思ったはずだ。勿論、誰も動こうとしなかったのだが、唯一おやっさんだけがこの案件に反応した。同行を断るわけにもいかず、他の山に関わりたい気持ちを押さえて、通報と同時に伝えられた容疑者の家に赴くことにした。
どうやらニュースにもなっているようだが、どっかの一般人がテレビ局のハイエナ達に伝えたのだろう。警察からは何も正式に発表していないのだから。
仮に事件が本当だとして、犯人が素直に家へと帰るものなのか。そう思ったが、おやっさんは居ると確信しているみたいだ。
「はぁ、無駄足だったらどうするんです?」
「なんだお前藪から棒に…さては、他の山に気移りしてやがるな。SNSで暴露された◯◯商事の横領か?それとも××病院の医療ミスのほうか?」
「どっちもですよ」
「心配するな。俺の勘だと、南貝の野郎はそのどっちかに関係している」
「長年の勘ってやつですか?それにしてもやりすぎでは」
「いいんだよこれぐらい…ほら、奴さん出てきただろ」
おやっさんの言う通り、本当に南貝のやつが出てきた。平日の昼間っから部屋にいるなんて、この男はニートなのかと内心で思ってしまう。いや、これはただの八つ当たりだ。本当はおやっさんの勘が当たってちょっと悔しかった。
ドアチェーンが掛けられ、扉の隙間から見える南貝の顔は半分だけだが、随分疲れているように見える。ヨレヨレのワイシャツにバサボサの髪、憔悴し切った表情で視線をこちらに合わせようとしない。典型的な犯罪者の挙動に、経験の浅い自分でも何かあると分かった。
おやっさんと何個か言葉を交わした後、南貝は放心したように焦点が合わなくなり、その後こちらを捲し立て部屋に引きこもってしまった。その行動は何かを隠してますといっているようなものだ。ここまであからさまだと、通報された内容通りに、この部屋の中に死体が隠されているのかもしれない。
「怪しいですよ。部屋に突入しますか?」
「ばっかやろ、お前は何にも分かっちゃいねぇ…ありゃ死人の目だ」
「はぁ!?何を根拠に」
「ああいうことするやつは、大体何かデカイ置き土産をして死ぬつもり…」
話の途中でギィっと再び扉が開くと、中から出てきたの南貝ではなく一匹の黒猫だった。黒くてツヤツヤした毛並みの猫はニャーと一声鳴くと、股下を潜り抜けて何処かに走り去っていく。賃貸のアパートだろうにペットを飼っていいものなのか。当然の疑問が浮かんだが、そんな事より南貝の方が重要だ。逃げられぬように、ドアを開けた南貝に意識を戻す。
「はい、二人も眠ってね」
突然、若い女の声が聞こえたと思ったら、電球が切れたかのように視界が暗くなる。そのまま、深い眠りへと誘われてしまった。
あなたのためなら3回死ねる サテブレ @amearare-zero
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