最終章(第6章)

第6章


どこに連れていかれるのだろう。

そんな不安が私の心を満たし始めたとき、薄暗い部屋に着いた。

そこには私に似た人たちが大勢いた。

自分に似た人に会うのは、これが初めてだった。

お姉ちゃんもお母さんも、私とは似ていない。

この背の高い男の人も、ちっとも似ていない。

でもここには私に似た人がたくさんいる。

これが学校というものなのだろうか。

自分に似た人たちと一緒に過ごして、友達になる。

お姉ちゃんはここにはいないみたいだけれど、ここでお友達ができればお姉ちゃんみたいに楽しく過ごせるだろう。

家に帰ったら、お姉ちゃんに友達との楽しい話を聞かせてあげよう。

そう思っていると、みんなが一斉に騒ぎ始めた。

驚いた。

みんなが何を言っているのか、さっぱり分からなかったからだ。

私に似た人たちはみんな「ワン」という言葉しか持っていなかった。

そこで気が付いた。

私の言葉も「ワン」という音しか持っていないことに。

このことに気が付いた時、背筋に寒気が走り、目の前がチカチカした。

つまり、きっと、私がいままでお姉ちゃんに言ってきた言葉は、伝えたかった言葉の意味は、何も届いてはいなかった。

私がこの人たちの言葉を理解できないのと同じように、お姉ちゃんも私の言葉を理解できなかったのだろう。

そのせいなのか。

お姉ちゃんが私と話してくれなくなったのは。

私と話すよりも、学校の友達と話す方がずっと楽しそうなのは。

だって私の言葉は、お姉ちゃんには届かないのだから。

きっとお姉ちゃんの友達は、お姉ちゃんの理解できる言葉を話せるのだろう。

私と違って。


今まで気が付かなかった、想像も出来なかった現実に呆然としていると、いつの間にか夜になっていた。

お姉ちゃんもお母さんも、迎えに来ない。

なんでだろう。

とにかく今はただ、お姉ちゃんに抱きしめて欲しかった。

悲しくて、寂しくて、耐えられなかった。

気が付くと「お姉ちゃん!お姉ちゃん!」と夢中で叫んでいた。

でも自分の口からは、ワンという音しか出ていなかった。

「お姉ちゃん早く迎えに来て。お願いだから早く」

苦しい。

助けて。


朝になっても迎えは来なかった。

知らない人が時々やってきて、ご飯と水を置いていった

私は水を少し飲むだけで、ご飯に口をつける気にはなれなかった。

ただ頭が真っ白で空腹を感じる余裕さえなかった。

何も考えられなかった。

胸の奥を冷たいワイヤーで締め付けられているような痛みだけを感じていた。

そんな痛みの中で横たわりながら、時々「お姉ちゃん」という言葉が口からこぼれていた。


それから数日たって、お姉ちゃんもお母さんも迎えには来ないのだろうと思い至った。

私はこれから、ここで生きていくのだろうか。

この狭い檻の中でずっと。

水とご飯を持ってくるだけの何も言わない人と、何を言っているのかも分からない私に似た人たちに囲まれて。

恐らく、これから私が幸せを感じることはないのだろう。

お姉ちゃんに抱きしめられている時のような暖かい気持ちになることも、お姉ちゃんとキャッチボールをしている時のような興奮を感じることも、ないのだろう。


そのとき不意にお母さんの言葉を思い出した。

お母さんは最後にありがとうと言っていた。

あれはさようならだったんだ。

「あなたのおかげであの子はもう大丈夫。ありがとうね」そう言っていた。

お姉ちゃんはもう大丈夫だから、さようなら。

お姉ちゃんが元気なら、私はいらない。

私はお姉ちゃんが元気になるために、あの家にいたんだ。

私は最初から、あの家の家族でもなんでもなかったんだ。

だから、お母さんが私に話しかけることはなかった。

お姉ちゃんが元気に学校に行けるようになった今、私は本当に必要なくなってしまった。

お姉ちゃんもお母さんも、本当にもう迎えには来ないんだ。

もう分かっていたつもりだったけれど、迎えに来てくれない理由を、あの家に必要とされなくなった理由を、理解してしまうと、心のどこかにまだ残っていたかすかな希望が閉じて、目を開ける気力さえ無くなった。


それからまた数日が経った。

何も食べていない私は、ぐったりとして寝込んでいた。

そこに真っ白な服を着た男の人がやってきて、私を優しく抱きかかえた。

不思議な感覚だった。

もう幸せなことなんて起きないだろうと思っていたのに、こんなに優しく触れてもらえるなんて。

それに、全く力の入らなくなった自分の体にふわふわとした感覚があって、妙に心地がよかった。

この男の人の手からは、こんなにも優しいぬくもりが伝わってくるのに、顔を見ると眉間にしわを寄せていて苦しそうだった。

この人もご飯を食べていないのだろうか。

ハッキリとしない意識の中で、ボンヤリとそんなことを思った。

さっきまでいた部屋とは随分と違う印象の、明るくて清潔な部屋に連れてこられた。

そして私は銀色の台の上に寝かされた。

ほんの一秒前まで優しいぬくもりの手の上にいたのに、この台の上は凍えそうなほどに冷たくて息が詰まりそうだった。

お腹に伝わってくる冷たさも、異様なまでに清潔なこの部屋も、なぜかは分からなかったが全てが恐ろしかった。

さっきまでぐったりとして、力の入らなかった体がガタガタと震え始め、あまりの震えの大きさに自分の舌を強く噛んでしまった。

男の人は私の首を掴むと、台の上に押し付けた。

優しいぬくもりのある手だと思っていたが、今は得体のしれない怪物の手に思えてきて、怖くてたまらなかった。

「やめて!放して!」と言おうとしたが、私の口からは小さくうなり声が上がるだけだった。

そして首の後ろに鋭い痛みが走ると、先ほどまでガタガタ震えていた体が嘘みたいにおとなしくなり、静かになった。

強烈に怯えていたはずなのに、そんな気持ちも薄れて、どうでもよくなった。

悲しかった気持ちも、寂しかった気持ちも、苦しみも、全てが消えていく気がした。

そしてなにも分からなくなってから、小さくお腹の奥から絞り出すように声がもれた。

「お姉ちゃん」

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オンリーワン ゆうき @hiaiyuki

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