サマー・フレンド ④


 七月二十六日午前十一時四十七分。

 五人目を地面に転がしたあたりで、薊原の中には奇妙な錯覚が生まれていた。

 もしかしたら、と思ったのだ。真面目に喧嘩したことなんて数えるほどしかなかったから。学校の体力テストだって遊び半分みたいに受けていたから。自分の腕力がこれだけ強かったとはろくに知らなかった。降ってくる拳は遅いし、蹴りなんか出されたってどうぞ今自分を殴ってくださいと言われているようにしか思えない。顔面みたいないかにも拳を怪我しそうな骨だらけのところを避けて腹の辺りに一発入れるだけで、どんどん相手の頭が下を向いていく。何らかのルールに反している気がする。喧嘩には本当はルールがあって、自分だけがそれを全く守っていないからこれだけ一方的なのかもしれない。イージーモードで始めたアクションゲームみたいで、だから思った。もしかしたら。

 もしかしたら自分は無敵で、このまま誰にも負けないのかもしれない。

 もちろん、そんなのは勘違いなのだけど。

「――ゲッ」

「はは、すげえ声出してんの。おもしれー」

 全然見たことのない奴らばかりで、全然見たことのない場所に連れ込まれた。

 いや、一人は見たことがある。スロットの前でいつも椅子を並べて寝ているタトゥーの男だ。どうせそっちの筋だろうとは思っていたが、実際ボコボコにされたからわかる。体格やウェイトの違いだけじゃなく、そもそもの動きが全然違う。明らかに格闘技経験者。そういう荒事に慣れている奴。薊原一郎が――自分の父がよく金を払って脅迫だの何だのに使ってるのと、似たような筋の奴。

 親の因果が子に報い、と。

 くだらない映画で覚えた嫌いな言葉が、頭に過る。

 もちろん、それだけのことを自分でしてきたのも確かなことだと思うけれど。

「こいつどうすんですか?」

「知らね。だから今電話してんだろ」

「まだ腹痛ってえ……クソガキが!」

「うぐッ――」

「おめー頭蹴んなよ。死んだらどうすんだ」

「は? 殺すんじゃねえの?」

「え? こ、殺……身代金とか、そういうのは?」

「だから知らねっつってんだろ。オレらが決めることじゃねえし。大人しくしてろよ頭悪りいんだからさあ」

 床の上に転がされながら、朦朧とする頭で薊原は周囲の状況を観察している。自分を取り囲んでる奴らはチンピラで多分バイト。若い。大して手強い気配もない。別に気にする必要はない。床は温い。ここで死体になったら臭いがさぞキツくなることだろうと思う。ということはクーラーが入っていない。開店前のバーに見える。こんな場所は知らない。夢中でそこらを走り回ったから今自分がどこにいるのかよくわかっていない。たぶんこの街にいくらでもあるぼったくりバーの一つだと思う。自分が知らないということはここの飯は不味い。並べられた椅子が視界を遮ってほとんど周りの様子を窺えないが、タトゥーの男はここから少し距離を取った場所でさっきから電話をしているらしいことは声からわかる。

「――はい。はい。じゃ、そうします。ええ。加工と配達はバイトにやらせます。はい。じゃ、他は一旦撤収かけてもらって」

 では、と通話を切る音。

 男が馬鹿でかい靴で床を蹴り付けるようにして、こっちに戻ってくる。

「――適当に指切って、歯ぁ抜け。終わったらその指と歯ぁ保管して、他は適当なところに捨ててこい」

 えっ、と戸惑ったのは一番気の弱そうなチンピラだった。

「ま、マジすか?」

「質問しろって言ったか?」

「いや、」

 男がそいつに前蹴りを入れる。机と椅子を巻き込まんで盛大に吹っ飛ぶ。早くしろ、と男が大声で恫喝する。

「大体なんで入口開けっぱにしてんだよてめえらは! あ!? 見られちゃマズいとかちょっとでも思わねーのかよ、オイ!」

「し、閉めてきます!」

「当ったり前のことをいちいち恩着せがましく言ってんじゃねーよ! 頭使えよ使えねェな!」

 もう一度机がぶっ飛ぶ音。しかし扉はすぐには閉まらない。気付いたんだろう、と薊原は心の中だけで思う。店内は窓もほとんどなくて、今でも十分薄暗い。入口の扉を閉めたら光がほとんど入ってこなくなる。

「早く閉めろや猿!」

「は、はい!」

 が、男の恫喝で結局それは閉められる。ほとんど明かりのない室内。男は今更こうなることに気付いたらしく舌打ちをするが、自分で一度出した指示を撤回するのがバツが悪いのか、「早く電気点けろやカス!」と叫んだだけで。暗闇の中で話は続く。

「指と歯、処理したらお前が運べ」

「…………」

「おめえだよ! 耳ついてねえのか、あぁ!?」

「は、はいっ! すみません!」

 よく見る光景だ、と薊原は思う。

 居丈高な恫喝をする奴が賢いとは限らない。むしろ逆の場合が多く、そいつの言うことに周りが従えば従うほど事態は混乱する。こんな状況で大して通い慣れているわけでもなかろう施設の電気スイッチがすぐに見つけられるわけもなく、暗闇は続く。男がどこぞのコインロッカーにという話をしているのを、あのそれってどこのですかと下っ端が聞き返している。地元の奴じゃないらしい。不機嫌そうな声と恫喝が混じるたびに事態の進行は遅れていく。

 これが自分に訪れた、最後のチャンスかもしれない。

 薊原はひそかに、足に気力を込め始めている。


 そのとき、火災報知器が鳴った。



 七月二十六日午前十一時五十分。

 バシャーン、と豪快に大学構内の池に水飛沫が立つのを、緒方は唖然として見ていた。

 自分が予想していなかっただけでなく、葵にとっても想定外の出来事であったらしい。随分距離の空いたところ、池の真ん中を横切る飛び石の上から、呆れたような顔をして彼女はそれを見下ろしている。

 尻餅を付いているのは、自分の指導教官の高元だった。

 必死でここまで走ってきて、膝に手を突きながら荒い息で、緒方は二人を見ている。

「お、お前――このことはお前の学科にも報告するからな!」

「他学部の学生を追いかけてたら足を滑らせて池に落ちちゃいましたって? まあ、したいならどうぞ……?」

 何だか全く現実感がない。

 あれだけ恐れていた相手が――葵にかかれば一瞬で、高いスーツをびしょびしょにして尻に苔を擦りつけた間抜けに見えてしまうのだから。

 ハラスメント相談室の扉を開けたときは、もう何もかも終わったのだと思った。

 ひゅっ、と自分が息を呑む音が耳に届いた。肺が真空になって、胸がべっこりと潰れてしまったような気がした。胃の中に本当に冷たい石を投げ込まれたような気分の悪さが襲ってきた。泣いてもいないのに視界がぼやけて滲み出す。ショック死というのはこういう風にするのかもしれないと本気で思う。

 なんだお前、とせせら笑うことから高元は始めた。

 それからは途轍もなく酷いことを言われた。知能を笑われたし、性別を笑われた。いちいち友達に付いてきてもらわなくちゃ何もできない方の性別、とかそんな感じのこと。お前みたいな奴はどこに行ってもやっていけないとか、生きてる価値がないとか、ブラック企業の典型みたいな台詞。さらにもっと酷いことも言われて、親まで馬鹿にされて、家から包丁を持ってこなかったことを後悔して、机の上の灰皿に目が留まる。こいつの頭をかち割ったらどれだけ爽快な気分になることだろう。段々と沈んでいた気分が上がってきて、視界が真っ赤になって、だから怒りには『真っ赤』という形容が付くんだろうなと奇妙な納得をし始める。

 葵の指が、自分の指に触れた。

 たったそれだけのことが、信じられないような忍耐力と自制心に変わった。

 たっぷり三分弱の罵倒を自分の隣で浴びた葵は、服のポケットから携帯端末を取り出して、

「じゃあ、これがパワハラとセクハラの証拠ってことでいいですかね。高元教授」

 録音中、の表示を見せつける。

 そこから信じられないことに、鬼ごっこが始まった。

 大の大人同士の――二十一歳の学生と、五十代の教授の壮絶な鬼ごっこだ。葵もまさかこうなるとは思っていなかったらしい。高元が飛び掛かってくるのをひらりと躱すと「マジ?」と一言口にして、部屋から飛び出した。高元はこっちを見もしないでそれに続く。扉をくぐるときに壮絶な勢いで肩をぶつけてすごい音が鳴る。それとほとんど同時に聞こえてきたパシーン、という軽くて高い音は多分、葵が何段か飛ばして階段を下りて、ビーチサンダルが床に鳴った音だと思う。

 真っ白な部屋だけが残っている。

 ハッと我に返って二人の後を追い掛けた。

 容易いことだった。ハラスメント相談室はキャンパスの真ん中の辺りにある。ちょっと飛び出せば数日後の定期試験を前に図書館に籠り始めんとする勤勉な学生と、そいつらをどうにか捕まえてノートを借りて身内の試験対策グループで共有すべくウロウロと徘徊する非勤勉学生が幾人もいる。

 それが皆、唖然とした顔をして同じ方を見ていた。だからその方向を目掛けて走っていけば、キャンパス内の池まで辿り着く。

 そして今は、こう。

「――ふ、ざけるな! お前が突き落としたんだろうが!」

「一対一ならともかく、この状況でそれは無理あるでしょ……」

 ほら見なよ、と葵が親指で示すのは、辺りで茫然としている人々。単に勉学や研究の息抜きの散歩に訪れた学生や教員だけではない。ベビーカーを押している教育熱心な家族連れだったり、バードウォッチングに精を出している元気旺盛な老人の集団だったり、あるいはキャンパス見学に訪れている都内の学生服を着た中高生だったり。

 一部はすでに、端末を取り出して録画を始めている。

 そのことを理解するや、高元はいつもの外行きの顔を取り繕おうとして、

「皆さん! この学生がですね、私の私物を盗んで逃走を――」

『――大体、女に教育をなんてのがハナっから間違いなんだよ! 産む以外に能がないくせに変なプライドだけこじらせやがって! 親や学校が「女は男の言うことを聞いて頭を下げるのが一番の幸せです」って引っぱたきながら教えないからお前らみたいな勘違いした女が出てくるんだ!』

 夏の空気すら凍った。

 どうやったんだろう、と最初に緒方が思ったのはそのことだった。動画再生の最大音量でもここまではっきり拡声器みたいな聞こえ方はしないんじゃないかと思う。端末のボリュームを上げるためのアプリでもあらかじめダウンロードしておいたんだろうか。だとしたら葵の手際は信じられないほどいいな、なんて感心。

 セミの声をかき消す勢いで、どんどんエスカレートしていく音声。

 自分のすごく近くに立つ人が、心からというようにこんな呟きをした。

「――きもちわる」

 すとん、とその言葉が胸に落ちる。

 やっぱり怒ってよかったんだ、と緒方は思った。

「めっちゃ語録ありますけど、どうします? あたしは結構あんたらのくっだらないお行儀に合わせてやれるタイプなんで、手続きにしっかり則ってハラスメント相談室から問題解決みたいな道を取ってもいいすけど」

 葵が高元に端末を突きつけながら言う。

 高元の右手が翻る。ひょい、と葵が軽い動きでそれを避ける。冷たい目。最低、という言葉が聞こえてくる。それから場に満ちる奇妙な興奮。社会的地位の高い人間が追い詰められているところを娯楽として鑑賞するような、そんな空気が場に支配し始めているのを緒方は捉える。

 それに反比例するように頭は冷静になってきて、

「お、俺にだって家族がいるんだ。これで全員路頭に迷ったらどう責任を取るつもりだ、えぇ!?」

「その責任ってこっちが取るもんじゃないすよね」

「――人の心がないのか!」

「……あのさあ。今までどう生きてきたか知らねーけど、みんながみんなお前のことを甘やかしてくれると思ったら大間違い――」

「葵」

 名前を呼ぶと、言葉を止めて彼女はこっちを見た。

 さっきまでの冷たい顔なんてどこかに忘れてしまった、というようなあどけない表情。街中で友達に呼び止められて振り向いたばかりのような、そんな顔。それに向かって緒方は言う。

「いいよ、もう」

「……良くはなくない?」

「そうじゃなくて。もう大体終わったから、そんな奴の相手しなくていいよってこと」

 緒方は歩く。木陰の下から池の方。燦々とした夏の陽が降り注ぐ光の下。葵が自分を見上げている。高元も。

 そいつに向かって指差して、思い切り言ってやる。

「こいつ、入試で点数操作して不正入学させてます。親からの裏金は、学生に無理やり開設させた口座に送金させて。政府との共同プロジェクトも全部そこからのコネで、昔はどうだか知らないけど今は学部生レベルの論文一本すら自分で書けません」

 葵がびっくりした顔をしている。

 高元はあんぐり口を開けて、こちらを見上げている。魚のように口をパクパクと動かしている。何かを言おうとする。

 その前に、サイレンが鳴った。

 すごく近い。一旦緒方は空を見上げるようにしてその音の正体を確かめようとする。救急車ではないことは確かだ。消防車っぽい気がするけれど、あんまりパトカーが出す音を聞いたことがないからわからない。

 火事だろうか、と考え終えて、視線を落とす。

 高元が必死になって逃げているのが目に入る。

「えっ」

「おーい……。お迎えが来たと思って焦っちゃったかー?」

 呆れた顔で、その背中を見ながら葵が呟く。端末の背中を手のひらにパチパチと鳴らして、ん、とこっちに向く。

「必殺技持ってんじゃん。証拠取ってあんの?」

「まあ。終わらないなら家にデータ持ち帰って仕事しろとか、そういうのも言われてたから。そのときに全部ぶっこ抜いて」

 物理媒体もあるしクラウドにバックアップも一応、と頷けば、そっか、と彼女は笑って、

「まー、告発すりゃ上手く行くってわけでもないけどね。裏口入学とか、多分関係者は何を今更って感じだと思うし。汚職も毎日とんでもねーのが出てくるから、みんなどれがどれだかで無反応になってるし」

 膝に手を突いて、よっこいせ、とわざとらしく掛け声をつけて立ち上がる。てかさ、と自分を指差して、

「うちのお父さんとか、そういう流れで警察クビになってるし」

「裏口入学?」

「違う違う。なんか殺人事件の証拠捏造してんのとか嘘の自白引き出すための暴力――まあ、拷問だよね。そういうの止めてたらアホほど揉めたらしくて。告発しても揉み消されて義憤に駆られて大暴れ。おかげさまで今日も元気に無職――たまに再就職して警備員とかはやってるらしいんだけど」

「…………あるんだ。そういうこと、ほんとに」

 あるらしいっす、と彼女はさらに笑って、

「まー、だから証拠があって向こうが犯罪やってて、まで揃っててもどうなるかわかんないけどね。停職処分とかで一年もしないうちにさらっと戻ってくるかもしんないし。何ならいつの間にかこっちが悪いことにされてるかもしんないし。そんときはそれこそ大暴れするしかないだろーけど……ま」

 ぽん、と背中を叩かれて、

「今んとこ殺人罪で投獄されるよりはまだマシな感じじゃん? そうでもない?」

 気楽そうなその顔を見つめながら。

 心配になったことを、緒方は一つだけ。

「――これ、葵が一人だけ損してない?」

「友達が投獄されるよりかは損はない!」

 きっぱり言い切って、わははと笑う。

 いいぞ今の若者も立派なもんだ、と何の関係もないバードウォッチングのお爺さんがなぜか拍手をした。どーもどーも、と葵は妙に慣れた感じでその賛辞を受ける。それを契機にしたのか、あの、と緒方は声をかけられる。振り向くと同じくらいの年恰好の女の人。携帯端末を差し出して、よければ今の一部始終録画しておいたのでデータ貰ってください。何かに使ってもらえれば。あと私、人文系の修士課程なんですけどうちの研究室の先生がそういうハラスメント撲滅の取り組みをやっててもし良ければ私から言って相談とか。するとまた別の、今度は男が寄ってきて、自分は今のあれとは別の学部で講師をしている者だが大学内の不正を扱うメディアに伝手があるのでもし圧力がかかるようなら自分を通してもいいし直接でもいいからぜひ連絡を――

「すみません! 一旦学生の皆さん避難してください!」

 振り向いて、やっぱり消防車だったんだと思った。

 この炎天下に防火服をかっちり着込んだ消防士が、こっちに両手を挙げて大声を出している。

「実験棟で事故が発生しています! いま消防が対応していますので、一旦皆さん大学構外に避難してださい! ご協力お願いします!」

 多分、本当だったらもっと騒然とするような警告だったのだと思う。

 けれどさっきの出来事もあってか、不思議な温度感で池の近くにいた集団はそれを受け入れた。パニックになることもなく、道を知っている者は迷いなく、そうでない者は流れに沿って普通の帰り道のように大学を出ていく。

 正門前。

 ありがとうございました。いえ、少しでも力になれたら。なんかあったらオレらジジイ連中のことも呼びな、名刺渡しとくから。証言台くらいなら生きてる間はいくらだって立てるよ。ここも昔はこんなんじゃなかったんだけどなあ。そんな言葉を交わして別れる。

 なんだか妙に、空が明るい。

 夏だからだろうか。真っ青な空に飛行機雲の真っ白く、長く尾を引くのを見つめる。

「んでどうする。行く?」

 声がしたから、隣を見る。

 葵がいる。

「映画。用事も済んだし……あ、試験前?」

 しばらく呆気に取られてから。

 本気で誘いに来てたの、と緒方は訊いた。

 何だと思ってたんだよ、と葵は笑った。



 七月二十六日午前十一時五十二分。

 録画だ、と宇垣が種明かしをするのを、岩崎と洪は感心するように見ていた。

「政治関係者はまだ体面を気にしているから、恫喝だの暴言だのを世に出されたら困るわけだ。だから一部始終を録画している旨を伝えて、そのまま帰らせた」

「いっつも録画してるの?」

「最近は何があるかわからないからな。お前たちも……」

 そこまで言うと、宇垣は口を噤んで、

「いや。お前たちはそもそも危ないところには近付くな。佐々山先生、もしまた似たようなことがあれば、生徒は教室に待機させておいてください。今回はこの程度で済みましたが、危険な場合も十分あり得ますから」

「は、はい。すみません……」

「あー。宇垣せんせー佐々やん虐めてるー」

「そういうわけじゃ――……いや。キツい物言いになってしまって申し訳ない」

「あ、いえ全然!」

 三人で話している間に、洪は「録画か」と頷いている。それに目敏く気付いた宇垣が「余計なことは覚えなくていい」と窘めて、

「相手によっては単に逆上させるだけのこともある。子どもが無理に立ち向かうことはない。一番良いのは逃げて、助けを呼ぶことだ。それから可能な限り外出は二人以上で。自宅に戻る場合もできれば近くに住む者と誘い合わせて行くように。どうしても都合が付かないようなら――」

「はいはーい」

「返事は一回」

「はーい!」

 元気なのか投げやりなのか微妙なラインで岩崎が返事をする。それから急に自分が肩を抱いている相手の存在を思い出したらしく、こちらを覗き込んでくる。

「花野ちゃん、ほんとごめんね。痛くない? 大丈夫?」

「痛いわけないだろ。わざと転んだんだから」

 えっ、と岩崎は顔だけで言葉を表現した。こいつはどこの国に行ってもこれだけでやっていけるだろうなと思いながら、花野は意地悪く笑ってやる。

「アホがミサイルみたいに飛んでいくから、途中で止めただけ。引っかかってやんの」

「――もう花野ちゃんの言うこと何も信じないからね!」

「どうぞご自由に」

 あはは、と洪が笑う。それを切っ掛けに「熱中症になるから部屋に戻れ」と宇垣が言う。佐々山が「そうしよう」と呼び掛ける。自然、岩崎と洪はそれに釣られて歩き出す。けれど一度だけ、

「そういえば宇垣先生。さっきの人って何しに来てたんですか? 政治って」

 振り返って、洪が訊く。

 ああ、と宇垣は落ち着いた様子で頷いて、

「選挙ポスターを張りたいという申し出だった。管理者の許可がないと普通は張れないし、細かい話をすると今の時期は個人ポスターは事前の選挙運動になるから掲示が禁止されているんだが、そのあたりのことを筋を通さずに押し付けてきた。軽い問答だったのがヒートアップして、結果がこれだ」

「ああ、なるほど……」

「え、でも学校に張っても意味なくない? 私ら選挙権ないじゃん」

「お前たちが選挙権を持っていなくとも、そこから広まればいいんだ。インフルエンザだって学校で流行って外に出て行くだろう」

 ふーん、と大して納得していないような調子で岩崎が頷く。洪はもっともらしく頷いている。何にせよ、と宇垣が言う。

「あまり気にするな。もしまた今のが……教員が不在の時間はできるだけ作らないようにはしているが、そういう時間に来たときはとりあえず受け取っておいて『細かいことはわからない』で通しておけばいい。後から私が対応する」

 はーい、と岩崎が頷く。わかりました、と洪も言う。大変だったねえ、と佐々山が二人を宥めながら教室まで連行する。

 花野は、その場に宇垣と留まっている。

「……なんだ?」

「いや、ポスターだけじゃないですよね。そんなん受け取ってから捨てればいいし」

 意表を突かれたような宇垣の顔。すぐに口にした「そんな不誠実なことはできん」という言葉には普段の言動もあってそれなりの説得力があったけれど、直前の一瞬の表情の方がずっと情報として価値がある。

「他に何言われてたんですか」

「何も」

 同じ原理だろうな、と花野は思っていた。

 多分、いつもだったら自分も岩崎や洪と同じように流していた。けれどさっき――自分より学年が下の二人を相手に気を遣ったばかりだったから、今はわかる。同じことを宇垣もしている。水族館のあの日、母と小松の爺さんがしていたのと同じ。

 知らなくていいことだからと、自分を遠ざけている。

 けれど、

「いつまでも子どものままでいられるわけじゃないんで、今のうちに色々知っておきたいんですけど」

 将来のために、と。

 あるのかどうかもわからないものを引き合いに出して言えば、宇垣はしばらく沈黙した。典型的なパターンだった。見た目や口調から受け取るイメージと違って、宇垣は生徒の言うことも必ず一度は真正面から受け止める。自分と違う価値観や意見だったとしても、ときどきはそれを受け入れる。

 今回は、その『ときどき』だったらしい。

「――教育基本法九条でな、特定の宗教教育をしろという要求は撥ね退けられる」

 重々しく、宇垣は言う。

「が、そうした宗教的な――違う。今のところまでは忘れろ」

 珍しく歯切れの悪い言葉。

 黙って続きを待てば、やがて宇垣は、

「花野。進化論を信じるか?」

「え、はい。そりゃ」

「では進化論裁判は知っているか?」

「……? いや、知りません」

「社会進化論という言葉は?」

「――何の話ですか、これ」

「わからん」

 は、と訊き返す。

 滅多に冗談を言わない宇垣は、やはり冗談を言ったわけではないらしかった。


「――私も自分が何と戦わされているのか、わからん」


 このとき、花野は初めて知ったが。

 大の大人が途方に暮れていると、かなり怖い。

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