サマー・フレンド ⑤


 七月二十六日午前十一時五十五分。

 ほとんど廃墟のように暗いバーでは、緊張と焦燥が空気を支配していた。

「おい、どうなってんだ!」

「いや、全然……」

「わからなきゃ見てこいっつーんだよ! いちいち言われねーと何もできねーのか!」

 ガシャン、と男がまたテーブルを蹴る。その間もキュオン、キュオン、とサイレンは鳴り続ける。バタバタと足音。見なくても薊原はわかる。普通の頭をしてれば火災報知器の音を聞いたときに向かう先はキッチンだろう。自分の口から漂う血の匂いに混じって、油のような匂いもしてきている。火元を考えるならそこしかない。

 元々電気を点けに行っていた奴らと、キッチンに向かった奴ら。

 それを引いてここに残っているのは、タトゥーの男だけ。

 外に張っていた奴らは撤収した。

 今しかない、と思う。

「――――てめッ」

 ダッ、と地面を舐めるように走り出した。

 頭がくらくらする。真っ直ぐ立っていられない。視界がぼやけてろくに利かない。けれどそれは暗闇の中では、遅れて気付いた向こうの男も大して変わらない。床に転がっていた椅子に足を引っ掛ける。ガシャガシャと音が鳴る。たたらを踏んで堪えられたのは単なる幸運でしかない。足でそいつを後ろに蹴る。ちょっとした呻き声。脛にでも当たってくれていたら喜ばしいことこの上ない。

 あと五歩で、出口の扉。

 そこで、服の背中を掴まれた感触がした。

 ものすごく軽い。たぶん指先がたまたま引っかかっただけだと思う。引っ張り切れば抜け出せるかもしれない。抜け出したところでこの時点で追い付かれてしまっているならもう無意味な逃走なのかもしれない。

 畜生、と少しだけ、諦めかけた。

 そのとき、靴裏が盛大に滑った。

 わけがわからないし、声も出ない。普通の滑り方じゃなかった。ワックスがけした床とか、雪が降って凍り付いた道路の上とか、そういうところで滑るようなのと同じような感じ。踏ん張るとか踏ん張らないとかの問題じゃない。靴裏が全く床をグリップしていない。男の指が服から簡単に離れる。油、と今更気付く。なんで、と考える暇もない。両足が浮いた。前に向かっていた推進力がスリップで行き場を失う。

 頭から床に突っ込む、

 その前に、自分を抱き留めた腕があった。

 かなり遠い。安定感はない。腕の力だけで引かれている。思い切りその腕を掴む。半袖。服が千切れそうなくらいキツく握る。距離が近付く。向こうの腰が入る。そのままぶん投げられるのかという勢いで引っ張り込まれる。

 扉にぶつかる。扉が開く。

 夏の光が室内に差し込む。ものすごい逆光。とてもじゃないが明暗差で目も開けていられない。普通だったら何も見えない。

「――おま、」

 それでも、知っている顔だったから。

 薊原はかろうじて、自分を抱き留めたその腕が誰のものなのか、自分が目にしているのが何なのかを理解する。


 式谷湊。

 虫も殺さないような同級生の、涙が出るほど見事なフロント・ハイキック。


 ものすごく景気の良い音が響いた。

 バーの中にあるものが全部割れたんじゃないかというくらい盛大な音。自分と同じく油で足を滑らせたタトゥーの男は、体重差なんてあってないようなものだったらしい。式谷のスニーカーに顔面をスタンプされて、面白いくらい後ろに吹っ飛ぶ。倒れた机を巻き込んで、土砂崩れみたいな音を出す。思わず薊原は自分の状況も忘れてその様を鑑賞しそうになる。

 肩が外れるんじゃないかというくらいに強く引っ張られて、自分の状況を思い出す。

 いつもあれだけくだらないものに見えたIRの通りが、今だけはものすごく輝いて見えた。

 式谷はこっちを振り向きもしない。腕だけを掴んでものすごい勢いでぐんぐん進む。こいつに足で負けるようなことがあるとは夢にも思わなかった。後ろから罵声が聞こえてくる。痛みだの打撲だのあるいはそれ以上だの、自分の身体に残るダメージを気にしてる暇がない。バーから飛び出てピザ屋の前、シーシャ屋の前、街路樹に背を預けてぴくりとも動かない二十にも満たないだろうガキ、信号があったら右に折れて、四階にカメラ屋が入っていること以外は何も知らないビルの一階を勝手に通り抜ける。油が滑るから途中で靴も脱ぎ捨てた。ついていくだけで精一杯で、それでも薊原は、

「はー、もニ、に」

 伝えるまでもなかったらしい。

 すぐにそこに辿り着いた。ハーモニーの駐車場。スクーターを置きっぱなしにしていた場所。

 数日そこに放置された車体は夏の真昼間に照らされて、信じられないような熱を持っているように見える。薊原はポケットに手を突っ込む。何も指に引っ掛からなくて一瞬全部が終わったのかと思う。もう一度探したら簡単に見つかった。ショックと安堵の間が短すぎてほとんど同時にそれを味わう羽目になる。冷凍庫で頭から熱湯をかけられている気分。ポケットからその手を思い切り引き抜く。

 ばっ、と式谷がその鍵を奪い取った。

「後ろ! 早く!」

 有無を言わせず運転席を取られた。

 問答している時間はなかった。言われたとおりにする。式谷の後ろについて腰を抱く。気絶しそうなくらいの疲労がようやく追いついてくる。気絶するわけにはいかないから必死で目の前のものの認識を続ける。式谷の動きはスムーズで、エンジンの始動から何から異様に手際が良い。絶対乗ったことあるだろ、と思う。無免のまま公道を走るかはともかく、軽トラだの何だの私有地で練習してるガキはこのへんじゃ珍しくない。

 と思ったら、とんでもないアクセルの開け方をした。

 前輪がウィリーするような勢いだった。ハーモニーの駐車場が馬鹿みたいに広くて助かった。ゆっくり開けろ、と叫ぼうとしたがもうお構いなしだった。式谷はその一瞬の間に自分でアクセルのコツを掴み切っている。大通りに出る方じゃなくて、二々ヶ浜に向かう方。裏道のろくに誰も通らない方にハンドルを向けて、朽ち果てる一方の放置自動車の間をこの道三十年のひったくり犯みたいな運転で駆け抜けていく。ちょっと前は違法ヤードの奴らがここでカーチェイスを繰り広げていたことを思い出す。店長の怨念が籠った警告文の赤色とすれ違っていく。

 掴まりながら、後ろを見た。

 誰も、追いかけてくる気配がない。

 地元の奴だけが行く先を知るような農道に入る。青々と茂った稲が風に揺れている。小学生が絵具の混ぜ方も知らないまま描いたような青い空と白い入道雲に向かってスロットルがどんどん開いていく。空が背の高い木に隠れる。林と林の間にあるどう見ても無駄極まりない太めの片側一車線の道を、誰とすれ違うこともなくすっ飛ばす。木陰の下。信号なんて一つも必要ない道。中学に向かう交差点を直進してもっともっと海が近くなる方へ。色褪せたオレンジ色のカーブミラーの中に小さく自分たちの姿が映って、ようやく薊原は茫然とし始める。さっきまでチンピラに囲まれて歯だの指だのを引っこ抜かれそうになっていたあの状況よりも、目の前にあるこの状況の方が信じられない。

 式谷は肩を緊張させて、運転に集中している。

 だから薊原も、最後にブレーキをかけたのを確認して気を失うまで、何も言えなかった。



 くぅ、と小さく空腹の音がした。

 す、と何も言わずに絽奈は自分の腹を抱える。こっそり様子を窺う。ウミの方。テレビに夢中。全然こっちを見ていない。「おと、なに」とは言われずに済む。

 七月二十六日。時刻はデスクトップの時計で確認する限り十三時。

 遅い、と絽奈は思う。

 いくら何でも遅い。一緒にご飯を食べるつもりで待っているのに。

 端末を弄る。テーブルの上に置いたまま人差し指でととととと、と打ち込む。『大丈夫?』『何かあった?』送る。消す。これで『送信取消』の文字が八連続。『上のやつなし』『気にしないで』送る。消すかどうか迷っている。

「ろな」

 ん、と顔を上げると、ウミが風の匂いを嗅ぐ猫のように宙を見上げている。

「くる」

 ピンポーン、とインターフォンが鳴った。

 すごいな耳が良いのかな。そう思いながら絽奈は立ち上がる。部屋の中にドアフォンはないから、廊下に出る。ちょっとした駆け足。いつも思うのだけど家が広すぎて逆に不便だと思う。運動不足にならないからいいじゃん、と言われたときはちょっとだけ「確かに」と思ったけれど、最近はあの運動するゲームもして健康のことも気にしてるしわざわざ普段の生活で疲れることはないと思う。二階にもドアフォンが欲しい。あとこの階段を上り下りする音は家の外まで聞こえているんだろうか。田舎だし本当に静かなときは遠く海の鳴る音が聞こえるくらいだから、聞こえている可能性もないではない気がする。ドアフォンに辿り着くまでに自分の存在がバレてしまったら居留守が効かないし、ドアフォンのメリットがない。

 でもまあ今日は想像がついているし、と軽い足取りでそこまで行く。

 モニターには、想像していたのとは別の顔が映っている。

「何?」

『あ、ごめーん! 携帯リビングに置いてきちゃって。開けて~』

 開錠のボタンを押す。

 ありがとー、と母が言うのに、うん、と答えてモニターを消す。とぼとぼ部屋まで戻る。クーラーでちょっと冷えた身体は初めの頃だけ廊下の暑さを心地よく感じていたけれど、階段を上っているうちに息苦しくなって普通にげっそりし始める。

 襖を開ける。

 ぴょん、とベッドの上に倒れ込んだ。

「みなと」

「んーん。お母さんだった」

 意外と耳が良いわけではないんだろうか。シーツに顔を埋めながら思う。それとも単にまだあまり地上での暮らしに慣れていないだけか。何しろまだ来て一ヶ月くらいだし水中と地上では勝手が違うだろうしまして宇宙から来たんだったら空気だって――

 ひやり、とした空気が髪に触れる。

 顔を上げると、すごく近くにウミの顔があった。

「わ、」

「ろな、なに」

 じっとこっちを覗き込んでくる。きらきらと輝く瞳。元の丸っこい姿とか他の動物になるときは全身が星空みたいな色をしているのに、どうして人のときはその部分が目とか服とか、そういうところにだけ限定されるのだろう。というかそこまで色を変えられるのもよくわからない。普段の色はどう出しているんだろう。逆にどうして顔の部分はその色にしないことに決めたんだろう。服の概念を理解しているのか。それとも何かのおしゃれ精神?

「何って?」

 それはともかくとして、質問のことだった。

 あまりにも端的すぎてわからない。疑問形は意外と語末のイントネーションの上げ方が難しそうで今のところ本格的には教えていないのだけど(最後の一音だけ上げればいいのだと思っていたけれど、「触る?」と「食べる?」とではイントネーションの癖の付け方が違うことに気付いていまだに混乱している。そもそも「食べる」のアクセントが真ん中で上がることすら意識したことがなかった)、何となくウミの雰囲気で質問なのか主張なのかはわかる。

 絽奈、何?

 何のことを聞いているのだろう。

「えー……属性? 属性じゃわかんないか。年齢とか、えっと、職業とか……うーん……」

 そういうことを訊いてるわけではない気がした。職業とか、そういう部分にまで疑問が湧くほどまだウミは地上の世界のことを知らない気がする。年齢も。たとえば自分が宇宙人とコンタクトしたとして、その年齢を訊ねるのは随分先になる気がする。あまり重要なファクターではない……というより、生き物によって年齢の認識が違うから。職業と同じで、もう少し全体的な社会像が把握できないとその情報のピースを嵌める盤面がまず用意できない気がする。いやどうなんだろう。勝手な思い込みかもしれない。何せウミに頑張って言葉を教えているものの、反対はまだまだ進んでいないから。ウミが元々持っていたコミュニケーション方法のことを絽奈は何も知らないし、ウミの思考を感覚でトレースできるほど交流が進んでいるわけでもない。

 でも何となく、ウミも困っているらしいことはわかる。

 だから頑張って、絽奈はその意図を読み取ろうとする。

「私?」

「ろな」

「私が……何?」

「ろな。みなと。なに」

 種族とか、共通項の話だろうか。そう当たりをつけてみて、

「人間」

「にんげん」

「あれもそう。テレビの中に映ってる人たちも、みんな人間」

 指差せば、しかし「ううん」とウミは首を横に振った。簡単なジェスチャーはある程度言葉と連動して使いこなせるようになっている。

「ろな。みなと。てれび、ううん。ろな。みなと」

「……私と湊だけ?」

「だけ、なに」

 絽奈と湊はそうだけど、テレビは違う。

 絽奈と湊だけ。そういう意味のことを言っているのではないかと推測して、絽奈は近くのコップと……適切なものが他になかったから、ティッシュを一枚引き抜いて、それを両手で持つ。「水とティッシュ」右手を隠して、「ティッシュだけ」今度は右を出して、左を見せて、「水だけ」

「あってる。テレビ、いぬ、だけ。ねこ、ううん」

 こくん、とウミは頷いて、犬しか映っていない画面を指差した。

 だけ、の用法を互いに確認することができた。そしてこの部分が通じたとなると、ウミの言っていることは自分と湊の間に限定したことで間違いないのだろうと絽奈は解釈する。

 絽奈、湊、何。

 関係性?

「…………」

「ろな、みなと、だけ。ろな、みなと、なに?」

 ウミが初めて疑問のイントネーションを使った。学習速度に舌を巻く――だけの余裕もない。絽奈は考え込んでいる。自分と湊。何を訊かれている? 単純に自分たちの関係のことなのか。しかしいきなりウミはそこに興味を持つだろうか。二人だけに存在する共通点なのか。たとえば「なぜ君たち二人だけが地上の生命体の中で自分と接触しているのか」とか――これはいかにもありそうに思う。ただの偶然だけれど。単に何となくそうしていて、他に一体誰に相談すればいいのかよくわからないというのが本当のところなのだけれど。

「ろな、おどろく」

 考え込んでいると、さらにウミが言った。

「ろな、おどろく。みなと」

 ウミは襖を指差している。絽奈は驚く、湊。向こうに湊がいる……というわけじゃないだろうと思う。ふと思いついて、絽奈は言葉を追加することにした。

「立つ」

 言って、立ち上がる。それから座って、ちょっと待って、

「立つ、だった」

 他にもいくつかの動作。掴む。掴む、だった。飲む。飲む、だった。破る。破る、だった。

 するとウミが反応して、ベッドに手を置いて、離して、

「さわる、だった」

「うん。合ってる」

 単純な過去形の導入にも成功した。

 時間の概念もウミは持っているらしい。高い言語吸収能力や普段の振る舞いから見てある程度は予想できていたことではあるけれど、それでも絽奈の心の中にはかなり大きく驚く気持ちがある。人間以外に言語を高いレベルで操る動物がいて、その心の中で何を考えているか、世界をどう見ているかを伝えてくれる。たぶん、タイムマシンに初めて乗った人はこのくらい『何かをひっくり返された』気持ちになるんじゃないかと思う。

「ろな、おどろく、だった。みなと」

 そしてやっぱりウミの言う「おどろく」は未来の話ではなく、過去の話だったらしい。驚く。心当たりがあるのはさっきのことになるから、

「音がしたから? ピンポーンって」

「ピンポーン」

「――えっ」

 正解の音ではなく、さっきのインターフォンの音。

 ほとんど完全に電子音と同じ音がウミから出たから、思わず声が出た。

 しまった、と絽奈は思う。なんだかこの反応は良くなかった気がする。ウミも不思議そうにしている。たぶんウミの言う「おどろく」は単に「驚く」という意味ではない。そもそも記憶の限りさっきインターフォンが鳴ったとき自分は驚いたりはしていない。ウミが先に「くる」と教えてくれたから。そうなるとウミの言う「おどろく」は単に「反応する」という意味で使われている可能性が高い。「はんのうする」という語彙をまだ習得していないから、近い語で代用しているんじゃないかと思う。そうなるとインターフォンの音に対する自分の反応を新しく増やすのは良くない。「ピンポーン」に対する「おどろく」がさっきと今とで二つあると、これからの会話の間でどっちを指したかわからなくなってしまうかもしれない。まだコミュニケーションの精度が良くない以上、行き違いの発生する余地はできる限り消したい。

「今の驚くはなし。ううん。ピンポーン、なし」

「ピンポーン、だった、だけ、ううん。ピンポーン、だった、だった、あってる?」

「そう! オッケー、合ってる。より、だった、の方は合ってる。そのまま。もう片方がなしね」

「だった。だった、だった。より、なに?」

 ものすごくややこしいことになってきた。

 頭を頑張って回しながら絽奈は説明を考えている。今、ウミはついさっきのインターフォンの声真似を「だった」で表して、それよりも前の実際のインターフォンの音を「だった、だった」で表している。英語の参考書にこんなのが書いてあった気がする。大過去だっけ。そっちは後で確認するとして、問題は今訊かれていること。たぶん、その意味はこう。

『過去よりもより過去のこと』を表すための簡単な言葉は何?

 そんなの、日本語にあるっけ。

「…………」

 無言で絽奈は両手を小さく上げた。お手上げ状態。適切な言葉が見つからなかったときにするとあらかじめウミと決めているジェスチャー。ここで何か下手な言葉を発すると、たとえば「君の名前は何?」「わかんない」「よろしくね、わかんないさん」なんて流れが発生してしまいそうだから。

 わかった、と言うようにウミは頷く。

 それから改めて、

「ピンポーン、だった。ろな、おどろく、だった。みなと、」

 言い淀むような間。

 ついさっきまでの自分を鏡で見ているような気分になる。ウミは今、言葉を探している。自分よりもずっと少ない、見知らぬ場所の語彙の中から、自分の考えを伝えようとして。

「なに?」

 ウミは、窓の外を指差した。

 指の先は安定しない。青い空も映せば、遠くの林も、近くの農地も、庭の軽トラも、次々指差す。外、と言葉が浮かぶ。けれどすぐにウミが情報を追加する。

「ううん」

 部屋の床を指差して、

「なに?」

 もう一度、外を指す。

 思い付いたことがあった。

 絽奈は立ち上がる。何か適切なものがないかと見回して、すぐに気付いて襖を開ける。敷居の手前に立って、順番に指差す。

「こっち、そっち」

 今度は部屋から出て、

「そっち、こっち。……合ってる?」

「あってる」

 こくこく、と二回ウミは頷いた。強調表現。ほとんどウミの思考方法は人間と共通しているのではないか、と絽奈は思い始めている。

「ろな、ピンポーン、おどろく。みなと、こっち、ううん。みなと、そっち。ろな、みなと、なに?」

「………………」

 そしてとうとう、絽奈のコミュケーション能力は限界を迎えつつある。

 ものすごく複雑なことをウミは伝えようとしているのではないかと思う。多くの言葉を新たに導入したのは意思疎通のためだけれど、そもそも多くの言葉を要求する意思疎通を成功させるのはすごく難しいのだ。ちょっと長い文章になると全然意味が違って伝わるなんて、インターネットで創作をしていればすぐにわかる。たぶん創作していなくてもわかる。何ならインターネットがなくたってわかる。小学生の頃だって上手く会話が出来ないことは一度や二度じゃなかったはずだ。

 でも、そういう部分だって頑張ってきたんだから。

 空腹や疲労に知らんぷりをしながら、絽奈はまた考える。

 絽奈がインターフォンに反応する。湊はこっちにいない。湊はそっち――多分『どこかここじゃない場所』くらいまで指している――にいる。絽奈、湊、何。

 絽奈、湊、何。

 結局はここのところなのだ。

 一番最初の質問もこれだった、と思い出す。結局ここがよくわからないから全部がわからない。色々な言葉を導入して、ウミも頑張ってくれたのに、結局ここの部分を補足する情報が――

「あ、」

 待てよ、と思った。

 確かに一文としては補足情報は増えていない。けれど前の部分が増えている。新しい語彙を学んでまでウミはそれを一連の言葉の中に差し入れた。この部分はきっと、クリティカルに質問の内容に関連している。一見取っ掛かりがないように見えるけれど、たぶんものすごく重要な意味を持っている。

 インターフォンが鳴ったとき、湊がここにいなかったこと。

 ここにいない湊と、自分を繋ぐもの。

「ちょっと待ってね」

 言って絽奈は、ベッドから下りる。パソコンのマウスを触る。スリープに入っていた画面を起こして、検索窓に文字を叩き込む。

 画像検索。

 赤く書かれた、〇印。

「ウミちゃん、これ見て」

 不思議そうにウミがそれを覗き込む。覚えてね、と絽奈は言う。たぶんそのままの意味としては通じていないけれど、この図形が何らかの重要な意味を持つというニュアンスが伝わればそれでいい。ウミがそれをしっかり知覚したらしいことを確かめたら、もう一度パソコンをスリープモードに入れる。

 暗くなった画面。絽奈はウミに向き合って、そのジェスチャーをする。

 何もない場所を指でなぞって作る、大きな丸印。

「そっちにあって、こっちにない。そっち、合ってる、こっち、ううん。でも私たちは、こうやって〇が作れる。……合ってる?」

 訊くと、ウミの瞳がきらめいた。

「あってる。そっち、あってる。そっち、だった。こっち、ううん。ろな、」

 くるーっ、と同じようにウミも、空気に指で線を引いて、

「なに?」

「『思う』」

「おもう」

 ものすごい偉業を成し遂げた気がした。

 やけに難しいと思ったけれど、本当に難しいことをやらされていたんだと思った。動詞の中でも著しく伝達難易度の高い言葉だと思う。だって、実際に目に見える行動として表すことができない。自分の内部で完結してしまうことだから。外から観測する手段がない。自分以外の誰かが本当にそれをしているかどうかすらわからない。言葉をたくさん要求して当然だ。こんなに抽象的なことなのだから。

 思う。

 ここにいない誰かや何かと、自分自身を繋ぐもの。

 心の中で何かを考えるということを――感情や判断の基礎になる言葉を、いま絽奈は、ウミと共有することができた。

「ろな、みなと、おもう。みなと、そっち。こっち、ううん。ろな、みなと、おもう。あってる?」

 確かめるように、ウミが言う。絽奈は湊を思う。湊が違うところにいて、ここにいないとき。絽奈は湊のことを考えている。

 合ってる、と絽奈は答えた。

 ちょっと感動するくらいに、達成感があった。

「ろな、みなと、おもう。うみちゃん、なに、おもう、だった」

 だからその後ウミが続けた言葉を理解するのに、ちょっとだけ時間がかかった。

 もう終わりだと思っていたから、集中が緩んでいた。もう一回、と要求すれば少しゆっくりとした速度でウミはもう一度話してくれる。ろな、みなと、おもう。絽奈は湊を思う。うみちゃん、なに、おもう、だった。ウミちゃんも何かを思った。

 何かってなんだろう、と思ってから、さらに時間をかけて絽奈は気付く。

「……すご」

 なに、という言葉を今、ウミは代名詞として使った。

 今のは「それは何?」の「なに」じゃない。「何かがある」の「なに」だ。すごく自然に頭に入ってきたから、一瞬気付かなかった。わからない部分をクエスチョンマークで一旦代用するようなやり方。これが通じるならお互いに説明が一気に楽になる気がした。

 そして感心しながらも、絽奈はさらにウミの言葉の意味を考えている。絽奈は湊を思う。ウミちゃんも何かを思った。この「なに」は何だろう? 湊ではない気がする。だったら「うみちゃん、みなと、おもう、だった」でいい。もう一回、とお願いする。ろな、みなと、おもう。うみちゃん、なに、おもう、だった。

 時制が違う、と気が付いた。

「ろな」は「おもう」だけれど、「うみちゃん」は「おもう、だった」になっている。

 さっきのやり取りで、ウミは「だった」の数で時系列を表現する方法を理解していることがわかっている。となると、ウミが何かを思ったのはさっきのインターフォンが鳴るより前。どれくらい前なのかはわからない。けれど、「なに」について考察する手掛かりにはなる。ウミがまだ知らない名詞で、そのインターフォンよりも前にウミが接触したもの。

 ろな、みなと。

 うみちゃん、なに。

 対比構造、という言葉が頭を過る。

「絽奈と湊は大体合ってる。ウミちゃんと『なに』も大体合ってる?」

 こくん、とウミは頷いた。

「うみちゃん、そっち、だった、だった。なに、そっち、だった、だった。なに、そっち、だった、ううん。うみちゃん、なに、おもう、だった。うみちゃん、こっち」

 きっと、長い間を話していてこのコミュニケーションのやり方に慣れたのだと思う。

 絽奈はすごくすらすらと、ウミの言うことが理解できた。

 ウミちゃんはここじゃないどこかにいた。

 何かもそこにいた。

 何かがそこからいなくなった。

 ウミちゃんは何かのことを思った。

 だから、ウミちゃんはここに来た。

「と――、」

 頭に浮かんでいる。あの日、二人で見ていたネットニュース。その中の一つの画像。御神体呼ばわりされていた、まるきりそっくりの宇宙みたいな色のアザラシみたいな生き物。

 そういえば、割と最初から。

 そういう話は出ていたな、と思ったから。


「――友達を心配して、こっちに来たの?」

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