第8話 大団円

「小説を書いていくうえで、何が大切なのだろう?」

 と、吾郎は考えていた。

 吾郎は、社会人になって、30歳くらいまで、会社の第一線で働いてきて、それが、主任となるうちに、第一線の仕事は部下にやらせるようになり、自分は監督であったり、設計の方に回るようになってきた。

 仕事内容が変わっても楽になるとかいう感覚ではなかったが、どこか面白みがなくなってくるのを感じたのだ。

 それによって、仕事に身が入らなくなってきたのだが、最初はその理由がよく分からなくなっていた。

 その理由に関しては、正直ハッキリと言葉に出して言えるようなものではなかったが、やる気がそがれてきたのも事実だった。

 その頃、大学時代に本を読むのが好きだったのを思い出し、少しの間、本を読むことに熱中していた。それなりに楽しいのだが、やはり、何か物足りない。

「そうだ、俺は自分で何かを作り出すということが好きな人間なんだ」

 と、いまさらながらに感じたのだった。

 実は、すぐに、

「そんなことは、ずっと前から分かっていたんだ。だから、第一線から遠ざかった時に、何か物足りないと思ったのも無理もないことだったんだ」

 と考えたのだが、

 自分で分かっていたといっても、それを自覚していなかったのは事実であり、

「自覚がないのだから、いくら何を言っても同じではないか?」

 というのは、自分が本当は先にしようと思っていたことを、先に相手に指摘されると、これほど腹が立つことはない。

「それ、俺も考えていたんだ」

 と言ったとしても、相手から、

「考えていたんなら、なぜやらない? それだったら、考えていなかった方がマシじゃないか?」

 と言われたものだが、ズバリ指摘されると、何も言えなくなる。

 そう、何も言えなくなる自分が悔しいのだ。

 その悔しさがどこから来るのか。それが問題なのだが、

「自分が正直に話をしても、言い訳をしているかのように思われることが、どうにも悔しい」

 ということになる。

 しかも、自分が、

「言い訳というものほど、嫌なものはない」

 と思っているからだ。

 まわりにも平気で言い訳をして、ハラスメントを免罪符のように使い、相手に何も言わせないようにしている連中を見ていると腹が立つ。そういう連中こそ、

「言い訳は言い訳でしかない」

 と思うが、言い訳される方は、

「本当にそれ以外にはない」

 と、考えることだろう。

 つまりは、一度言い訳だと思われてしまうと、何を言っても、

「こいつは、結局言い訳に逃げるやつだ」

 と思われることで、

「最期には必ず言い訳に逃げる」

 と思われるに違いない。

 それを考えると、

「第一印象で、思われたことが、何をおいても、その人間によって、性格を作られてしまうのではないか?」

 と思われることであろう。

 そんな、仕事に若干の疑問を感じた時、

「小説を書いてみたい」

 と思うようになった。

 それは、一つ考えたこととして、

「俺って、二重人格なのではないか?」

 と考えるようになったことだった。

 それまでは、

「俺は細かいことのできない性分なのだが、コツコツは嫌いではない。どこか矛盾したところがあるんだよな」

 と思っていた。

 そして、上から言われた仕事に対しては、ちゃんと結果を出すのだが、独創性のある仕事だと思いつくことはないと思っていた。本来の自分がやりたいこととは真逆なので、どこか苛立ちが自分の中にあったのも事実だった。

 そんな思いがあることで、

「小説を書くなんて、夢のまた夢だ」

 と思っていたのだが、実際に会社の機関紙に文章を寄せることがあり、そこで書いた文章が、自分で納得のいくもので、

「ひょっとすると、独創的なこともできるんじゃないか?」

 と思った。

 そう思うと、毎日が面白くなり、有頂天になっていた。実際には、どこまでが実力で、どこからが思い込みなのか分からなかったが、思い込みの部分は、

「自分の中に裏の能力があり、それが表に出ることで、発揮されるのであれば、どこか、ハイド氏のような、表の意識が薄れている時に、勝手に出てきて、自分のために活躍しているのかも知れない」

 と感じるようになった。

 つまりは、

「ハイド氏というものを否定するのではなく、自分の中で認めることで、もう一つの性格が悪いところだけではないということを証明する必要があるのではない?」

 と感じるのだった。

 昔の小説の。

「ジキルとハイド」

 というのは、表に出ている性格と、まったく正反対の性格が裏に潜んでいて、それが表に出てきたというものなのだが、二重人格というものが、そもそも、これと同じように、

「善と悪」

 というものを必ずどちらかに当てはめなければいけないと勘違いしそうな小説であるが、実際には、二重人格というものが、このように、竹を割ったかのような、分かりやすい性格だと言えないだろう。

 このような正反対の性格だからこそ、物語として成立したわけで、

「ひょっとすると、まったく同じ性格の人間が裏にいるのかも知れない」

 と、言い切ることができるだろうか?

 二重人格というと、そういう意味で。

「まったく真逆の性格だ」

 と言われているように思えるが、果たしてそういいきれるのかどうか、それも問題なのではないだろうか?

 それを考えると、吾郎が小説を書き続ける上で、

「ひょっとすると、うまくいくかも知れない」

 と考えたのは、

「俺は、他の人と、少しかけ離れた性格なのかも知れない」

 と自覚しているからだと思うようになっていた。

 それだけ、小説を書くということに対して、まだ、これからの段階で、先のことを考えているのは、珍しいのかも知れない。

 ほとんどの人は、書けるようになったことで、自分を過信し、

「プロにだってなれるかも知れない。いや、続けていれば、俺だったら、なれるんじゃないか?」

 と思い込んでしまうことだろう。

 ここでの、用心深さというか、考え方の違いが、この先において、どのような作用をもたらすことになるのか、興味深いことであった。

「プロって何なんだろうな?」

 と考えるようになったのだ。

 そんなことを考えていると、どうしても、自分の意思と、

「売れる小説」

 との間に狭間があるような気がした。

 そういえば、自分を最初に見た編集長が言っていたっけ、

「君は、小説家になるために生まれてきたような気が、第一印象でしたんだよ」

 といっていた。

 自分が一目惚ればかりしていて、それは自分の第一印象を大切にするからではなかったか?

 正直、編集長に対しては、自分も、

「この人になら」

 ということで頑張っていける気がしたのだ。

 その時、自分の二重人格のもう一方が出てきた気がした。それを見た時、

「本来なら、こんな自分を見たくなかった」

 と感じた。

 しかし、そんな自分を見たその時、普段の自分が思考停止をしたかのように感じたのだった。

 その思考停止は、あまり気持ちのいいものではなく、

「感覚がマヒした」

 ということで、何とか意識が保てたということかも知れない。

 その時、確かに吾郎は意識を失っていた。そして夢を見た気がしたのだ。

 どんな夢だったのか、正直覚えていないが、その夢の中で、もう一人の自分が現れて、自分にいうのだ。

「これが、本当のお前なんじゃないか? お前だって気づいていたんじゃないのか? 自分というものが、中途半端で、パズルのピースが足りないということを。そのピースを与えてくれる人を欲しがっていたくせに」

 というのだ。

「どういうことだ?」

 と答えると、

「何をいまさら。お前だって分かっているだろう。俺がお前の中で、埋めてきたものが、ピタリと嵌っているということを、その嵌っているものは、お前たち表に出ている人間には、タブーであり、恥辱なんだろうが、そんなことを考えているから、何も先に進まないんじゃないか? 古事記にだって、言葉を濁しながらではあるが、ハッキリと書いているではないか?」

 と、諭すようにいう。

 その言葉を夢の中で吾郎は、まるで金縛りにあったかのように、まるで直立不動で聞いている。

 その言葉に、強い強制力のようなものを感じ、その強いものを求めていたことに気づいた。

「お前は、道化師なのか?」

 と、吾郎は思わず、夢の中の自分に語り掛けた。

 道化師どころか、顔が陰になってしまっていて、認識することもできない。

「果たして、鼻や口や目はついているのか?」

 そう思って見ていると、口が微妙に歪んでいるというのだけは分かるのだった。

 目の前にいるのっぺらぼうが、まさか、二重人格のうちのもう一人の自分で、その自分を分かるのだから、

「これは夢の中なのだ」

 と感じることができた。

 そして、そこで、そんなのっぺらぼうの、

「もう一人の自分」

 が、

「お和えは、道化師なのか?」

 と聞く。

 何と答えていいのか分からず、きっと相手には、夢の主人公である吾郎が、化粧を施していて、表情は笑っているが、本当の表情はまったく分からず、しかも、本当の顔とは似ても似つかぬ顔になっていることを、我ながらという意味で感じているのかも知れない。

 そして、夢の中なので、夢を見ている、もう一人の自分もそこに存在している。

 つまりは、夢を見ている自分も含めると、

「そこにいる三人はすべて自分であり、それぞれまったく違った自分なのかも知れない」

 と感じるのだった。

 そして、道化師である以上、そこにいる自分も、表に出ていない自分なのではないかと思えてきた。

 夢を見ている自分には分かっている。

「二人を足した形の自分が表に出ているのではなく。二重人格であるのは間違いないが、起きている間、どちらかしか表に出られないわけではなく、起きている間、本人の意識とは別に、うまく入れ替わっているのではないか?」

 と感じるのだった。

 だから、逆にいうと、二人をそれぞれ分割して見ることができるのは、

「夢の中だけのことなんだ」

 といえるのだろう。

 それを思うと、

「夢の世界にも、現実の世界にも結界など存在するわけではない。勝手に限界だと人間が決めているだけだ」

 と言えるような気がした。

 そして、二人が夢の中でそれぞれを、表したのを見た時、

「俺が小説家として、何とかやっていけているのは、あの時諦めず、編集長の胸に飛び込んだからだったのかも知れないな」

 お互いに第一印象を大切にし、特に思春期が遅かった吾郎は、そもそも、女性に対してだけしか見てこなかったので、自分が分からずに、表に出ることができなかったのだ。

 つまり、男性を意識していなかった。男性を意識するというのは、悪いことだと感じていたからだ。

 そもそも、女性を意識するというのも、罪悪感があるのに、男性ともなると、

「実に不潔だ」

 と思い込んでいたのだ。

 それを、道化師の感覚と、第一印象という自分の特徴を理解できたこと。そして、感覚のマヒが襲ってきた時、元々あると思っていた二重人格性を、夢という中で、その本質を見たことで、一気に感覚がマヒしたのだ。

 そんな夢から覚めた吾郎は、編集長との逢瀬を重ねることで、自分の小説家としての才能が開花していったのだ。

「自分が書きたい小説」

 そして、

「売れる小説」

 ということで、合致したのが、BLつまり、ボーイズラブだったのだ。

 彼のように、第一印象で書けるということでの、スピード感は、天性のものがあったのだ。

 編集長も見抜いていたようで、BL小説の世界としては、かなりの人気作家になってきたが、それ以上は、望んでいなかった。

 そう、

「出る杭は打たれる」

 ということにはなりたくなかったからだ……。


                 (  完  )

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第一印象と二重人格の末路 森本 晃次 @kakku

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