サヨナラの封蝋印-2

その日、家に来る予定だった彼は予定の時間を過ぎても来なかった。

何だか嫌な予感がして、最初に出逢ったあの繁華街の裏通りへと足を向けた。

普段はシンとしている裏通りには怒声が飛び交っていて、その中心には彼の姿があった。

腕を振り上げている相手の前に思わず飛び出す、そうすれば頬への痛みと共に目の前がチカチカと明滅した。

壁に向かって吹っ飛ばされたせいで少し遅れてきた背中への激痛に蹲って呻いていると、少しの喧騒の後に裏通りは元の静けさを取り戻し、あたしを見下ろす彼の陰が掛かった。


「馬鹿だなァ、殴ろうとしてる相手の前に飛び出すかフツー」

「…だって、あんたが殴られると思ったんだもん」

「あんなの適当に避けられたのに。あーあ、女なのに顔に傷作りやがって」


あたしの顔を覗き込む彼は、思った以上に心配している顔だった。

あたしみたいな奴に執着するような人じゃないと思ってたんだけどな。


「…俺が来ないのに焦れて自分から来たかよ」

「心配しちゃいけない?」

「そんなもん不要だろ」


心配、その言葉を鬱陶しがるように彼は顔を歪めた。


「何があったの」

「顧客に物価が高ぇと言われて無理矢理奪われそうになった、それだけだ。まあ返り討ちにしてやったからヤクも金も俺の手中だ、ざまあみろだぜ」

「怪我は?」

「してねェよ」


結局、あたしがここに来たことは彼にとっては足手まといでしかなかったのだ。

悔しさに唇を噛むと、彼は呆れたようにため息をついた。


「あのなァ、取引屋なんて危険な仕事以外の何物でもねえぞ。お前はそういう世界に足を踏み入れてんだ。俺がお前の家で受け渡ししてやってるからこれまで直接的な危険は及ばなかったってだけの話だろうよ。ま、お前が殴られたお陰で奴が怯んでくれたから早めに片付いて助かったわ」


彼に担がれて向かった先はあたしの家だった。

どうせあの大人たちは帰ってこないのだろうから、あたしがいつ誰を部屋に入れたって咎める人なんかいない。

あたしの頬の手当てをしてからベッドに座る彼を横目に、私はまたシーリングスタンプの炉を取り出して粉を炙った。


「キメても怪我人なんか抱いてやれねえんだけど」

「あたしがそのためだけにやってると思わないでよね」


憎まれ口を叩く彼に、呆れたように返しながら胸いっぱいに吸い込む。

またふわふわとし始めた意識のままベッドに潜り込み、彼の腕を引いた。


「だから、今日は」

「たまにはいいじゃん、一緒に寝るだけでもさ。付き合ってよ」


あたしと彼の関係は、傍から見たらどんな風に名づけることができるのだろう。

ただの取引屋と利用者、それだけの関係だと言うには一線を超えすぎている。

彼はあたしのことをどう思っているのだろう。

ただの危なっかしい高校生のガキ、そう思われていたとしても不思議じゃない。

でも、それだけの関係だったとしたら、何か傷つく、気がする。

彼は私の方を見ずに、なァ、と言葉を発した。


「お前、この家に執着する理由あんの」

「ないけど」

「一緒に来れば?ただし、一生日向は歩けねェから覚悟して―」

「本当!?行くっ!」


ベッドから飛び起きて食い気味に返事をすれば少し引かれた顔で見られたし、急に動いたせいで背中だって痛いけど、そんなの気にすることじゃない。

あたしはそのまま抱えられるだけの私物を持って、彼と一緒に鬱屈とした家にオサラバした。

ご丁寧にあの大人達へのサヨナラの手紙を書いて、封筒に例のシーリングスタンプでしっかりと封をして机の上に置いてきた。

あの路地裏で見上げた空はやっぱりビルに囲まれてものすごく狭かったけれど、あたしは両親からの開放感と高揚感で一杯で、そんな狭い青空すらも愛おしかった。

家を出てすぐ学校に行かなくなって、髪をバッサリ切って金髪に染めた。ピアスも開けた。

学校に来ないことで大人達が探し回っているみたいだけど、それだって気にすることじゃない。

どうせ、私の親だった人達は心配していないだろうし。

彼には背伸びしてて似合わねー、なんて笑われたけど、あたしはこれが気に入っている。

ヤクと煙草と性にまみれた日陰者。それでもあたしはこの世界で彼と生きていく。

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サヨナラの封蝋印 柊 奏汰 @kanata-h370

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