猫かぶりと学校 ③


「やったぁー! 自転車に勝ったー!」

 図書館に行く道中でいきなり汗まみれの岩崎に見つかり、「勝負だ!」と勝手に併走を始められた。他の陸上部員を二人でぐんぐん抜き去っていく。が、地方大会で結果を残している岩崎の方が流石にこっちより速い。最後の方では一馬身以上の差をつけるきっぱりとした勝敗が着き、そりゃよかったね、と花野はハンドルを左に切った。図書館にも着いた。

 生垣の向こうから「負け逃げ!?」という叫びが聞こえてくる。純然たる逃げだそれは、と思いながらボロボロの屋根付き駐輪スペースに自転車を停める。鍵を閉める。

 図書館と呼んではいるけれど、実態としては公民館半分に図書館半分くらいの複合施設だ。

 二々ヶ浜市民交流会館、というのが昔の名前。今は二々ヶ浜の名をこんな辺鄙でちんけで過疎化の進んだ地域ごときが独占するのはいかがなものかという市街の皆様からの温かいご意見によって、ふれあい交流センターと名前が変わっている。すっかり住み着いたツバメとすれ違うように自動ドアを潜る。涼しい風。おー、とちょっとだけ目を細める。七年くらい前から変わり映えのしない郷土の歴史紹介コーナーがエントランス。右に行くと公民館で、そっちのシャワールームや浴場を使う生徒もいるけれど、自分は七年前の社会科見学以来一度も踏み入ったことがない。左が図書館。カバーが千切れて綿が飛び出たソファを横切って歩く。点けっぱなしのテレビがものすごく小さな声で喋っている。

『連日報道されております文科大臣が都内ホテルで遺体で発見された事件ですが、警察は自殺とみて捜査を進めているとのことです。これに関し三十日、記者からの質問に富沢官房長官は「捜査中のことであり政府としてはコメントする立場にない」としています。また、警察は国立大学の大規模入学不正問題との関係についても「現在捜査中」と回答しており、亡くなった上朝文科大臣の後任となった齋藤文科大臣はこれらの問題について「事実であれば慎重に調査する」とコメントしております。このことについて、コメンテーターに元警察庁官僚の――』

 あ、と左に曲がる前に気が付いた。

 調べものなら別に、この空間でも多少はできるはず、と。

 そのまま奥へ。やたらに大きな窓は大変日当たりがよろしく、とんでもなく暑い。こんなところに郷土資料を置いておいて大丈夫なのかは知らないが、ガラスケースの中にちょっとした絵と写真、説明書きがある。

 地理情報と政治家の昔話だけ。

 興味なし。

 無駄な時間を過ごしてしまった。戻って今度こそ図書館の方へ。真っ白で病院みたいな廊下。左手にそこそこ大きなシアタールーム兼集会場がある。社会科見学のときはここで何かの映像を見せられた気がするが、何を見たかは全く覚えていない。今は横に立て看板が出ている。

『日本人らしさを取り戻す ~日本古来の伝統に沿った子育てを考える親の会~』

 こえーよ、と目を逸らした。一番下にさらっと書いてあった開催団体の名前は『方舟』系の団体だった気もするけれど、この手の変な団体は多すぎていちいち覚えていられない。

 逃げるように図書館へ。

 すごく暗い。

 やっていないというわけではなかった。たまに来るといつもこんな感じだから花野はよく知っている。この建物のクーラー代はものすごくケチられていて、涼しいのはエントランスと公民館側のほんの一部だけ。図書館の効きは特にすこぶる悪くて、涙ぐましい努力として天井のシャッターやらカーテンやらがほとんど常に閉まっている。けれど電灯も元は三本あったところを二本にしたり一本にしたりしてるから、死体安置所みたいな暗さをしている。とても文字を読み込んだり勉強したりするのに適した空間とは言えないが、何の問題もない。小学生の頃に見た『自習等の長時間のご利用はおやめください』の張り紙はいつの間にか撤去され、ついでにあらゆる机も撤去された。二々ヶ浜市は断捨離が得意だ。そのうち市民の腎臓とかも勝手に捨て始めると思う。

 たぶん、よりカビ臭い方が多分目当ての方。

 新刊図書は去年とそれほどラインナップは変わっていなかった。SNSで話題になっていた文庫本がいくつか。教科書には絶対に書けない日本の本当に正しく美しく素晴らしい歴史。ヘイト本。今年の運勢を占うハンドブック。国会議員の自伝。現役医師が教えるあなたが病気にかかる本当の理由。

 文庫本の何冊かは読書感想文用に借りて行ってもいいかもな、とちょっと思った。

 けれど一旦後回し。スカスカの本棚の間を歩く。職員の人員削減の話が出たときに「本がたくさんあって管理が大変なので」みたいな反対理由を述べたら「じゃあ本を捨てろ」という流れになったらしい。実用性が今でもあるんだかないんだかよくわからない古臭い自然科学の棚とか、レシピ本の棚の間を彷徨う。昔はキッズルームの方によく行った覚えがあるけれど、いま目の前を通りがかると入り口はものすごく狭いし下駄箱の背もめちゃくちゃに小さい。そういえば昔読んでいた本のシリーズは今も続いているんだろうか。気になったけれどやっぱり後回しにして、普通に館内に雀が入り込んでいるのを見つけてぎょっとしたりして。

 一周ぐるっと回ったら、ようやくそこにあると気が付いた。

 郷土資料のコーナー。

 昔、ちらっと母から聞いたことがあった。二々ヶ浜の歴史みたいなものはこういうところに物好きが寄贈したり、何なら自分で作って置いたりしていると。果たしてその信憑性はいかほどのものかと思わないでもないし、そういうのはついさっきまで学校のパソコンで見ていた進化論の話――宇垣から投げかけられた一連の言葉にも繋がってくるわけなのだけど、今はまだその辺りの整理が自分でも付けられていない。

 だからとりあえず、情報を蓄積しておくことだけを優先する。

 図書館だっていつまであるかわからないし、目の前のこの本だって明日にも捨てられてしまうかもしれないから。

 一冊を適当に手に取った。大判で、本棚を上手く支えに使わないと両手を使っても持ちにくい。『二々ヶ浜の歴史』と銘打たれている。暗い。読みにくい。パラパラ捲る。地理情報とか地区情報とか、なんちゃら藩がどうとか古墳がどうとかそういうこと。自分が求めているのは、とそこで花野は自覚する。こういう実態的なものじゃないらしい。

『二々ヶ浜の歴史』を棚に戻す。

『二々ヶ浜の民話』を手に取った。

 目次に目を通すと、どうもそれっぽい気がした。一旦キープ。本棚のスカスカのところに置いて、もう何冊かそれっぽいものを見ておく。『二々ヶ浜の民話』が一番良い気がしたけれど、もったいない精神を発揮してもう三冊くらい。ポケットから財布を取り出す。図書カードを抜き出す。両手に四冊を抱えてカウンターへ。これからはDXの時代ですよ、と導入された自動貸出機を一応触ってみる。動かない。三年前からこんな感じなので別に驚きはない。

「すみませーん」

 声をかけても出てこない。前はこうすればよかったんだけど、と困っているとカウンターの奥、薄暗い中に張り紙がしてあるのが見える。

『貸出のセルフサービスについて』

 二々ヶ浜市では事務作業の軽量化と行政の効率化のために云云かんぬん。その下に非常にわかりにくい、高齢者ならまずそのまま諦めてしまうような細かい手順。それに従って花野は机の上のバーコードの読み取り機を使ってみる。が、そもそも『二々ヶ浜の民話』にはバーコード自体が見当たらない。しばらく暗闇の中で目を凝らす。すみません、ともう二回くらい言う。出てこない。いつも受付にいた職員の人が雇い止めになったという話と運営が民間委託になったという話を聞いてから、一体この場所は何が何なのか全くわからない。いつの間にか無人化したのかもしれないし、もしくはあの事務室に続くのだろう扉の奥ですっかり従業員は腐った死体になっていたり、殺人犯がそこでもっちゃもっちゃと包丁片手に何かを食べながら次の犠牲者を待ち構えているのかもしれない。

 もういいや、と思った。

 すぐに返せばいいだろう。政治家だって機密情報を家に持って帰って、何なら政治家を引退してからもそのまま返さなくたって開き直れる時代なんだから。

 両手に本を抱え直して、すったかたったーと早足で図書館から出ていく。エントランスの方へ。クーラーがよく効いている。かえって肌寒い気がする。だからさっきの、特に明るい窓際へ。椅子の上に四冊を置いて、座って、膝の上に『二々ヶ浜の民話』を広げる。

 目次をよく見る。

『ペリーより早い!? 二々ヶ浜市に黒船来航!』

 あんまり真面目に読むもんでもないんだろうなと思いながら、二十六ページ。

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