第七話 愛の証明

 総一郎を死なせられないという、怖れ。さらには、夜代の変貌そのものへの怖れもある。

 いつもの仕合と比べ、今の朝佳は、半減どころではなく弱化していた。

「本当に好きだったんだね……朝佳も、総一郎様のことが……」

 夜代は攻撃の手を止め、こう呟く。

「今のあんたの弱さが、何よりの証」

 口元から流れる血を拭い、朝佳はよろよろと立ち上がる。

「証……?」

「愛している、と――どんなに言葉を尽くすより、これに勝る愛の証明はない」

 言いながら、夜代は再び朝佳を蹴り飛ばした。

「ここまで弱くなるなんてね。総一郎様を失うのが、そんなに怖いんだ。そんなに愛してるんだ!」

 蹴られた腹部を押さえ、跪きながら、朝佳は問いかける。

「そんなことが……知りたかったの……? こうまでして、勝ちたかったの……? 違うよね……ねぇ、なんで? なんで、こんなこと……夜代なら、いずれ私を倒せるのに、なんで……ッ!」

「倒せないよ。もう二度と、私は朝佳に勝てない。それどころか、このさき私は武士としての力を失っていく」

「どういう……」

 何も呑み込めず、朝佳は困惑と怒りでぐしゃぐしゃになっていた。

 一方、刺された箇所からだくだくと血を流す総一郎であるが、恐慌には陥らず、冷静な思考で夜代の行動原理を悟っていた。

「夜代は、私のことを……そして、私以上に、朝佳を憎からず想っていた」

「そんなこと――」

 ない、と朝佳が否定する間もなく、本人が告げる。

「そうです。うちは、総一郎様も、朝佳も、かなしく思ってます。だから、手に入らないとなると……余計にかなしい。あなたたちは結ばれてしまった。きっと、その心は徐々にうちから離れていく。今以上に。それが怖い。来年、再来年、その先々が怖い――そう。怖いんです。孤独が……うちを弱くする」

 妖力こそが強者を強者たらしめ、妖力は怖れという感情に縛られている。この理に基づけば、夜代の精神状態は、武士として致命的といえるだろう。

 であれば、孤独を救ってくれる何かが必要となる。

「そんな、ひとりになんか――」

 言いかけ、しかし、またも朝佳の言葉は夜代に遮られる。

「なるよ。あんたたちがそばにいればいるほど、孤独は深まる。本当に欲しい……手に入らないものがいつもすぐそばにあって、いっそう苦しみ続ける。それが、うちの将来。考えただけで怖しい。こんな恐怖を抱いていたら、女として、なにより武士としてやっていけない。だから断ち切る。そう決めた」

 語る夜代の瞳は、ひどく滲んでいる。

「……怖れるほど弱くなる。それが、憂き世の理だから」

 言い括った――その表情を目にした朝佳は、ふらつくことなく立ち上がる。

 そして何かを言おうと口を開くが、声を出すことなく閉ざした。口惜しそうに歯噛みするのみ。

 すると夜代が、

「分かる。朝佳も、総一郎様も……ふたりとも、こんな今のうちですら、守ってあげたいと思ってくれてる。でも、気休めにもならないことを口にしない。そういう優しさが好き。憎めない。だからこそ、未練を断ち切らないと、うちは力を失う。だから……殺す」

 流れ出る血を抑えながら、総一郎が苦しげに声を振り絞る。

「……他に、手はないのかっ」

「憂き世と呼ばれる、この時代。それが、どれだけ愛に厳しいものか……怖れるほど弱くなる? それってつまり、怖れる余地があるほど、大切なものがあるほど、愛する人が、守りたいものが、あればあるほど、失うことを怖れるから……弱くなる。逆に、何にもなくて、身勝手で、奪うだけの奴は……強くいられる。それが憂き世。この日ノ本には、うちと同じ選択をした人間が、きっと溢れかえるほどいる。だって、そういう理だから。断ち切れば、吹っ切れれば、強くなれるんだから……だから、うちは決めました。憂いを払う、と」

 そのために、朝佳を殺す。

 確実に勝つために、そして、あとには引けないようにするために、総一郎を人質にした。動けぬほどの重傷を負わせ、けれど止めは刺さない。殺して終えば、朝佳は怒りと悲しみで我を忘れかねないから。そうなれば妖力を縛る枷がなくなる。

 卑劣な手段を使ってでも朝佳を打ち払う。そののち、改めて、愛した人を自ら手にかける。そうすれば想いはすべて断たれる。この先の人生が開ける。

 そう、夜代は結論づけていた。

「私と総一郎様を殺して、それこそ、この先どうするっていうの!?」

 切実に問いかけてくる朝佳に、夜代は冷たく返す。

「どうとでもなる。言ったでしょう。憂き世の理は、うちのような人間に味方している。悪辣に身を落とすと決めさえすれば、失うものはなく、怖れることもなく、力に困らなくなる。食い扶持なんていくらでもあるよ」

「……ならば、止めねばならん」

 総一郎は声音に圧を込めた。

 ここで止められなければ、夜代は先々も悪事に手を染めることになる。悲劇は一度だって起こさせてはならない。だから、

「流石は総一郎様ですね……その傷で立ちますか」

 総一郎は――青き装飾が施される壮麗な鞘の――打刀を腰に帯びていた。

 それを抜刀しようとする彼に、

「させません」

 攻撃を仕掛けようと、夜代は踏み出した。

 が、その動きが、さっきより鈍っているのを朝佳は見逃さなかった。

 横合いからの一閃。

 夜代はこの太刀筋を避けるため、体勢を崩しつつ横跳びする。そうして、いったんふたりから距離をとることとなる。

 ようやくの、朝佳による反撃だ。

 一方で、一度は立ってみせた総一郎だったが、やはり傷は深く、ろくに身体を動かせずにいた。

 朝佳は愛する人を背にしながら告げる。

「無理はしないで。血を流さないよう休んでいてください。代わりに……死なない、と。お約束ください」

「……ああ、自分の身は守る。私の心配は捨てていい」

 これはただの強がりではない。総一郎は妖力で傷口を封じるという器用をやってのけていた。

 その様子を振り返ることもなく、朝佳は力強く返す。

「はい」

 己を信じることと同様、他者を信じ切ることも、また勇気。

 愛する人の自力を信じ抜くことで、朝佳は怖れを押し込めようとした。彼は死なない。そう思うことができれば、怖れは払える。事実、妖力が少しずつ持ち直ってきていた。

 ただ、万全には程遠い。

 無理もない。気構えだけで克服できるほど、恐怖心というものは甘くない。恐怖の源がそこにある以上、確実に怖れは渦巻き、妖力を鈍らせてしまう。

 そして、それは夜代も同じで……

 総一郎を刺し、朝佳と決別してしまったことに対する不安。やはり後々後悔するのでは、と頭をよぎる、恐怖。

 ないはずがなかった。

 もしも本当に覚悟を決め切っていたのであれば、とっくに朝佳は殺されている。まだ終わっていないという事実が、夜代の中に怖れが残っているという証になっていた。


 総一郎の生命力を信じる朝佳――

 堕ちる決意を固めんとする夜代――


 どちらが、より、怖れを振り払えるか。それが勝負の行方を決める。

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