猫かぶりと学校 ①
小学校中学年くらいの頃。
絽奈は、「もしかすると目の前にいるこのよく笑う友達はこの土地の神様みたいなもので、それが子どもに紛れて遊んでいるんじゃないか」と疑っていたことがある。
理由は、なぜか自分に不条理なくらい優しいから。
もちろん、そんなわけはないのだけど。
「……コスプレみたい」
「コスプレ、なに?」
「本当はそうじゃないのに、そういう姿の真似をしてみるってこと」
ウミに言葉の解説をしながら、絽奈は姿見の前に映った自分の姿をまじまじと見ている。普段は布をかけっぱなしにしていてろくに日の目を見ることもない鏡面は、式谷が定期的に「この布そろそろ埃すごいよ」と洗濯してくれるタイミングで磨かれているらしく、夏の朝日を目も眩むくらいに強烈に照り返している。後ろで「コスプレは、これ?」と言いながらぐねぐね形を変えて可愛い宇宙ネコの姿を取るウミのことも、鮮明に映し出している。
うん、と頷けば、鏡の中の自分も頷いた。
鏡に負けないくらいにピカピカの下ろし立てみたいな――というか、本当に数回くらいしか着ていないから実際に下ろし立て同然の二々ヶ浜中学の制服に身を包んだ自分も。
全然似合ってない、と絽奈は思う。
いつ見ても違和感がすごい。なんだか人間に化けたキツネになったような気分。鏡の前で身体を回して、尻尾が出てやしないかと腰のあたりを確かめる。出ていない。当たり前。正面に向き直る。
もう十分くらい、ここでこうやっている。
時間をかければかけるほど外の日差しは強くなっていくし、到着するまでに掻く汗の量が増えてしまう。
だからこれで最後にしよう。
じっ、と絽奈は鏡の中の自分を見つめた。
流行りの髪型とかはよく知らない。けどたまに美容室くらいには行くからそんなに悪くないんじゃないかと思う。顔もまあ、よくわからないけど毎日洗ったりしてるし大丈夫だと思う。爪は暇なときによく切ってるから一番綺麗な自信がある。シャツのボタンも一番上以外は全部留まっているし、下にジャージの短いのを着てるから透けても平気。スカートをスラックスに変えた方がこのぼんやりしたコスプレ感は消える気がしたけれど、クリーニングの袋をもう一枚破って「やっぱこっち」はそれはそれで面倒な気がする。据え置き。ホックは止まっている。晶ちゃんはいつ登校してもスラックスを履いてる。思考を断ち切る。気にしない。
タケノコみたいに伸びると思われていたみたいで、入学のときに買った制服の裾はまだちょっと余っている。なんだかそれが野暮ったいような気がするけれど、まあいいや、と自分で区切りを付ける。
どうせ何を着ていたって、「似合う」と「可愛い」しか言わない奴もいるのだ。
「――よし」
言って、絽奈は鏡の前でぱちりと手を打った。
そのままにしていって日光で火事なんかが起きたら怖い。鏡にはちゃんと布をかけ直しておく。ウミが興味深そうにこっちを見ている。テレビは点けっぱなし。流れているのは朝のニュース。速報が入りました。二々ヶ浜市IR街で発砲事件が発生。犯人らしき男はその場で警察に拘束されました。続報が入り次第お伝えします。さて朝の恒例、星座占い! まずは十一位から七位までの運勢とラッキーアイテムはこちら――今日も世はなべてこともなし。
七時五十五分。
「じゃあ私、行ってくるから」
「うん」
「お昼ごろには戻ってくるから、テレビ観て待っててね」
「いえー」
ウミが片手を挙げた。
ちょっと絽奈は面食らう。教えていない言葉だったから。急成長。もしかすると帰ってくるころにはテレビから言葉を吸収しまくって、日本語もぺらぺらになっているかもしれない。
でも今は、とりあえず。
「いえー」
合わせて右手を挙げて、士気を高めた。
何せ、半月ちょっとぶり――期末テストを受けに行って以来の学校なのだから。
□
「あの人、そのうち宇宙人でも連れて来るんじゃないですか?」
怖いこと言うなよ、と思いながら多目的室の隅のパソコンの前、椅子に座ったまま花野は一年の桐峯のことを見上げている。そしてこうも思っている。
なんで私に言うんだよ。
「こういうことを勝手にされたら困るって、花野先輩も思いません? あんな怪我した人連れ込んで……しかも市長の息子なんですよね? どうするんですか、いきなり学校が襲われたりしたら。朝のニュースにも出てました、また事件が起こったって。私たち学年委員には生徒を守る義務がありますよね?」
「そう思うなら直接どうぞ」
「……女子の意見は、女子代表の花野先輩に言ってもらうのがいいと思うんですけど」
「女子代表の花野先輩としてはどうせ襲われたとしても被害を食らうのは男子部屋だろうしどうでもいいと思ってます」
「昼間に来たら、女子も巻き込まれるじゃないですか! 大体それじゃ安心して眠れないですし――」
めんどくせ、と花野は心の底から思っている。
八月のほんの手前のことだった。式谷が変な挙動を見せ始めてからズタボロの薊原を連れて帰ってきてほんの数日。最近花野はスマホの通信容量をケチって教室隅のパソコンに釘づけで、そこを桐峯――一年の学年委員に捕まっている。
ちら、と一応多目的室の中を見回した。
二年の学年委員の姿はない。耳に届くとおり、今ごろ洪は四階の廊下で高良と一緒に金管だか木管だかの朝練をしている。確かめたわけではないけれど多分岩崎も、今日は比較的涼しい日だから図書館の方まで足を伸ばして、何が楽しいのか坂道を上がったり下ったりしていると思う。二々ヶ浜中学生の部活加入率はズタボロの一言だけれど、洪と岩崎の二人は珍しく形骸化した部活動の部長として日々逞しく生きている。別に歌うのも走るのも好きではない花野としてはどちらも理解しがたい行為だと思っているが、理解しがたい人間がこの世にいるというのは悪いことではない。自分が面倒くさがっていることを喜んでやってくれる場合もあるから。
一年の男の方は、と探そうとして思い出す。
八木坂。そういえばあいつは、結局夏合宿が始まってから一度も顔を見せていない。
「――あの、花野先輩。聞いてます?」
「聞いてはいるんだけど」
興味はない、という言葉は一応呑み込んでおいて、
「ちなみにそれ、女子の意見って言うけどどのくらい共有されてんの」
「みんな言ってますよ」
「誰と誰と誰?」
一瞬、鼻白んだ様子を桐峯は見せた。
が、多分ハッタリではないのだろうと花野は思う。自分の言葉が耳に届いただろう距離で、数人の一年女子が身体を強張らせるのを見た。結構多い。が、説得できない人数ではないだろうなとも思う。そもそも今のこの学校には大した人数もいないし。
「言えません。みんな怖がってますから。だから私が代表で来たんです」
そして桐峯は桐峯で、怖がっていないわけではないのだろうと思った。
実際、と座ったままの視点だからよくわかる。桐峯は最初からずっと拳を握り締めているし、それでも隠し切れずに微かに震わせてもいる。
まあわかる、と思う。
話す内容も内容なら、ほとんど面識のない上級生相手に直談判だ。自分と式谷だと遥かに式谷の方がやわらかい雰囲気をしていると思うが、よりにもよって問題の薊原を招き入れたのが式谷の方なのだ。かろうじて話が通じそうなのは、と消去法で選ぶしかない。
だから花野は、
「まあ、気持ちはわかる」
「――ですよね、」
「けど、たとえば八木坂とかがボッコボコにされて逃げてきたらそのときも同じようにする?」
面食らったような顔。
あんまり年下とこういう話するの好きじゃないんだよな、と花野は思う。元々の話し方が話し方なだけに、会話じゃなく一方的な叱責に聞こえていそうだから。
「い、いま関係ありますか」
「避難所みたいに使いたがる生徒が他にも出てきたら、って想定はしておいてもいいでしょ。実際、街の方でああいうあからさまにヤバい団体と揉めたわけじゃなくても、家庭の事情とかでそういう使い方をしてる人だっているし。今年はまだないけど、毎年何回かあるよ。すごい親が『誘拐だ!』とか言って怒鳴り込んでくるやつ。そのへんふらっと人が増えたり減ったりしてもいいようにあのバ――ボランティア。ボランティアね。ああいうプログラムを組んで、お金の問題とかを緩くしてるわけだし」
「…………」
「もちろん程度の問題とか、実際事情を聞いてみてどうかとかはあると思うけど。ただ、桐峯が学校の安全とかみんなのためにとか、そういうことを思って薊原の話がしたいんだったら、前後の事情とか基準までよく考えておいた方がいいんじゃん」
式谷って意外と頑固だからめんどくさいよ、と言えば。
ぐ、と桐峯の拳がさらに強く握られたから、
「一人で今すぐどうこうっていうのも難しいと思うから、一旦そのへん、追い出し派で考えてみてよ。それでまとまった意見聞いて、私も納得したら一緒に式谷とか薊原のところ行くから」
「――いいんですか」
「だって怖いでしょ。上級生に面と向かって出てけって言うの」
ふ、と指から力が抜けるのを見た。
実際のところは、と花野は思う。たぶんそんなに怖いことにはならない。式谷から行こうとするから面倒な事態になるのであって、薊原を直接小突けば一発で出ていくだろう。あれであいつは妙に繊細っぽいというか遠慮がちというか、人と距離を置きたがるところがあるから。外ではどうだか知らないけれど、校内では声を荒げたところすらろくに見たことがない。
「……そうしてみます。あの、いつ頃までにとかありますか」
「私は別にいつでも。って言っても明日がバイトで、明後日が昼当番だから……」
「今日中がいいですか?」
「いや、今日はちょっと用事があって外出たいんだよね。式谷の都合もあるからアレだけど、夜とかで大丈夫なら。それがダメなら明後日の昼以降かな。オッケー?」
大丈夫です、ありがとうございます。
そう言って桐峯は綺麗に頭を下げて去っていく。こいつの方が岩崎より体育会系っぽい態度だななんて思いながら、いーよいーよ、とそれを適当に花野は受ける。失礼します、と桐峯が多目的室から去っていく。一年の担任って誰がやってんだっけどんな指導してんだろ、と思う。
他の一年生は、誰も動く気配がなかった。
どうせこのあと女子部屋で合流するつもりなんだろうから、と気を遣って早めに立ち去ってやることに決める。
パソコンの画面はいつの間にか暗くなっていた。シャコン、と古臭いマウスを動かす。もう一度点く。タイトル。
『進化論の誤解と濫用について』
右上のバツ印を押して、ブラウザを閉じた。
「このあと使う人ー」
呼び掛けると、一瞬の沈黙。大丈夫でーす、と一言返ってくれば、無言の肯定の空気。はいよ、と答えてシャットダウン。いま返事をしたのは一年の新貝。誰も何も言わないときにとりあえず何かを言ってしまう奴は便利なので、このまま八木坂が戻ってこなければあいつが一年男子の学年委員になるんじゃないかと思う。
便利な奴は延々使われる羽目になる。
自分に言い聞かせてるみたいで、ちょっとげんなりした。
がら、と扉を開けて、素早く閉める。死ぬほど暑い廊下。多目的室の目の前にはちょっとした本棚と高校受験用の過去問一式――もっともその背表紙に記された学校名のほとんどはもう県内から消失しつつあるけれど――があって、近所の内科の待合室の五分の一くらいの狭さの憩いのスペースがある。窓がやけに広いからものすごい量の日差しが差し込んでいて、魚の干物を作る以外にはとても役立つようには見えない。
西棟から出た方が、昇降口は近い。
だからすぐに左に折れて、階段を下る。トトトントン。下りた先の一階は意味不明なくらいに暗い。どうなってんだこの学校の採光は、といつも思う。絽奈なんかの家も何となく暗い場所が多い記憶があったけれど、こっちは風の通り道がない分余計に陰気臭い。この階の流し台は誰も使っている気配がなくて空気がかなり廃墟に近い。トイレは教員との鉢合わせを嫌って生徒が寄り付かないせいで実質教員専用になっている。別に二階三階四階と間取りも全然変わらないはずだと思うけれど、ドアを開けたら包丁を持った不審者が立っていそうで雰囲気がかなり嫌だと思う。
通り過ぎる棚には過去の栄光がトロフィーとして飾られている。たまに美化委員が掃除させられているけれど、新品の雑巾で拭かれるくらいのことしかしていないので、日陰の中で少しずつ錆び付き始めている。左に曲がる。三年の下駄箱が一番近い。
式谷が簀の子の上に腰を下ろしているのを見つけた。
背中を向けている。俯いている。隣のラベルのないペットボトルは多分流し台から水道水を汲んだやつ。今日は涼しくなると聞いたのに夏の日差しは朝から強烈で、ほとんど式谷はほとんど白く霞んで、消えかけの幽霊みたいに見えなくもない。
怖、と心が後退りする。
けれど靴はその近くにあるから、仕方なく。
「大丈夫?」
「わ、」
近付いて、とん、と足で背中に触った。
急に生気が宿ったように式谷は動き出した。振り向く。顔を見る。汗がすごい。水を被ってきたのかというくらいで、逆に爽やかにすら見える。室内にいたんじゃないな、と思った。室内にいてこの時間からこの汗の量だったら遠からず死に至る。
「何してんの」
「いや、今日涼しくなるっていうからロータリーの草刈りしてたんだけど。暑くて」
「え、手で?」
「違う違う。草刈り機持ち出して」
「教頭それ嫌がんない?」
「そうなの?」
「危ないし何かあったとき責任取れないからって。前に『こんなちまちま草抜かせるくらいなら除草剤撒かせてください』って言ったときもすっごい渋られた。誰に言って借りた?」
「……でも、学校の備品じゃん?」
今の言葉は『勝手に倉庫から引っ張り出して勝手に使っていました』ということを意味している。
おいおい、という目で見つめると、「もうやんない、やんない!」と式谷は言い訳するように両手を振る。どさくさに紛れて「大体終わったし」とも言う。それから人差し指を立ててちょっと歯を見せて、「ひみつね。ひみつ。知らなかったことにしといて」
はいはい、と花野は答えた。
上履きを脱ぐ。上履きを掴む。自分の下駄箱はかなり上の方にあるから、スニーカーを上から放るとパーン、と景気の良い音がする。足の先で靴の口を捕まえる。いつも適当に履くから踵の先がちょっと潰れている。
下駄箱の端の方を掴んでバランスを取りながら、
「反薊原派、たぶん近いうちに来るから適当に準備しといて」
「あ、そっちも来た?」
「男子は?」
「昨日のうちに終わらせちゃった。あんまり苦労しなかったけど、そっちはどんな感じ?」
「黙秘。向こうは向こうで真剣だし。まあでも、鈴木のときよりは手こずらないんじゃないの。あいつと違って薊原って大人しいし」
「…………うん。それはまあ」
「今でも最初の頃のあいつの態度思い出すとぶん殴りたくなる」
可哀想だよ、と式谷は苦笑した。今でこそ花野もちょっとはそう思うけれど、当時は全くそうは思わなかった。こんな奴放り出されて当然だろとすら思った。
喉元過ぎれば何とやら、と。
ペットボトルを傾けて勢いよく水を飲む式谷を見ながら思う。塩分も取らないと死ぬぞ、と余計なお世話。目の前にはミミズなら二秒で干からびて死ぬような日差しの屋外。この時点でかなりうんざりしている。ポケットに手を入れれば、ちゃり、と自転車の鍵が鳴る。
「今日ちょっと出掛けてくる。どうせ一日いるでしょ?」
「うん。宇垣先生もIRのパトロール指導だし。薊原のこと連れてきといて僕がすぐ留守にしちゃうのもアレでしょ」
「適当なところで区切りつけた方がいいよ。学校から出らんなくなるから」
まあでも、と思う。
聞いた限りでは、しばらく式谷もIR街の方には出ていかない方がいいのか。
「んじゃ行ってくる。図書館だから、なんかあったら連絡して。すぐ帰ってくるから」
「りょーかい。ごゆっくり~」
にこにこ笑って式谷が手を振る。それに軽く花野も手を振り返して、冗談みたいな太陽光線に身を晒す。天国は毎日こんな感じなんだと言われたら、正直ちょっと信じる。そして行く気がやや失せる。泥落としがカシャカシャ鳴る。
とりあえず駐輪場の日陰まで、とちょっと早足になる。
そうしたら、すぐに目が合った。
「…………」
「……お、おはよう」
幻覚かと思ったけれど、そう言って喋り始めた。
二々ヶ浜中学校の駐輪場はかつての名残でやたらに広い。その割に生徒数は減っているわけだから、ほとんどガラガラに空いている。当然昇降口に近い方が混んでいる。
けれどその混んでいるところからぽつんと距離を置くようにして、ぴかぴかの自転車が一台停まっていた。
その横に、制服を着たよく知る同級生が立っている。
たぶん、夏休みに学校に来たところを見るのは、これが初めてだと思う。
「何してんの」
「――なんでみんな、制服着てないの?」
絽奈だった。
じりじりとこっちに寄ってくる。不安そうな顔。周囲を窺うようにしている。窺ったところで干からびる寸前の雀とか雉くらいしかいない。全然着崩していないから全然知らない学校の制服を見ているような気持ちになる。
ちら、と絽奈の視線が上の方に向く。
ああ、とそれで花野は気付いた。廊下を歩く生徒でも窓越しに見たんだろう。それで気付いたらしい。
「いや、普通寝泊りするのに制服着ないでしょ。めんどくさいし。みんな一生ジャージだよ」
「え~……」
そして、たぶん。
その場違い感に気付いてから、しばらくここでまごまごしていたのだと思う。
何分くらい、とは聞きたくなかった。とんでもない答えが返ってきて気が遠くなりそうだから。
「中入りな。熱中症になるよ」
「え、今日そんなに暑い?」
「比較的涼しいけど、夏だし暑いでしょ」
ほんと?と本気で不思議そうな顔。
よく見ると汗の一滴もかいていない。死ぬのかこいつは、とちょっと不安になる。
今ちょうど昇降口に式谷いるよ、と言えばパッと顔が明るくなった。いくら何でもわかりやすすぎるだろ、と思いながら一応花野はもう一度、来た道を戻ってそこまで絽奈に付き添ってやることにする。全然同年代というか何なら向こうの方が定期的に収入を得ていて自分より自立した人間であるはずなのだけど、部屋の外や見知らぬ場所で見かけると気弱な赤ちゃんみたいで放っておくのが不安になる。ちょっと目を離すと死んでいそうな気がする。
「式谷、お土産」
「ん、何――」
まだ昇降口にいた。
さっきと寸分違わぬ格好で簀の子の上に座り込んでいた。俯いていた。忘れ物、とほとんど無意識のように唇が動いた。
目の前にいるのが誰と誰なのか、認識した。
「――うわ、可愛い!」
こいつも毎日こんな感じなら人生楽しいだろうな、と思った。
暑さで参ってたんじゃないのかよ、と呆れるような勢いで立ち上がる。これ以上ないくらいに笑っている。「なんで制服なの」とくるくるこっちの周りを回りながら訊いて、訊かれた方は恥ずかしそうに「うるさい」と言う。
「久しぶりに見た~……。えーすごい似合う……あれ、どしたの今日? 用事?」
「別に。なんか忙しいみたいだから、私から来てあげた方がいいのかなって思って出てきただけですけど」
ぱああああ、と幸せの効果音まで聞こえてきそうな式谷の顔。
不機嫌っぽく見せておいて全然満更でもない感じの絽奈の顔。
何を見せられてんだ私は、と考え始めている花野。
じわじわと精神は削られつつあった。こんなところにいると頭が悪くなる。そう思って、さっさとこの場を後にすることを決める。
「じゃ、私は行くから。後はごゆっくり」
「あ、晶ちゃん。ありがとう!」
「ありがと花野さん。気を付けて行ってきてね」
はいはい、と背を向けながら、肩の上あたりで手を振る。絽奈と式谷が話している声が少しずつ遠ざかっていく。この分だと薊原の話はうやむやになるかもしれない。今日は紬が来ているから、多分大騒ぎになる。
まあ、それならそれでもいいか。
改めて駐輪場へ。自転車を手に取る。鍵を突っ込んで、回して、ストッパーを外す。全く不要の後方確認。引き出して、跨って、校門まで早速漕いでいく。
「あっつ……」
げんなりしながら独り言。左に曲がって坂の方。植え込みのところの塀の上、黒っぽい色をした猫が日陰からじっとこっちを見つめている。このへんは道路の舗装が老朽化でガタガタでそんなにスピードも出せていなかったから、ちょっとだけ花野はペダルを緩める。左手で見えないリンゴか何かを掴むようにして、
「にゃあ」
律儀なことに、にゃあ、と返してくれた。
ふふ、と笑ってすれ違う。
猫は、結構好きだ。
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