サマー・フレンド ③


 七月二十六日午前十一時四十分。

 カジノのスロットの前で、薊原は気付き始めている。随分と財布が軽くなり始めていること。右隣の爺さんが大きな当たりを一発出す間にも、左隣の婆さんが四発出す間にも、全く自分の台には当たる気配がないということ。

 別にそれ自体は問題ないことなのだ。実際、自宅に帰れば金なんていくらでもある。こんなのただの暇潰しで、やることもなくて、一体いつまで自分はこんなことをしてるんだろうなんて現実的な思考を麻痺させるためのデカい音と光の麻酔で、多分他に並ぶ爺さん婆さんも目的は同じ。長い長い、一種の終末医療。その結果が手元に残ることの方が嫌で、薊原はたびたび重たくなった財布の中身をコンビニの募金箱に全部放り込んでストレスを発散することだってある。馬鹿みたいな紙切れだと思う。こんなものの一枚や二枚のために人が死んだり人を虐げたり、悪い冗談としか思えない。誰かが最初に作った間違ったルールを後生大事に守り続けてここまで来てしまったんじゃないかとすら本気で思う。

 だから、金が減るのは別にいい。

 問題は、それを仕組んでいる誰かがいることだ。

 財布から一万円札を取り出す手が僅かに震えている。それを周囲から隠すように薊原は四角いボタンを押す。またスロットが回り出す。普段なら何の興味もない図柄。どうせこの状態だと目押し――狙った図柄で止めるなんてこともできない。三つのボタンを押すのだって、単に動作が多い方が遊戯性が高いとか、そういう理由。座っているだけだと暇すぎて別のところに行ってしまうかもしれないから、やることを増やしてやろうという親切心。

 タン、タン、タン、と薊原はボタンを押す。

 一つも揃わない。

 いつもだったら、馬鹿みたいに当たるのに。

 何かが起こっている、と思った。

 それに気付いたことを周囲に勘付かれないように、単に不調に腹を立てる行儀の悪いガキのフリをしながら、また薊原はボタンを叩く。これだけ冷房の効いた空間で、隣の爺さんなんか薄手のダウンなんかを着ていて、それなのにじわりと背中に汗が滲み始めている。

 スクーターはハーモニーに停めっぱなしだ。

 適当なところで薊原はスロットを切り上げる。切り上げたフリをする。上手くできたかわからない。周囲から見て自分はどうだろう。スロット打ちの爺さん婆さんなんて誰も人のことを気にしちゃいない。隣で酔っ払いや薬中が殴り合いの喧嘩を始めても舌打ち一つで終わらせるような奴らだ。自分たちが「社会のお荷物だから早く死んでもらわないと困る」なんて世代間の対立に便利に使われても平気な顔して暮らしてるような奴らだ。この場で殺人事件が起こったって「おぉ」と一言口にして家に帰るくらいで、明日には全部忘れてるに決まってる。光と音に紛れるようにその間を抜けていく。

 プレイエリアから出る。

 じろ、と待合のソファからあからさまな視線が注がれる。

 それでもしばらく薊原は平静を装っていた。エントランスホールへ。後ろから足音がついてきている。前にこんなホラー映画を観たことがあったなと思い出す。どこで観たんだっけ、と思い返す。

 一昨年の夏だ、と思い出した。

 自動ドアが開く。湯を浴びせられたようにすら感じる熱風。太陽の強すぎる照り返し。馬鹿みたいに広い駐車場と陽炎の立つアスファルト。華やかな割に人の数は少なくて、生きながら廃墟になったような周辺市街の遠景。目が眩んだフリをして頭を振る。

 夏合宿にはその頃から一度も参加したことがなかった。馬鹿馬鹿しいと思っていたからだ。金がなくて困っている奴らが生活のために寄り添い合うところに自分が行って何になる? そういう状況に追い込んでいるのは自分の親なのに。そのガキが仲間に入れてなんて言いに行けるわけがない。八月の終わりまでカジノとバーを渡り歩いて、だからばったり会ったのはただの偶然だった。

 端末を見るふりをして、ミラーで背後を確かめる。

 六人いる。早足になる。

 駅近のシアターで会った。その頃はよく知らない相手だった。一緒に観ようと言ったのがどちらだったか、はっきりとした記憶はないが多分自分ではなかったと思う。C級ホラーをわざわざ3Dで観た。これは自分がそう決めたのかもしれない。予想通り心底くだらなかったけれど、向こうは終わった後もずっと笑っていた。ついさっき同じものを観たはずなのに、そいつの感想から改めて聞くと何だか妙な魅力のある映画だった気がした。

 行くぞ、と後ろで小さく合図が聞こえて、地面を蹴る音。

 流れでそのまま近くのフードコートに入った。何の話をしていたか覚えていない。それでもそいつはずっと機嫌良さそうに笑っていた。他にも客の姿はあったけれど、同年代は全然いなかった。テーブルの上に置かれたクリームソーダの緑色があんまりにも鮮やかだった。もしかしたら何もなければ、何も起こらなければ、ずっとこんな風景が続いていたのかもしれないと思った。それが自分にも当たり前に与えられていたのかもしれないと思った。

 走っている。通い慣れた街。自分の親が作ってしまった街。大抵の奴より詳しいはずだけれど、詳しいだけでは逃げ切れない。路地に入る。曲がりくねった道を行く。暑い。肺が苦しい。どこに向かっているかわからなくなる。白い影。メッセージ。そうだスクーター。ハーモニー。汗が目に入る。片目を閉じる。向こうの通りから三人の姿が見える。逆光。後ろから激しい足音。引き返す道もない。突っ切るしかない。

 また明日、とそいつは言った。

「は?」

「え?」

 訊き返せば、不思議そうな顔をした。しばらくじっと見つめ合った。こっちが何の冗談も言っているわけではないらしいとわかると、おかしそうに、何を当然のことをという調子で、ほとんど去り際、踵を返す途中。

 全然大したことでもない風に、そいつは言った。


「だって、明日から二学期じゃん」


 がつん、と頭部に衝撃。

 後は足を止めて、拳を握るしかない。



 七月二十六日午前十一時四十二分。大学の近くにアパートを借りたのが正解だったのかそうではなかったのか、いまだに緒方はわからないでいる。

「で、教授を殺そうと思って……」

「そこ思い切ったなー」

 少し買い物に出るだけで、見えもしない大学の影を感じることがある。常に妙なプレッシャーを感じることもあって、段々と外に出ること自体が嫌になった。ここ一週間くらいは携帯端末に通知があってもぼんやり見つめるばかりで、誰とも連絡を取れなくなった。

 でも、大学の近くのアパートを借りていなければ、たぶん葵は自分のところに来てはくれなかっただろう、とも思う。

 文京区の夏は、信じられないほど暑い。

 じゅわじゅわと耳元にセミが止まっているような喧騒の中、リュックサックを背負った中学生たちとすれ違いながら二人は大学まで歩いていた。

「パワハラにセクハラねえ。そこで自殺に行かなかったのが由加利らしいとこだとは思うけど」

「……私が死ぬ理由はなくない?」

 そりゃそうだ、と笑いながら先を歩く葵の後を緒方は追う。葵は夏になるとずっと薄っぺらなビーチサンダルをペタペタ鳴らしながら歩いている。そのいつまでも身軽に映るようなところが、昔あのしまなみ海道のあたりで会った夏の日のことを思い出させて、緒方は好きだった。

 細い路地の、ビルとビルの間に熱の閉じ込められた細い道を行く。

 炙られるような暑さ。鉄筋の壁では目玉焼きが焼けるのではないかと思う。鳴くセミもこれだけ暑ければ茹でエビのように中身が変形し始めているのではないかと思う。少し早足で歩いて、木陰に入ると同時に少しだけそれが視界に入った。区議だか何だかの政治活動のポスター。ジェンダー平等を推進します。

 ゼミに入る前に気付ければよかった、と緒方は思っている。

 あの薄暗いアパートの一室で、二十分かけて葵に吐き出した。所属しているゼミの教授から関係を迫られたこと。それを突っ撥ねたら今まで穏やかだったのが夢だったかのようにがらりと態度が変わったこと。周辺の研究室含めて自分の全くの嘘の風聞が撒き散らされていて、それは口さがなくて低俗で生まれてこの方一度も言われたこともないようなものばかりでしかもなぜかそれが信じられていてゼミを変える見込みもなくなって授業のない日も休みの日もゼミ生の仕事だと言われて出張に付き合わされて雑用を押し付けられて必修の出席数が危うくて教授の研究テーマは明らかにその研究室に所属している博士課程の学生の盗用でその本人はもうずっと前から大学に顔を見せなくなっていてその調査研究の片棒を担がされていて最近自殺未遂したらしいなんて本当か嘘かもわからない噂が聞こえてきてそのまま死んでくれりゃあ良かったのになんて平気で笑っていて怒りが湧いてそのあと怖くなってとうとう抗議したらものすごい大声で恫喝されて女のくせに生意気なんだよとか俺に盾突いてこの世界で生きていけると思うなよとかそんなこと本気で口にするような奴がいるのかという脅し文句まで叩き付けられて、

 そこまで話したところで、急に自分の置かれている状況や嘆きの言葉が、がひどく陳腐なものに思えてしまって。

 ごめん、と謝れば、やっぱり葵は笑ってこう言った。

「当ったり前じゃん。ハラスメントなんて陳腐な奴がすることなんだから。でもそれは由加利自身とは関係ないことだし――」

 気にしないで全部言いなよ、と言うから全部言った。だからぶっ殺してやろうと思った、というところまで。

 そして二人は今、キャンパスの裏門から昼の大学構内に足を踏み入れている。

「本当に大丈夫?」

「任せとけって。殺人罪で投獄されるよりは絶対良い結果にしたるから」

 あの部屋で話している間、緒方はずっと包丁を握り締めていた。

 全てを聞いた葵は、全然こちらの言い分を否定しなかった。そっかあ、と玄関先で投げ出した足。ぺたぺたとビーチサンダルを踵で鳴らしながら、それでも一つだけ、葵は緒方に提案をした。

 先にあたしとハラスメント相談室に行かん?

 もちろんそのことについては緒方も考えないでもなかった。大学図書館の入り口にも、経済学棟の廊下にも、至るところにそういうポスターは張ってあったから、その場所の存在は知っていた。けれど問題はそこが信じられるかどうか。実効性があるかどうか。インターネットで情報を調べているうちに、足を運ぶ前から諦めてしまった。これ以上は耐えられないと、本気でそう思っていた。

 けれど、「あたしに任せときなって」と葵が言うものだから。

 その言葉が、ただの慰めとか誤魔化しとか、それ以上のものに聞こえたものだから。

 緒方は包丁を置いて、キャンパスの端から保健センターの方へと向かう葵の後を追っている。

「行ったことあるの?」

「ない。けどホケセンの奥でしょ? ホケセンはけっこー行ったことあるよ」

「へえ……治験とか?」

「いや献血。なんかこのへんに献血カーたまに来てんだよね。講堂の前とかに行きゃいいのに」

 知らなかったっしょ、と葵は確かに迷いなく保健センターの前まで辿り着く。キャンパスの端どころか真ん中もいいところなのに、緒方は今まで一度もここに来たことがなかった。そしてそこからの道のりは葵も知らなかったから、二人で携帯端末とにらめっこしながらたどたどしく歩く。首筋が暑い。ちゃんと日焼け止め塗ってきたっけ。そんな、今はどうでもいいことばかりが頭を過る。

 辿り着いたのは、灰色と茶色の中間みたいな色合いの建物だった。

 緒方の地元の市役所だか税務署だかもこんな感じの色合いだった気がする。一度も講義に指定されているところを見たことのない建物。誰が何のために使っているのかわからない。それでも採光が良いのかそれとも単に夏だからなのか、素っ気ないリノリウムの床がよく輝いている。掲示板には真新しいサークル勧誘のチラシが色とりどりに飾ってある。聞いたことのない団体が何かのイベントを行う旨の案内が、カフェの店先にあるような立て看板にチョークで書かれている。

 思ったよりも明るい。

 けれど外のあの暑い空気から室内に入った途端、自分でも驚くくらいの不安が襲ってきたのが緒方にはわかった。クーラーの冷気が氷のように冷たい。鳥肌が立っている。たぶんそれはほとんど気持ちの問題で、一生分の罵詈雑言と一緒に一生分の涙も出切ったと思っていたけれど、またかもしれない。また、と、

「階段で行こっか」

 思っていると、その気持ちが表に出ていたのだろうか。心を読んだように葵が言った。

 やけに日当たりが良くて、普段だったら上っている途中に嫌になっていそうな階段。快適なエレベーターよりもずっとこっちの方が良くて、運動で体温が上がっているのか、建物に入って来たばかりの頃よりはずっと心が落ち着き始める。一段一段とその場所が近付くたびに緊迫は高まっているけれど、それでも、

 もしかしたら、思っていたよりもずっと簡単に物事は解決できるんじゃないかと思った。

 ハラスメント相談室の扉の向こうに、自分の担当教官が相談員として座っているのを見るまでは。



 七月二十六日午前十一時四十四分。

 昇降口へと向かう廊下の陰に、洪と岩崎が肩を並べているのを花野は見つけた。

 窓の下に身を隠すようにして屈み込んでいる。ときどき顔を上げて外を窺っている。岩崎の方が先に、「花野ちゃん、」とこちらに気が付いた。

「何。どうなってんの」

「なんかずっと宇垣先生に絡んでんのがいる。助けに行った方が良くないかって、いま洪と話してたんだけど」

 昇降口のあたりから校門までの間にはロータリーがある。夏の雑草伸び放題。たまにどこにしまってあるのか謎の草刈り機がどこからか持ち出され、謎のエージェントがその手入れをしているけれど、花野は知っている。あれは完全装備の教頭の仕業だ。去年の夏の終わりに気が付いた。

 その雑草の向こうに、確かに宇垣の後ろ姿が見える。

 誰かと話しているらしいな、と最近微妙に落ちつつある視力を頼りにして、花野は目を細める。

 うわ、と声を出すのにかかったのが、約五秒。

「あいつ知ってるわ」

「え」「マジ?」

 どう見てもだった。

 インパクトが強かったから、たったあれだけの接触でも鮮明に覚えている。水族館に来たあのスーツの男だ。正直なところ、あれの訪問と館長のあの有様の間に花野は何らかの因果関係があると見ている。何の証拠もないから偏見かもしれないけれど、このあいだ式谷もどこが情報源なのか知らないが「政治絡みかもって話らしいよ」と漏らしていた。元警察の父親あたりから情報が回ってきているのかもしれない。

「え、誰? 何なのあいつ」

「俺、止めに行った方がいいやつですか。式谷先輩もいないですし」

 とりあえず洪のことは引き留めて、しかし花野は岩崎の質問に答えるのを躊躇っている。躊躇っていると「ねー誰?」と重ねて岩崎は言う。足の速い奴は気も早い……かは知らないが、洪はともかく岩崎には言えない。いや、洪にも言わない方がいいかもしれない。絶対言わない方がいい。確か街の方の駅前でヘイトデモをしてるのもここがバックだとか――

「あ、佐々やん」

 迷っていたら、もう一人来た。

 校門の方を見ながら、おっかなびっくり歩いてくる。抜き足差し足。手を振る岩崎にシーと人差し指を立てて、職員室の方から佐々山がこっちに歩いてきていた。

「高良さんたちに言われてきたんだけど……何? どういう状況?」

 今度は洪がさっきと同じ説明をする。洪は同じことを二回以上説明するのを全く嫌がらないという稀有な特色を持っており、こいつと同じ学年はものすごく楽だろうなといつも花野は思う。それが終われば、「ちょっといいすか」と花野は佐々山を二年の二人から少し離れたところまで引っ張って、

「なになになに」

「あれ宗教のやつです。『方舟』の」

 佐々山の目が大きく開く。あのカルトの、とでも言おうとしたんじゃないかと思う。けれど声になる前に花野はそれを制して、

「あの、岩崎と洪が……ちょっと、アレなんで。あんまり大きい声では」

「……あっ」

 佐々山も知っているらしかった。岩崎は親が『方舟会』にハマり込んでいて、夏休み以外の期間ですら時々同級生の家を渡り歩いて家出を繰り返す羽目になっている。隠して遠ざけるのが正解かはわからないが、少なくも花野は自分がそういう気遣いに長けた人間ではないと思っているし、岩崎のことも洪のことも、変に刺激して傷付けたり怖がらせたりしたくはない。

 正直なところ、自分は結構怖い。

 花野はそのことを自分で認めている――生活圏に、得体の知れないものがじわじわと浸食してきているのだ。学校くらいは、母の新しい地元の勤め先くらいは安全だと思っていたのに、そのことすら勘違いだったように感じてきている。夜中に寝室のカーテンを開けたら知らない男が窓から五センチのところに立っていた気分。たとえそのまま何の被害も出なかったとしてもそれからしばらくの間ろくに眠れなくなるだろうし、そしてきっと、本当にそのまま何の被害も出ないなんて、そんな都合の良いことは滅多に起こらない。

 だから、佐々山にだけそう打ち明けたのだけど、

「えーっ……。ど、どうする? どうしたらいいんだろ。他の先生とか、こういうときどうしてた? 去年とか」

「…………」

 まあそうだよな、と花野は思う。

 佐々山は別に元々頼りになる風でもないのだ。この学校にいる教師たちも大抵はそういう問題に手をこまねいているばかりだし、相談したらすぐさまそれを解決してくれる、なんて期待をする方がおかしい。花野は常々思っているが、大人が見せる『頼り甲斐』みたいなものは単に一度やったことがあって手順を知っているから何となく自信を見せることができるだけというハリボテで、全く体験したことのない事態に直面したときの対応力は中学生とそう大差ないのではないだろうか。

 自分が、やれることをやるしかないのかもしれない。

「とりあえず自警団に連絡しちゃっていいですか」

「じけ……ええ……。大丈夫なのかな。あれって結局どういう団体なの?」

「ボランティアですけど、このあいだ教頭がいつもどうもって挨拶に行ったみたいな話してたんで大丈夫なんじゃないですか」

「あ、ほんと?」

 本当かどうかは知らない。

 挨拶に行ったのは小松から聞いた話なのである程度確かだとは思うけれど、別に学校関係者が挨拶に行っただけでそれが大丈夫な団体なことにはならない。前に絽奈が「でもそういうところって武装まで始めたらまんまマフィアだよね」と言っていたことも覚えている。

 が、背に腹は代えられない。

 そう思って端末を取り出そうとすると、

「あっ!」

 岩崎と洪が、合わせて声を上げた。

 取り落としそうになったのを握り直す。なになに、と佐々山が背を屈めて二人の方に駆け寄ったのにならって自分もそうする。

 宇垣が胸倉を掴まれて殴られているのが目に入った。

 幸いと言っていいのか、殴られていると言ってもそこまで本気のぶん殴りじゃない。片手に持っている、中身は水だろうか、ペットボトルでバンバン頭を小突かれているだけ。ただ、それだけでもどう考えたって普通の奴が取る挙動じゃない。一昔前だったら警察を呼ばれたって文句は言えない動き。今の時代はどうだろう、と疑念が頭を掠めると、

「俺、やっぱ行ってきます!」

 洪が痺れを切らした。

 えっ、と佐々山が言う。洪の良いところは堪忍袋の緒を切らしてからもちゃんと自分がこれからするつもりの行動を宣言して周りの反応を窺ってくれるところだと花野は思う。呆気に取られている佐々山の代わりに、ちょっと待て、と諫める。

「行ってどうすんの。飛び蹴りでもかます?」

「……はい!」

「できないだろお前じゃ」

 う、と洪が立ち止まる。実際のところどうなのだかは知らないが、洪に運動神経が良いイメージは全くない。一方でそんなやり取りの間にも事態は進行しており、うわ、とわざわざ佐々山が声を出して教えてくれる。

 スーツの男がペットボトルの蓋を開けたらしい。

 中の水を、宇垣に頭からかけているらしい。

「――洪、二人で行こ! あたしが飛び蹴りする!」

 もう一人の堪忍袋の緒も切れた。

 岩崎の良いところは本当に飛び蹴りをかますだけの運動神経があるところ、思い切りが良いから宣言した瞬間には走り出しているところ、あまりにもその動きが力強すぎてその腕を引っ掴んで止めようとした側をすっ転ばすところ。

「いっ……!」

「――えっ、ごめん!」

 人が転んだところを見れば、とりあえず立ち止まって介抱してくれるところ。

 勢いに引っ張られて花野は壁にぶつかる。廊下で手を突く、膝を打つ。全然痛くはないけれどサッカー選手よろしく過剰に痛がるフリをする。アホか私はと思う。ほんとごめん大丈夫、と岩崎が屈み込む。その背中が三年前の生徒がコンクールに入賞させた水彩画の額縁に当たる。タイトルは『悲しい海』。佐々山は心配そうにおろおろしている。洪は注意をどこに向ければいいのかと戸惑った様子で、こっちと窓の向こうの間で視線を三往復。

「あっ、帰った」

「えっ」

 四往復目で、そう口にした。

 嘘、と佐々山が動く。岩崎も動きたがっているけれど、こっちのことを心配したままだからその場にとどまる。肩貸して、と言えばようやく理由を見つけて動き出せる。

 確かに、スーツの男は校門の向こうに消えて行くところだった。

 大汗をかいたみたいにポロシャツの上側を黒く濡らした宇垣だけが取り残されている。そのままいれば十分もしないうちにその服も乾いてしまうだろう、そんな日差しの中でちかっときらめくものがある。

 携帯端末。

 ポケットにそれをしまいこんで振り向くから、目が合った。おーい、とこちら側では岩崎が大きく手を振っている。宇垣は一瞬、ひどく驚いたような顔をする。

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