猫かぶりと学校 ②


 居残り給食みたいな気分だった。

 別に、そんなの人生で一回もやらされたことはないのだけど。

「マジで痛えんだろーな、それ。哀れだわ。あのカジノの帝王、イケイケ薊原クンが」

「な。もうそのパン牛乳でびしゃびしゃにしちまえよ。なんで固形にそんなこだわるのか理解できねー」

 アホかびしゃびしゃになったもんなんて不味くて仕方ねーだろ。

 そう言って反論したいけれど、口の中にまだパンが残っている。口の中の傷に当たるたびに痛いのもそうだが、根本的に口の中に何も入っていなくても開いたり閉じたりするだけで痛いし、何なら何もしていなくてもじんじん熱っぽい痛みがある。

 骨も歯もどっこも折れてないよ、若い子は頑丈だねえ。

 そう医者は言った。そのときは「そうすか」と普通に喜んだけれど、それからしばらくしてじわじわ顔の痛みが酷くなってきてからはあの医者はものすごいヤブで適当なことを言っていたのではないかと疑う気持ちが湧いてくる。そのへんで勧誘をやってる自然療法だの日本伝統の食べ物で身体から欧米の毒を排出するだのなんだのと比べたら友達の親が勤めてる市立病院の方がだいぶ信頼が置けるけれど、しかし結局は人間のすることなのであまり無条件に言われたことを受け入れすぎるのもどうかという思いがないでもない。

 考えていたら、またじわじわ痛くなってきた。

「…………」

「すげーな。コッペパン握ってこんだけ真剣な顔してるのこの世にこいつだけだろ」

「痛み止めとかねえの?」

「……さっき頭のやつ飲んだ」

 式谷から貰った、というところまで話す気力はなかった。

 パンを皿の上に置く。「ギバーップ?」と瀬尾が茶化してくる。「絶対びしゃびしゃにした方がいいって」と鈴木が心配面で言ってくる。瀬尾はともかく鈴木の方はこの一年でだいぶ変わったと思う。どうでもいいことだけど。

 家庭科室だった。

 自分たち三人の他には誰の姿もない。朝食の時間は一時間以上前に終わった。クーラーも切られていて、窓から降り注ぐ熱線で徐々に気温が上がり始めている。セミが騒ぐたびに湿度も上がっているような気がする。あまり長くいるとストレスで腐りそうだし、牛乳もそんなに長くは耐え切れないと思う。牛乳だけちょっと飲む。血が混ざってマグロの味がする。顔を顰める。

 正解だったな、と思った。

 最初は単に、自分が朝食の場にいたら気を遣うだろうというだけの思いで時間をずらしただけだけれど、結果として。これだけのろのろ食っていたら悪目立ちしていただろう。

 はぁあああああ、と地獄みたいな溜息が出た。

「生きてんのめんどくさくなってきた」

「あるある」

「ねーだろ。薊原、そんなに飯食えねーならオレらで何か買ってきてやろうか? エナジーゼリーとかなら食えんじゃねえの?」

「買ってくるっつったってお前ら出禁だろ。あの街」

「んじゃ式ちゃんに頼むか。鈴木お前いくら持ってる? ちょい多めに渡せば買い出しのついでに行ってくれるっしょ」

「いやお前、式谷が一番ヤバいだろ。殺し屋みてーな奴の顔面蹴り飛ばして人質奪還してきてんだから……つか、あいつ喧嘩強いのな。全然そんなイメージなかったわ。めっちゃ優しいしもっとか弱いんかと思ってた」

「式ちゃんって警察一家だろ? 姉貴もなんかすごかったみたいな話向こうの方で結構聞いたし、実はあれでバリバリ武闘派なんじゃねーの? ――残念。手持ち千二百円。薊原に払う金なし」

「マジ? 親父が警察なのは知ってたけど――三百円しかねえや」

 三百円、と瀬尾が馬鹿笑いを始める。

 大して変わんねーだろ、と鈴木は笑って、そういや、と、

「薊原は手持ちあんの? ねーならトイチで貸すけど」

「財布に四十万くらい入ってるよ。トイチで貸してやろーか」

「薊原様。お肩をお揉みしましょうか」

「足も揉ませていただきますね」

「苦しゅうない」

 口先だけで言って、勇気を出してもう一口。段々口の中の感覚が消えてきてマシになってきた気がする。残り半分。気が遠くなる。もう食わなくてもいいんじゃないかと思うが、この真夏に飯を食わずにいたら後でぶっ倒れてツケを払うことになるのは自分だ。

 もう一口。

「…………式谷の家、警察なのは親父だけだろ」

「うお会話ラグ」

「食いながら寝てた?」

 たぶんこいつらの頭にはあのハードボイルドな母親の情報が変な形で混じっているんだろうな、と思う。実際に式谷が武闘派なのかは結局、間近で見た自分にもわからない。足の上がり方があんまり綺麗だったから空手くらいはどこかで齧っていそうな気もするけれど、何となく単に元々身体が柔らかいタイプなだけな気もしなくもない。財布に四十万くらい入ってパンパンになっているのは二々ヶ浜カジノがマネーロンダリングのために現金主義だからでなんだかんだこういうときは助かるもんだ――こういう取り留めのないことをわざわざ口にするだけの気力が、今のところあまりない。

 恐ろしいのは、これがまだ一日の三分の一の苦難でしかないことだった。

 何ならパンと牛乳なんて簡単な朝食だから、五分の一にすら達していないと言ってもいい。昼と晩が怖い。時間が経たなければいいのに――それか、ありえないほどさっさと経ってくれればいいのに。

「親父と言えば薊原家だけどな」

「な。つか、どうなんの。タイセーホーカン?」

「政権交代な。……いや、政権交代でもねえわ」

「交代したからって何も変わんなそー。選挙前からもう対抗馬のガキ襲ってんだろ? どうせロクな奴じゃねーよ。誰だっけ。コジマリュウタロー?」

「木島太郎な」

「薊原詳し」

「政治アナウンサーか? 就職先決まったな」

「政治アナリストな」

「おい国語教師の線もあるぞ」

「英語な」

「つか薊原の親父が負けたらどうなんの? 国外追放?」

「罪重いなオイ」

「まあブタ箱ぶち込まれるくらいはするんじゃねえの。最近の対立候補、よく負けると警察に引っ張られてんだろ。しかもあいつやることやってるし。金で抱き込んでるからまだわかんねーけど」

「このあいだ選挙前に叩き込まれた奴いたよな。対立候補の暗殺未遂とか言って」

「選挙事務所に不審火出たってやつか」

「あ? 車囲んで窓ハジいたみたいな話じゃなかったっけ」

「覚えてねー。あったかもな、そんなんも」

「すげーよな。こういうのアレっていうんだぜ」

「どれだよ」

「キョーサン国家」

「……まあ、そんなに外れてもねーけど」

 社会教師、と鈴木がガッツポーズをした。世も末だろ、と瀬尾がオーバーに笑う。笑う気力がないというか、かなり笑えない話題だったので笑わないまま薊原はもう一口。

 かなり終わりが見えてきた。

「んで、薊原はどうなんの?」

 鈴木の問いに、ぼんやりと将来のことについても。

「……知らね。それより先に宿どうすんのかだよ。しばらく」

「は? 学校いりゃいーじゃん」

「男子は話ついたけど、女子の方はまだわかんねーだろ。オレだったら死ぬほど嫌だぜ、政治で揉めて今でも狙われてるかもしれねー奴を引っ張り込むの」

「いいじゃん、薊原は大人しいんだから。去年のこいつなんかマジで終わってたぞ。よく式ちゃんキックで顔面ぶち折られて殺されなかったよな」

「ちょっとその話死にたくなるからやめね?」

「ボク、人の嫌がる話大好き!」

「最悪すぎだろ」

「こいつ先に追い出さね?」

 今でも花野とか絶対オレのこと嫌いだよ、なんて情けない調子で鈴木が愚痴を吐く。おう、絶対そうだよ安心しろ、と瀬尾が追い打ちをかける。逆に花野に好かれてる奴なんてこの学校に存在してるのか、と薊原は思っているが、変な方向に話が跳ねそうなので話題に出さずに心の中に留めておく。そういやあさあ、と瀬尾が言う。最近IR街の方で新宿直通の夜行バス通ってるらしいじゃん。クソ治安悪い奴ら輸入してるやつ。

「あれ乗って東京行くのどうよ?」

「東京行ってどーすんだよ。三百円しかねーんだぞこっちは」

「おめーはバナナでも買ってろ。実際、どうしようもなくね? オレらみんなIRの方に出てくのも無理だし、ここにいたってじりじり潰れるだけだし。薊原のパパンがパクられてねーうちにどっか出てかなくちゃしょーがねーだろ。向こうで心機一転オレオレ詐欺屋さんでもやろーぜ」

「やるか馬鹿」

「オレもそういうのいいわ……。普通の生活がしてーよ」

「普通の生活ができねーからオレらこんなんなって――」

 ガタン、と後ろで音がした。

 薊原はゆっくり振り向く。そのときにはもう扉が閉まるところしか見えない。けれど対面に座る二人からはその前に何が起こっていたのか見えていたのだろう。鈴木が機敏な動作で立ち上がる。駆け足で廊下の方に向かっていって、扉を開けて、

「ミカちゃんじゃん。どした?」

「あ、いや。ごめんなさい。べつに――」

「だいじょーぶだよ。オレらここでダベってただけだし。なんか用事?」

 入りな入りな、と強引に鈴木が中に連れ込む。かえって可哀想だろ、と半身で振り返りながら薊原は思う。

 一年の三上、と思ったよりすぐに名前が出てきた。

「あの、全然今じゃなくていいんですけど。お昼のカレーの――」

「え、今日昼カレー?」

「カレー! マジかよ! カレーだってよ薊原クン!」

 この世にこれより面白いことはない、という勢いで瀬尾が馬鹿笑いを始めた。

 釣られて鈴木も笑っている。声を出さないまま壁に手を突いて背中を震わせている。え、え、と三上は困惑している。薊原はこの口内環境でカレーを食わされることの絶望と目の前の可哀想な後輩への気遣いを天秤にかけ、後者を取った。

「やめろ、怖がってんだろ。気にすんなよ、こいつら声デカいだけで馬鹿だから」

「あ、は、はい、じゃないや、」

「カレー食うのに何時間かける予定なんだ? 薊原クン」

「うるせえな一日かけて食うよ文句あるか」

「無理すんなよ、薊原……な、ミカちゃん。カレーって何かに作り変えらんねえ?」

「おい、いいって」

「こいつ口の中怪我してて刺激物ダメでさ」

「あ、はい。実はカレーがダメな子が一年生にもいて、それで……」

 コンソメとか麺つゆがあるかどうか確かめに、と消え入るような声で三上が言う。ひとしきり笑い終えたのか、瀬尾が「よかったじゃん」と言った。どうも、と薊原は気のない声で返す。

「コンソメかめんつゆ? 何作んの?」

「あ、ポトフとか、肉じゃがとか、材料似てるから……あの。こういうのって、勝手にやっちゃダメですよね。誰に言えばいいですか?」

「勝手にやっていーよ。どーせ式ちゃんはこの手のやつ『いいよ』って言うし」

「え、」

「つか夏合宿前にアレルギー調査やったじゃん? あそこの下の方に普通に嫌いで食えないもんとかも書いていいんだぜ」

「まあ気ぃ遣うわな。来年からはちゃんと書いとくようにそいつに言っときなよ。どうせ来年は洪と岩崎だから大体方針一緒だろ。鈴木、オレらでなんか作って落ちぶれ貴族に恩売ろーぜ」

「誰が落ちぶれ貴族だ」

「おう。ミカちゃん、オレらも手伝ってだいじょぶ? 邪魔?」

「あ、いえ全然……」

「んじゃやろーぜ。冷蔵庫どこだっけ」

 ガサゴソと三人が動き出す。冷蔵庫を開けて「意外とあんな」「おいシチューあるぜ。三上、これ使って大丈夫なやつ?」「え? えっと……」「使っちまおうぜ。どうせ薊原ともう一人、一年の誰? カレー食えないの」「あ、中浦さんです。午前中は病院行くみたいで今はちょっといないんですけど」「シチューはだいじょぶ?」「大丈夫……だと思います」「んじゃ薊原と中浦ちゃんの二人分カレールー余るじゃん。シチューの日にオレらの分だけカレーに代えればそれでよくね?」「鈴木お前IQ弄った?」「超高性能スーパーコンピューターと呼んでくれ」「頭悪そ~」

 そこから繰り広げられる「シチューは回復アイテムっぽい」とかそんな話を聞きながら、ようやく薊原は記念すべき行為に至る。最後の一口。ひょい、と放り投げるようにして口の中に運ぶ。牛乳で流し込む。明日からはびしゃびしゃにして食おう、とひそかに心に決める。

 そして、これだけやってもらっておいて座ったままでいられるほど図太くもない。

「んじゃオレも飯の準備――」

 手伝うわ、と腰を上げた。

 そのとき、廊下の向こうから「おおっ」とどよめきが聞こえてくる。

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