サマー・フレンド ⑥


 目を覚ますと全然知らない部屋で、全然知らない中年二人に顔を覗き込まれている。

 殺される、と咄嗟に思った。

「――っ」

「元気はあるらしいから問題なし。よかったな少年。寝ている間に死なずに済んで。じゃ、後はよろしく」

「ああ。ゆっくり休んでくれ。お疲れさま」

 片方が――中年の女の方が、軽く手を振って視界から消えていく。目で追う。そんなに広くはない部屋だ。勉強机。クローゼット。安っぽいギターが一本。アンプはない。それを除けばそんなに多くのものはない。整頓されている。あまりインテリアにこだわらないタイプというより、物を置かないタイプ。同年代。

 部屋の隅っこ、薄いカーペットの上で丸くなっている背中が目に入る。

 式谷だ、と気が付いた。

「悪かったね、起こして」

 中年の男が話しかけてくる。となると、とぼんやりした頭で薊原は考えている。自動的にここは式谷の部屋ということになり、するとこの男は式谷の父なのではないか。直前の記憶が蘇ってくる。式谷がスクーターのブレーキをかけたとき。確かに視界には、知らない民家があった気がする。

 そして、顔に冷たい感触がある。

 湿布だ、と思ったから、

「すんませ――っ」

「ああ、いい、いい。ただ、頭打ってたのが大丈夫かどうかを確認したかっただけだから」

 そのまま寝て、明日は病院、と。

 それだけ言って、中年の男は「じゃあおやすみ」と部屋を出ていく。

 残されたのは自分自身と、起こそうとしてものすごく傷んだ節々。教室に掛けてあるのと大して変わらないような素っ気ないデザインの時計が音もなく秒針を回し続けて、ちょっと肌寒いくらいのクーラーの風に机の上、短いドレープカーテンの裾が微かに歪んでいる。ネオンライトのせいで朝と夜の区別をなくしたセミが家の近くで鳴いている。じー、と蛍光灯が静かな音を立てている。

 ん、と式谷の背中が動いた。

 死んだみたいに眠っていたから、急にゾンビが動き出したのを見たような気分になって慄いた。その気持ちが「うお」という言葉に変わる。

 それで完全に起こしてしまったらしい。

 床に手を突いて、式谷の身体が持ち上がる。重力に引かれた髪で横顔が半分くらい隠れている。何かの準備をしているように、いきなりどろどろと別の生き物に姿を変える助走でもしているかのように、生気の欠片も感じられないような様子でそのまま停止する。

 数秒。

「あ」

 と、自分が生きていることを思い出したような声がした。

「起きてるじゃん。どうした? 元気?」

「……まあ。色々痛てーけど」

「生きてる証拠だ」

 んおー、と式谷は両手を挙げて大背伸び。めっちゃ寝ちゃった、と言いながらそれを下ろして、時計を見る。

「うわまだ十一時? 長いなー、一日が」

「お前さ、」

 いつもと全く変わらないような、明るい口調。

 放っておいても何も話は始まらないのかもしれないと思ったから、薊原は自分から切り出した。

「なんでいたんだよ、あそこ」

「迷ってた」

 あっけらかんと答えは返ってきて、

「あのへんにアクアリウム――っていうか、なんて言うんだろう。あのあれ、ペットショップの魚版みたいなところ」

「……アクアショップ?」

「あ、それ。そんな感じ。そこ探して地図アプリ使って行ったんだけど、『目的地に到着しました』とか言ってるのにそこどう見てもハーブ屋でさ。絶対違うと思ってそのへん探し回ってたわけ」

 ああ、と薊原は頷く。

「熱帯魚のとこだろ。あれ条約で禁止されてる魚密輸しただか水槽の底に薬仕込んでただかで店員が引っ張られて夜逃げしたぞ。水槽関係なら高田橋の方のホムセンとか行った方がいいんじゃねーの」

「あれ、そういうの詳しい?」

「知らねーけど。前にあのへんで強盗出たっつーニュースで水槽コーナー映ってんのは見た」

 へー、と式谷は端末を取り出している。指の動きでわかる。『高田橋 ホームセンター』と入力している。確かあのへんは二つ三つくらいホームセンターがあった気がするけれど、自分も詳しくは覚えていない。しかし重ねて店名を訊ねてくることもなく、式谷はふーん、と呟いた後、画面に蓋するように端末を床に置いた。

「まあいいや。それでうろうろしてたら薊原がなんかボコボコに店に連れ込まれてるの見たから、『ピンチ!』と思ってさ。なんかドア開いてたし、キッチンに忍び込んでガス漏れの検知器に殺虫剤ぶっかけて鳴らした」

「ガス?」

「うん。知らない? ああいうのってなんか殺虫剤の……なんだろ。煙なのかな。ああいうのに反応して鳴るんだって」

 完全に火災報知器だと思っていた。

 そして同時に、やっぱりあの音を出したのはこいつだったのか、という納得があって、

「んで?」

「適当に人が来る前にコソコソ店の中移動して、入り口のあたりに油撒いて下準備して、後はあんな感じ。めーっちゃ焦った。喧嘩とかしたことないし。蹴ったらすごいぶっ飛ぶし」

「……オレが自分で走り出さなかったり、ガス漏れで人が来なかったり、蹴りでぶっ飛ばなかったらどうするつもりだったんだよ」

「知らん。全部ぶっつけ本番だし。最初は消火器ぶっかけて何とかしようと思ったんだけど、あそこのキッチン消火器なかったし。やばいよあの店。ていうかさっき調べたんだけど消火器ってあんまそういう使い方向いてないんだって。だから全部思い付きの行き当たりばったりだよね」

 怖かったー、と式谷はすっかりいつもの顔で笑う。

 どんな度胸してんだこいつは、と薊原は慄く。それと同時に、もう一つ。こういうことも思う。

 こいつは正直に「怖かった」と言葉にできるんだ、ということ。

 なんか目ぇ覚めちゃった、と式谷は立ち上がった。

「明日、うちの親が朝病院連れてってくれるって。頭打ったから一応検査しといた方がいいってさ」

「いーよ。迷惑だろ」

「おんなじおんなじ。うちの母さん病院勤めだし、明日日勤らしいし。乗り合わせで行ってきなよ」

 病院、という言葉で思い浮かぶ。

 自分の身体を見下ろす。結構な打ち身があったはずだけれど、包帯が巻かれたり湿布が張られたりガーゼが当てられたり、顔だけは自分では見られないけれど、そこまで含めて丁寧に処置されている気がする。生噛りの家庭の医学の応急手当とか、そういう感じじゃない。というかそもそも、少なくとも今の自分の自宅にはここまで医療品が揃っていない。

 看護師、とか聞いたことがあった気がする。

「……お前んちのかーちゃん、なんかハードボイルドだな」

「でしょ。小学校の担任とか毎回『お母さんが警察なんだっけ?』ってなってたもん」

「わかる。間違えて覚えてたんかと思った」

「休みの日は結構にこにこ笑ってるんだけどね。最近病院が潰れまくって、忙しくて全然休めてないから」

 眉間に皺寄りっぱなし、と式谷は額を叩く。それで、ぼんやり薊原は父親の進めている政策のことについて思う。

 最近の二々ヶ浜市の標語の一つは『健康で真面目な人のための政治を』で、医療機関に対する予算がどんどん削減されている。ギャンブル依存症のようなものは自己責任の範疇であり全く以て政府が救済するに値しないこういうものに金を注ぎ込んでいるから社会保障費が嵩むんです次はドラッグ依存症その次はアルコール依存症その次の次の次は成人病よく考えれば私たち健康な人間が病気の人間に配慮する必要なんて一欠片でもありますかありませんよねほら見てください救急車は元の十分の一の台数まで減らせましたし病院も四つから一つになるまで節約できました私たちのおかげで皆さんの払った税金が正しく使われていますね――。

 父親とその周辺はそういうことをSNSで発信しては支持者からの圧倒的な好評を得ており、そしてその浮いた金でカジノを増設したり、汚職を進めたりしている。マスコミにすっぱ抜かれても悪びれもしないし、支持者も見て見ぬふりをする。追及する記者には「礼儀がなってない」「非常識」なんて恫喝しておけばいつでも拍手喝采で、ついでに今の厚生労働大臣は最近「普通の人は病気になんかならないんだから」と発言し、それ以降一度も謝罪していない。

 なんもかんも、と思う。

 なんもかんも、自分の家が、

「……悪い」

「何が?」

 不思議そうな顔。

 あいててて固まった、と式谷は腰の辺りを伸ばす。それから机の前の椅子にそっと腰を下ろす。随分小さくてボロくて、たぶん小学校に上がったころに買って以来、ずっとそこにあるようなやつ。

「でも薊原、検査して異常なしってなったらどうすんの? アテある? あ、こっちの方の家ってまだ残ってるんだっけ」

「……一応、ばーちゃんちが残ってはいる。ただ、ガスとか電気は通ってねえんじゃねえかな」

 IR街の方の家に戻るのは危険だろう、と言葉にせずともわかっていた。

 何せ街中で攫われかけて逃げてきたわけだ。どう考えても向こうの家のあたりはまだ張られているだろうし、のこのこ出て行けばまた捕まるだけに決まっている。こっちで息を潜めていた方がまだ安全だが、小学生の頃まで預けられていた祖母の家は、祖母が死んでからはずっと手を付けていない。

 そして父親は、自分のことを思いやってどうこう、なんてタイプではない。

 身内の歯やら指やらを送られたら、流石にビビって雲隠れくらいはするかもしれないが。

「ま、それでも何とかするしかねーだろ。自分のことは、自分で」

「学校来たら?」

 普通のことみたいに言うから、普通に頷きかけた。

「……は?」

「学校。ちょうど今夏合宿中だし。ほとぼりが冷めるまでこっちにいたらいいじゃん」

「いや、お前、」

 どう考えても迷惑だろ、と。

 言う前に、去年のことが頭を過る。

「鈴木くんとか、結局薊原が何とかしてくれるまで学校に引っ込んでたら何とかなったじゃん。意外と学校って大丈夫なんじゃないの? 建物が広いから奥の方にいれば人目につかないし。今学校に通ってるようなのってみんなIRの方には寄り付かないような子が多いし。そんなにバレなくない?」

「……いや、オレと鈴木じゃ捜索の真剣度がちげーだろ。つか、あっちは三日でどうにかなったけど、オレの方は期限ねーぞ。いつまで続くんだかもわかんねーし。ずっといられるわけじゃねーだろ。夏休みが終わったらどうすんだよ」

「そのときはそのとき考えればいいじゃん」

 あっさりと式谷は言う。

 思わず口が、ぽかんと開いた。

 こいつにはこういうところがある、と薊原は思う。妙に割り切りが良いというか、さっぱりしているというか。難しそうな問題に簡単で、誰でも思い付きそうな答えをポンと出してしまう。

 もちろん、それが常に正しいとも限らないし、花野から「おいおいおい」と引き留められているところも、よく教室では見た光景なのだけれど、

「夏休みだぞ、薊原くん! 学校に行こう!」

 ぱちん、と無駄に上手いウィンクなんかを披露されると。

 なんだそりゃ、と思わず気が抜けてしまって。

「……逆だろ、普通」

「普通はね」

 恐ろしいことに。

 それもいいか、なんて思わされてしまう。


 七月二十六日二十三時四十二分。

 いって、と薊原は顔を抑えた。

 ぶん殴られたところが、笑うと引き攣って痛かったから。

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