第八話 憂き世の理

「不甲斐ない……」

 と、総一郎は呟く。何もできない自分が恨めしい。見ていることしかできないというのは、これほど怖ろしいものなのかと思う。

 朝佳が負けてしまう。

 そうなれば自分も助からない、ということは考えに入っていない。愛する人の最期を見ることになるかもしれないという――ただ、その一点が何よりも怖い。

(頼む……)

 祈るしかなかった。

 すでに戦いは始まっており……早々に形勢も見えてきている。朝佳と夜代が刀をぶつけ合う。その一撃一撃ごとに、朝佳が仰け反っていた。

「どうせ負けても、うちは死ぬだけッ! 朝佳に殺されるなら、むしろそれもいいッ!」

 夜代は言ってのけた。

 失うものがなく、守るものがなく、ただ奪うのみ。怖れを芽吹かせる種がない。

 それが強さに直結する。

 理に支配されたこの世において、やはり有利は夜代であった。

 鍔迫り合いの形となり、みるみる押し込まれてゆく朝佳。迫る刃の切っ先に額を触れられて、たまらず身を退いて距離をとった――

 このとき、思いがけず戦局に変化が起きる。

 朝佳が額に傷を受け、流れ落ちてくる血を拭ったのだ。これによって、右目に施していた厚い化粧がとれた。

 すると、露わになった。かつてその目を傷つけ、視力を奪った、瞼に今なお残る火傷の跡が。

「なに、その目。いつからそんな怪我……」

 そういえば化粧を落としたところを見たことがなかった、と。夜代は思って、直後にハッとなる。

「もしかして……右目、見えてないの?」

「…………」

「……よく、そっち側に隙が多いとは思ってたけど、そういうことだったの? じゃあ今まで、そんな目でずっと私と対等だったってこと……?」

 夜代が動揺している。

 これは好機。生きるため、愛する人を守るため、

「そうよ」

 と、朝佳は身を裂く思いで首肯する。

「子供の頃からずっと、この目は暗闇。夜代は……不利を抱えた私と互角だった」

 さらに、心を殺す想いで叫ぶ。

「……つまり、夜代……あなたは弱い!」

 まさか、このような形で告白することになるとは思わなかった。

(ごめんなさい)

 と、心の中で言う。

 かつて、己を犠牲に楯となってくれた武士がいた。その命の恩人に、『あなたは私を守り切れなかった』と、告げたようなもの。本心ではそんなこと微塵も思っていない。けれど言うしかなかった。逆転の望みを繋ぐため。

 ともかく、これで夜代の心は乱れた。

 いくばくか朝佳にも勝機が芽生える――かに思われたが、

「だめだ……」

 総一郎は気づいていた。

 右目の不自由を言い訳にしたくない。頑なに貫いてきた意志を自ら折ってしまったのだ。そのせいで朝佳もまた動揺している。これでは差が縮まらない。それどころか、

「うちは弱い……でも、朝佳と総一郎様をこの手で断ち切れれば変わる。きっと変われる。何も怖れなくなる。きっと……そうなるッ!」

 その一念で、夜代は心を整えてしまった。

 再び力の差が絶望的なまでに開く。剣撃をぶつけ合い、とうとう朝佳の刀を折られ、さらには、

「ぐッ……」

 袈裟懸けの一閃に胸元を抉られ、浅からぬ傷を負う。

(……このままじゃ勝てない)

 そう悟らざるを得なかった。

「……総一郎様、ごめんなさい……逃げてっ」

 それは、諦念の言葉。

「朝佳!」

 総一郎は呼び掛ける……ただそれのみで、何もできない。辛うじて立ってはいたのだが、それすらできなくなって膝を折る。

 無力さに、ただただ焦燥するしかない。焦りは怖れを生み、怖れは妖力を奪い、刺された傷を押さえ止めることもままならなくなってゆく。

 ひとたび崩れ始めれば、怖れは勢いを増し、さらにさらにと心を追い込んでゆく。

 窮地に瀕した彼らに残された道は、もはやこれしか――

 情けを乞うしか道はない。

 そんな朝佳の目を見て、

「ごめんね」

 夜代は告げた。彼女にその気はなかった。

 もはや止まれない。すでに総一郎を刺している。その時点で後戻りなど許されない。引き返す余地など、とうに無くなっている。

 死ぬか、殺すか、だ。

「やめろ……」

 やっとの思いで、総一郎は膝立ちになって手を伸ばす。だが、それで何になる。まるで届いてやしない。

「総一郎様も、すぐにおくる。だから許して」

 夜代は朝佳に語りかけた。

 別れの言葉である。

 対する朝佳は、間際にして、その目を哀愁に染めていた。

 怯えや、怒りや、憎しみよりも、嘆いていた。まるで母が子の未来を憂うような、そういう温かみをはらんだ悲しみに見えた。

 守りたいと願いながらも、守ってあげられないと知ったとき、せめて願うしかない。この哀れな者に、晴れ空のごとき未来が訪れんことを――

 死に際に、そんな顔をする。

 これが朝佳という女の人生だった。

 願わくば、思い直してくれることを――と、乞いすがる気持ちもあっただろう。生存本能が垣間見せた眼差しでもある。

 しかし、意味はなさなかった。

 止まることのない白刃が、違うことなく心臓を貫いて……


「朝佳ぁああ――――――――……」


 総一郎の慟哭が響いた。

 崩れるように横たわろうとする亡骸を、そうさせた当人が優しげに抱き支える。そうして夜代は、おもむろに天を仰ぎ見た。

「綺麗な朝陽……」

 差し込む木漏れ日が夜代の姿を明るく照らし出している。ただならぬ決意をもって、見事にやり遂げた。そんな彼女を祝福するかのように。

 けれど、

「どうしてだろう……晴れない……」

 人の心とは、ままならないものだ。

 朝佳と総一郎を殺せば、憂いの心を打ち払える。そう思い込んでいた。思い込みに心底から浸れているうちは、まさにその通りに心が動いた。ゆえに、妖力が応えてくれていた。理が後押ししてくれていた。

 なのに、ほんの少しでも正気の芽が出れば、もう通じない。思い込みは、単なる願望になり下がる。

 朝佳を殺した瞬間、夜代は心が晴れやかに……ならなかった。

「……心とは、こんなにも……思い通りにいかないものなのですね」

 言いながら、夜代は視線を下げる。総一郎が近くまで這い寄ってきていた。

 ぐしゃぐしゃになっている。涙に濡れたその顔も、血まみれの着物も、引き裂かれたその心も、今の総一郎は乱れに乱れている。

「なぜ、こんなことに……」

 彼は口にした。

 口にしていながら、実のところ、理由は分かっていた。


 憂き世の理がそうさせたのだ、と。


 夜代は、一度は強い思い込みによって怖れを払った。正気ではいられなかったからこそ、払うことができてしまった。それによって、全盛には及ばずとも確かに妖力を保った。その事実が思い違いを引き起こしたのだ。

 力こそ、人を惑わせる。

 悪辣に傾くほど、容易に力が得られる。力漲ればこそ、見据える先が正しい道なのだ、と。錯覚させられてしまう。

「憂き世の、理が……妖しき、力が……お前を……」

 総一郎の言葉に、

「はい」と、夜代は涙声を返す。「……愚かにも……惑わされてしまったようです。申し開きもございません」

 このまま総一郎をも手にかけたとて、憂いの闇は色濃くなるばかり。そう、正気の心に諭されてしまった。

 心は、壊れ切ってくれなかった。

 未練が……つまり、覚悟が足りなかった。

 いっときの気の迷いに踊らされてしまう。所詮、その程度の器だったのだ。そんな己には、もはや絶望しかない。無意味である。かなしく想っていた人を殺すまでして、何も得られなかった。

 早く、早く早く……こんな現世うつしよからは、逃げ去ってしまいたい。

 朝佳を貫いた小太刀に加え、もう一本、まだ手にしていた方の刀を総一郎の前に置き、夜代は乞う。

「お願い……いたします」

 総一郎はその刀を拾い上げ、膝で立ち上がり、

「…………」

 握る手に力を込めた。

 まるで、これが始まりにすぎないとでも言うように、昇る太陽が、憎らしくも彼らの姿を煌めかせていた。


「うおおぉぉ――――――――……」


 嘆きと怒りの慟哭が、響き渡る。


      ……


 これが憂き世。

 憂き、多き、現世なり。

 そんな世にありながら、しかしそれでも人は望んでやまぬ。

 愛するものを守りたい、と。

 ゆえに戦うのだ。

 怖れなき者ども相手に、勇気だけを糧にして。

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