第7話 感覚のマヒ

 道化師というのは、イメージとしては、

「その滑稽な顔の下で、どのような表情を持っているのか分からない」

 ということだった。

 そのくまどりの下には、どのような顔、そして表情が潜んでいるのか?

 さらには、その表情は、感情と一致しているのだろうか?

 ということが考えられるのである。

「ピエロ」

 といってしまうと、もっと派手さがあるようで、その顔の奥に秘められた顔も、笑っていると思えるのだが、その笑いが果たして、本心からの笑顔なのか、逆に、

「笑顔であるがゆえに、恐怖を感じさせるものなのか?」

 というものが、どのように働いているのかということを考えると、恐怖にも思えてくるのだった。

 子供の頃などは、

「ピエロ」

 という言葉は知っていた。

 サーカスなどで、よく宣伝で出てくる、

「そう、ファストフードの、世界的に有名な、某ハンバーガーショップの、キャラクターに似ている」

 と感じる人も多いことだろう。

 いや、逆に思い浮かべるとすれば、あのキャラクター以外にはないといってもいいのかも知れない。

 それだけ、イメージが強く、そのイメージしかないというほどのキャラクター性なのだろう。

 何しろ、日本で店舗展開を初めて、ほぼ半世紀になろうとしているのに、最初から、変わらぬキャラクターなのだから、すごいものだ。

 最初にあのキャラクターを選定した人も、半世紀も経って、ここまで色褪せないキャラクターになっていると思っただろうか。

 そもそも、店の存続の方が危ないと思っていたかも知れない。

 何しろ最初は、誰もが、

「まだ、海の者とも山の者とも分からない」

 という時期だったからである。

 それでも、実際に店の人気はうなぎのぼりであり、最初はハンバーガーショップというと、そこだけだったのが、それ以降爆発的に、同業他社が増えていった。

 同業他社が増えてくると、

「自分たちが危ない」

 と思うのだろうが、何と言っても、

「パイオニア」

 というのは、その言葉だけで、キチンとした味が保たれていれば、

「ゆるぎない力が漲っているのかも知れない」

 ということで、決して潰れることもないだろう。

 それで、パイオニアが潰れるくらいなら、その業界自体が怪しくなってくる。

「ブームは、一回のブームでしかなかった」

 ということになり、結局。すたれていってしまうのではないだろうか?

 それを、世間では、

「流行り」

 というもので、金ではなく、金メッキだった場合、そのメッキが剥がれるのは、本当に時間の問題だといってもいいだろう。

「いや、考え方が少し違うのかも知れない」

 とも思った。

「キャラクターが印象的なので、店も軌道にのって、潰れることもなかったんだ」

 といえるのかも知れない。

 つまりは、道化師、ピエロというキャラクターの派手さが、印象的で、その顔が表情が分からないことで、恐怖を煽るが、

「いつも笑顔なんだ」

 と、信じて疑わないことが、一種の強さに結びついてきているのかも知れないからだった。

 また、昔の探偵小説などには、よく道化師が出てきたものだ。

 というのも、道化師であれば、化粧を施していても、別に疑われ合い、しかも、表情も分からなければ、顔も分からない。

「どこの誰が、一体どんなことを考えているのだろう?」

 というのが、道化師なのだ。

「殺人事件があった時、必ず、そこには道化師がいた」

 ということで、犯人は、その道化師に化けた人間だ。ということになる。

 まずは、道化師の身長や体形から、大体のイメージを掴む。

 そして、事件の関係者から、道化師の外観に似た人物を絞り込み、そこから、動機の有無や、アリバイなどを捜査する。

 そんな中、探偵も捜査に加わっていたが、彼は、別の意味で、この事件に注目していた。それは、

「なぜ、犯人は道化師に化ける必要があったのか?」

 ということであった。

 それを警察側の捜査主任に話すと、

「それはだって、犯人が誰なのかをごまかすためでしょう?」

 というと、探偵は、

「そうなのかも知れないですが、何も道化師に化けるというのも、まるで、注目を浴びるために見えるじゃないですか? ただでさえ目立つのに、その時道化師の恰好をしていたからといって、いくら、顔が隠れているといっても、目立ちすぎでしょう? まるで犯人はこの俺なんだと宣伝しているようではないですか? それを考えると、このまま犯人を道化師に絞って考えると、捜査がおおざっぱになりませんか?」

 というではないか。

 なるほど、探偵小説における探偵というのは、結構警察が行っている正攻法の捜査とは逆の視点から見ていることが多かったりする。確かに警察の通り一遍の捜査では、探偵のいうような、

「目立ちすぎていて、まるで、自分が犯人だと、宣伝しているようなものではないだろうか?」

 という発想には至らない。

 しかも、相手が道化師に化けていて、道化師というのを、

「顔が分からないだけではなく、表情が分からないことで、いったい何を考えているか分からない」

 というイメージを抱いたが最後、

「このままであれば、完全に犯人の術中に嵌ってしまう」

 ということになるのを、分かっていないがごとくではないだろうか?

 犯罪捜査というのは、基本的に警察は、まず現場から、いろいろなことを調べる。特に初動捜査として、死亡推定時刻や、凶器の確定、さらに、被害者の身元調査。そこから、被害者の利害関係を捜査し、恨みを持っている人間をピックアップ。そして、そこからアリバイ捜査を思なう。

 そこで、絞られてきた中から、犯人を特定していくわけだが、その過程において、該当者がいなくなってしまえば、

「捜査の中で、何かが間違っている」

 ということで、事件を最初から洗い直すか、それとも、

「そこに、犯人のトリックか何かの、トラップが含まれている」

 と考えると、捜査方法が、二つに割れることも考えられる。

 一から捜査をやり直すとなると、かなりの勇気がいる。そこまで捜査してきた捜査員とすれば、無駄足だったということになり、一気に士気は低下してしまうことになるだろう。

 しかし、

「捜査してきた中で、どこか、見落としているところがあるのではないか?」

 ということで、

「判明したものは、事実と捉え、考え方が間違っているとして、どこが間違っているのかということを、ピンポイントでやり直す」

 ということだ。

 まったく違った考え方に見えるが、実は辿り着くところは、それほど遠くないのかも知れない。

 紆余曲折して彷徨うという過程においては、まったく違った道であっても、出てくるところは案外変わりがないかも知れない。

 ただ、その過程において見えてきたことが、事件において重要なことであるかどうなのかを絶えず見極めていないと、あらぬところから、狙われた兵隊のように、まわりから見れば、まったくの無防備で戦争にいくような、自殺行為に見えてくるのではないだろうか?

 戦後に掛かれた探偵小説で出てきた道化師の話が、どうしても、頭を離れない。

 その話は、犯人が道化師の衣装で、犯人が誰か分からないようにするためい、衣装を着たというよりも、犯人の性格が、その衣装を着けさせたというような、逆の発想でもあった。

 しかも、途中で、犯人は、警察に追い詰められて、非常に危険な賭けに出ていた。

 何と、

「顔に硫酸を掛けて焼いてしまう」

 という暴挙に出たのである。

 犯人からすれば、

「絶対に顔を知られたくない」

 という思いが強く、それは、

「犯人として捕まりたくない」

 という思いよりも、

「ここで捕まってしまうと、本当の目的を果たせない」

 という思いがあったことが、顔を焼いた一番の理由だった。

 しかも、顔を焼くことで、その人が一体誰なのか分からないという利点もあった。

「私、一体誰なの? どうしてここにいるの?」

 と、記憶喪失のふりもできる。

 あまりにも大胆な反抗なので、警察も記憶を失うことに違和感がなかったのだ。別に疑うこともなく、顔を焼かれたその人が女性だということも、センセーショナルな状況になってきた。

「まさか、女性の身で、自分の顔を焼くなどということはできない」

 と考えたからだ。

 それは、刑事といえども、犯人になって、警察に追い詰められるという恐怖を知らないのだから、刑事とすれば、

「女の人は顔が命だと思っている人が多いだろうから、まさか、自分の顔を焼くなどということは、男よりもできないのではないだろうか?」

 というところまでは思いついても、それ以上の発想はないのである。

 だから、

「顔を焼いたのは犯人であり、彼女は可愛そうな被害者でしかない」

 と思い込むに十分なのであろう。

 ただ、探偵だけは、実に冷静だった。

 警察は、基本的に理論に基づいた捜査を行っているので、

「顔を焼かれた女性が、現場で被害者となって、発見された」

 という、一番考えられる事実を、あたかも真実のように最初から思い込んでいる。

 この最高の演出が、そうとしか思えない発想に焼き付けたのだ。

 それだけ、顔を焼いた度胸は素晴らしいものがあるのだが、ちょっと冷静に考えれば、おかしいことは、誰にでも分かるというものだ。

 ただ、刑事も想定外の状況に陥ると、人情を優先して考えるようだ。普段の捜査が、あくまでも、理論で考えた、より当たり前の考えしかできない堅物のくせに、想定外のことが起こると、精神を制御できず、人間本来の本能に立ち返るということになるのではないだろうか?

 そう思うと、顔を焼いたことで、少なくとも警察の目は欺くことができるだろう。

 もっとも、あのとっさな場面で犯人がそこまで思いつくとは考えられない。

「このままだと捕まってしまう。目的をすべて、いや、最終的な目的を果たせぬまま、このまま、捕まってしまうことを思えば、イチかバチか、ここは何とか逃れて、それ以降の事件をいかに遂行できるかということを考えた方がいい」

 と思ったに違いない。

 それにしても、顔を焼くのだから、相当な覚悟が行っただろう。ただ、そこかでひどいと思っておらず、焼いた瞬間に、一気に後悔が襲ってきたかも知れない。

 しかし、焼けていく間に感覚はマヒしてきて、それまでとは別人になってしまったともいえないだろうか?

 業火の炎で、焼き尽くされている間に。自分の性格も燃え尽きてしまい、ひょっとすると、その下に、別の眠っていた性格が覚醒したのかも知れない。その性格が、

「ひょっとすると、本人も分かっていない残虐性をつかさどる、元々の性格だったのかも知れない」

 と思うのだ。

「焼き尽くされた性格は、ジキル博士で、その下から、ハイド氏が生まれたのではないか?」

 という考えが生まれてきたのだった。

 ピエロ、いわゆる道化師というのは、その表情が分からないだけに、どちらが潜んでいるか分からない。そういう意味で、その探偵小説で、言いたかったこととして、

「トリックや、アリバイなどで使うという犯人側からの問題というよりも、犯人側の無意識な気持ちとして、自分が意識していないところで、事故の性格が出てきていて、それを読者がどこまで理解できるかということなのではないか?」

 と考えている。

 つまり、

「本来であれば、読者側が気づかずに、ずっと最後まで読み進み、最期で作者が披露したところで、そういうことだったのか、となれば、作者の勝ち」

 ということになるのであろうが、この作品は、最期まで読み終わっても、作者の何がいいたいのかということがなかなかわからなかった。

 もし、二回目、再読することがあれば、

「ああ、そういうことか、これは分からなかった」

 と思うことで、やっと、作者が言いたいことが分かるというもので、もし、読み直さなければ、

「何だこの作品は?」

 ということで終わっているに違いないだろう。

 作者の気持ちもさることながら、読者にもいろいろな人がいるので、その全員に同じような気持にさせるなどということは土台難しい。

 となると、作者はどこに、照準を合わせるかということになるのだろうが、そもそも、そんなことを考えるのは、本当のプロでもなければできないことだろう。

 そういう意味で、小説を書くという原点は、

「自分が書きたいものを書く」

 ということが原点であり、よく、

「小説家になるには」

 などというハウツー本に書かれているような、

「小説家の目的は、いかに、読者を楽しませるか? というのが基本」

 などと書かれているが、それは、本当の理想論ではないだろうか?

 確かに売れている作家や、編集者というのは、まず、作家としては、

「売れる本を書く」

 ということであり、編集者の方では、

「できた本をいかに売るか?」

 ということである。

 基本は売れる本ということであり、実際に作者の、

「書きたい本」

 というのは、二の次ということになる。

 プロになって、小説を書いていると、あくまでも、作家にとってのスポンサーは編集者である。

 株式会社は、社長であろうが、株主にはかなわない。なぜなら、会社のために出資している人たちだからだ。下手をすると、社長といえども、経営者会議の中では、

「お飾り」

 でしかない。

 社会に対して、重大な問題を引き起こせば、社長に何の落ち度がなくても、簡単にクビを切られる。つまり、世間に対しての申し開きとして、最初に問題に対しての会社側の対応としては、

「被害者に、保証を行う」

 ということとして、経営方針として、

「社長に責任を取って辞めさせる」

 という方法しかないのだ。

 つまり、

「社長は、責任を取るためにいるのだ」

 といっても過言ではないだろう。

 作家も、編集部の意向には逆らえない。それでも逆らおうとするならば、契約を解除されることになっても仕方がない。よほどの売れっ子であれば、他の編集者が拾ってくれるかも知れないが、他の編集部としても、元々の編集部とトラブルを起こして辞めた作家を、わざわざ自分のところで抱え込むようなリスクを負うこともないだろう。

 それでも抱え込むだけの何かがあるなら、もう少し、元々の編集部でも、契約解除に慎重になるだろうが、それがなかったのであれば、しょせん、その作家は、自我が強いだけの、どこにでもいる平凡なわがまま作家でしかない。しかも、自分のことを分かっていないというおまけ付きの作家だということになる。

 そんな作家を誰が好き好んで雇うというものか?

 小説を書いていると、感覚がマヒしてくることがある。

 それは、

「自分がどんな顔をしているのだろう?」

 という気持ちになるのだという。

 その探偵小説作家は、後年になってエッセイのようなものを書いていたのを読んだのだが、そこに、書かれていたことであった。

 その作家は、好んで、道化師の話を書いたという。

 元々は、道化師の話を最初から書いていたわけではないが、書いているうちに、

「ここで、道化師を登場させるのは面白いではないか?」

 と考えたらしい。

 そして、気が付けば、作品を書くごとに、毎回道化師が出てくるような話になり、

「これじゃあ、前に書いた作品と似たような作品を書いているだけではないか?」

 と思い、しばらく悩んだという。

 しかし、この頃はまだ頻繁に行われていなかったことであるが、昭和の40年代以降くらいから、

「作家のパターン」

 と呼ばれるような作品が登場してくる。

 例えば、

「トラベルミステリー」

 と後に言われるようになる、列車や駅をテーマにした作品で、時刻表を使ったトリックなどを使っての連作。

 つまり、いつも同じ刑事が登場し、事件が他府県に及んでも、他府県警察と協力して事件を解決するというような話が大筋である。

 毎回似たような話ではあるが、それがいつの間にかシリーズ化して、発売を心待ちにしているファンもたくさん増えてきていたのだ。

 考えてみれば、テレビドラマの刑事ものだと思えばいいではないか。以前の国鉄時代には、

「鉄道公安官」

 などという職業を題材にした番組や、JRになってからは、

「鉄道警察隊」

 と呼ばれる組織になっても、毎週いろいろな特急列車が登場したりして、

「まるで旅行しているようだ」

 という感覚だったりする。

 それの文庫版が、

「トラベルミステリー」

 ではないか?

 鉄道警察隊をテーマにしたテレビドラマは、

「ヒューマンタッチな作品」

 であるのに対し、トラベルミステリーと呼ばれる作品は、あくまでも、

「本格推理小説」

 の様相を呈していた。

 トリックが元にあり、そこから、どういう動機で人を殺すに至ったか? そのあたりを突き詰めていくと、

「最初のシーン」

 というものが、奇抜であればあるほど、現実味がある小説のわりに、どこか、ドロドロしたものが、最初に醸し出されることで、読者は、一種のトラップに嵌ってしまうのではないだろうか?

 そういう意味で、小説の最初であったり、途中で、ドラマ性に奇妙なイメージを植え付けるという意味で、この作家による、

「道化師の登場」

 というのも、そのパターンを微妙に変えることが、一つのバリエーションとして、生きてくるのだ。

「ミステリーにおいて、ほとんど出尽くした」

 といってもいいトリックも、

「これからは、バリエーションを生かして、それぞれにパターン化されていく時代がくるのではないか?」

 と言われてきたことで、現代のミステリーの形ができているのではないだろうか?

 これが、進化系かどうかは分からないが、

「昔の小説がよかった」

 と考える人がいるのも事実であった。

 同じような作品を、書いている方は、

「前から違和感があった」

 といってもいいだろう、

 しかし、作品を書いていると、書けば書くほど、前の作品に似てきたりして、まるで、

「続編を書いているようではないか?」

 と感じるようになるのだ。

 そんなことを考えて書いていると、次第に、

「ああ、自分の文章が確立していっているんだな?」

 という安心感が生まれてきた。

 それと同時に感じたのは、

「感覚のマヒ」

 であった、

 いきなりそっちに向かったわけではなく、文章を書くことに慣れを感じてくるようになり、それが、次第に感覚をマヒさせる気分になってくるのだ。

 それは、

「一度、耐えがたい何かにぶつかって、そこを克服することで求められるものではないか?」

 と思うのだが、その、

「耐えがたい何か?」

 というのが、人それぞれの重たさというものが、ピンからキリまであるはずなので、皆が皆、感覚がマヒするところまで行くとは限らない。

 ただ、小説家になるには、その限界が、結界のようなものであり、それを突破できる人間でないと、なることができないともいえるだろう。

 小説家というと基本的に、なるためには、いろいろなパターンがあるだろうが、ほぼほとんどの人が通り抜けてきた方法として、まずは、どこかの出版社系のコンクールで入賞するというのが大前提となり、そして、そこで次回作が求められる。

 その次回作というのは、入賞作を超えるものでなければいけないのだろうが、ほとんどの作家が、受賞作で、ある程度の力を出し切ったと思い込んでいる。

 実際にそうなのかも知れないが、入賞してしまうと、何かの、

「燃え尽き症候群」

 のようになってしまう。

 正直、小説を生み出す頭が、まさか、

「消耗品だ」

 とは思えないが、もし、消耗品だったのだとすれば、そこから先には何があるというのだろう?

 最初がピークだったとすれば、そこからは、それ以上の作品を生み出すことができないのだということになり、小説家としては生きていけないことになる。

 ただ、これも、読者に個人差があるのだから、作家によっては、編集者のいうように、

「とにかく、売れる本を書いてください」

 ということに忠実に書ければ、生き残っていけるだろう。

 しかし、作家のプライドや自尊心で、

「俺は、売れる本ではなく、書きたい本を書くんだ」

 という信念を持っているとすれば、いくら、途中から売れないことが、自分のプライドが邪魔をしていると気づいて、売れる作品を書こうとしても、

「気づいてしまった」

 ということで、どんなに頑張っても、前作を超える作品を売れるものとして書いているはずなのに、世間に受け入れられることはない。

「俺は妥協したのに」」

 と思うのだが、

「妥協した作品に、いい作品はない」

 という当たり前のことも分からないほどになっているのかも知れない。

 その時、

「自分の才能は消耗品なのではないか?」

 と感じてしまうと、もう作家としては、そこが限界なのかも知れない。

 そして、そこが、

「プロとアマの違いなんだ」

 と考えることだろう。

 だが、実際に、

「小説を生み出す脳は、消耗品などではない」

 と思っている作家は多いようで、ただ、生き残っていけないのには、そこに、

「書きたいものを書く」

 という信念のような気持ちと、

「売れるものを書かなければいけない」

 というリアルな気持ちとの葛藤が、ジレンマを呼び、そのあたりに、作家になるための、結界が潜んでいると言えるのではないだろうか?

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