サマー・フレンド ②


 七月二十六日午前十時四十分。

 ぽん、と通知が鳴った気がしたので式谷は端末を取り出した。IR街。ピークタイムというわけでもなく客の姿もほんのまばらなスーパーマーケット、『ハーモニー』の中。去年流行ったアニメがヒーリングミュージックみたいなアレンジをされて店内に流れている。

 目標は、鮮魚コーナーと冷凍スイーツのコーナーだった。

 ウミが何を食べるのか、結局よくわからないままなのだ。訊ねてみたけれど彼女は虚空をかくようにして両手を宙にさまよわせ、結局こう言った。

「ううん」

 考えてみれば当たり前のことだ。

 自分に置き換えてみればすぐにわかる。たとえばいきなりウミの故郷に浦島太郎よろしく連れていってもらえたとして、そこでウミに「なにたべる」と訊かれたら、そして否定に関する語彙がまだ「ううん」の一つしかなければ、自分だって同じことを答えることだろう。だって、食文化が全然違う。少なくとも「ショートケーキ」とは絶対に言えない――だって、海の底には牛がいないから牛乳もないだろうし、イチゴもないだろうし、小麦粉も砂糖も鶏卵もないわけだから。

 けれど「じゃあわかめだけ食べてなね」となるかといえば、ならない。

 自分が何を食べられるかはある程度直感でわかるかもしれないけれど、「自分が何を必要としているか」はなかなか知ることができないはずだからだ。それが簡単にわかるなら脚気みたいな病気の原因は一目で見抜けるはずだ。何を過剰に摂りすぎているかも同じで、それが初めからわかるなら成人病対策も随分楽になる。しかし現実にはそうではない。自分の身体のことは何となくはわかるけれど、何となくの範疇を出ない。……と、ここまでのあたりは全部絽奈からの受け売り。

 式谷の仕事は、「ウミが知っている範囲で食べられそうなもの」をできるだけ多く探すことだ。

 結局ある程度ウミの感覚に頼ることになるわけだが、選択肢は多いに越したことはない。だから式谷は鮮魚のコーナーに向かって、陳列されているものを一通り買い込むことを予定している。その後はアクアリウムのショップ(あるらしい。絽奈がネットで探してくれた)に行って海藻類やら何やらを買う謎の人間になるつもりだし、ついでにウミがケーキを食べたがっている雰囲気を何となく感じていたので冷凍スイーツも買い込むつもりでいる。この夏の暑気の中で食糧を悪くせずに絽奈の家まで運ぶためにドライアイスも相当貰わないといけないだろうし、なかなか大変な道中になりそうだと予想している。

 だから、買い物を始める前に端末を見た。

 通知は絽奈からだった。メッセージアプリを開く。『送信取消』の文字が見えた。よくあることなので、気にしない。たまにタッチの差でこの送信取消の前に本文を見ることに成功する場合もあるけれど、大抵は何の変哲もない文章だ。何やら自分には理解できないこだわりがあるのだろう、と整理を付けている。アーティスト気質を発揮しているのかもしれない。自作の壺を割りまくる陶芸家みたいなイメージ。

 そのついでに、と式谷はそのままメッセージアプリの操作を続けた。

 選んだ名前は『薊原一希』。

 別にどうってことのない、送らなくても大して問題のないような内容だ。ついさっき駐輪場に自転車を停めたとき、ふと視界に入った。薊原のあの白い車体に赤いラインのスクーター。ナンバーは覚えていないから本人のものかは定かではないけれど、確かにあの特徴的な車体が駐車場の方に見えた。

 ハーモニーはこの地方の土着のスーパーマーケットで、IR街の開発に伴い駐車場を三分の一の大きさまで削られたものの、それでも元が全盛期のローマ帝国みたいな広さだったからなお広い。立地の良さも相まって勝手に無料駐車場として扱われることも多く、フェンスには七か国語で『利用者の方以外の駐車は当社への寄付とみなし、提携先の中古車買取店へレッカーさせていただきます』と店長迫真の直筆でハチャメチャな通知文が書かれている。一年に二回くらいSNSで話題になる。ナンバープレートが外された放置自動車なんかもチラホラ見受けられるが、徐々に解体されて最終的には何もなくなる。違法ヤードが勝手に分解して勝手に問題を解決しているらしい。この話を聞いて絽奈は「きゅうそうずみたい」と言った。「きゅうそうずって何?」と訊ねるとパソコンですぐさま調べて「ごめん九相図だった」と補足してくれた。間違った読み方で覚えていたらしい。

 そういうわけで、スクーターがあったからとはいえ、ハーモニーの中にいるとも限らないのだけど。

 近くにいるなら顔くらいは合わせておきたいなと思うわけだから、式谷は薊原にメッセージを送ることにする。



 七月二十六日午前十一時三分。

 墓から這い出してきた死体のような動きで、薊原は枕元の端末を取った。

 時刻を確かめる。帰ってきたのが六時くらいだったから、あまり寝足りていない。二度寝だな、と思う。遮光カーテンの下から夏の光が部屋の床に入り込んできているけれど、薄い毛布を被っても涼しいくらいにはよくクーラーの効いた部屋だ。そのくらいのことはわけもない。

 わけもないのだけど。

 式谷湊、という名前が通知の一覧に見える。

 二十分前のことらしい。連絡が入っている。かなり迷った。少し端末を弄るとすぐに目を覚ましてしまうタイプだからだ。見なかったことにして一旦眠り、また起きたタイミングで観るか。それとも今確かめてみるか。

 迷う。

 通知を開いた。

『今ハーモニーにいる?』

 しばらく、どういう意味なのか考え込んだ。

 回らない頭だった。外で車のタイヤがアスファルトの上を擦っていく音がする。少しずつ喧騒が近くのものに聞こえてくる。朝からずっとクーラーの風に当てられたフローリングはもはや鍾乳洞のごとき冷気を放っている。どういうことなんだ、と考えている。自分に似た奴を見たとかそういう話なのか。少なくともここで一年近く暮らしていてそんな奴は自分も見たことがないが――

「あ、」

 気付いたと同時に、完全に目が覚めた。

 あのスクーターのことだ。そういえばハーモニーに停めっぱなしにしていた。乗るたびに式谷のあのしょうもない小言が耳元で蘇るから――ではなく、停めっぱなしにしてそのへんをぶらついているうちにこっちの家に帰ってしまった日があって、取りに行くのも面倒でそのまま放置していた。

 のそ、と薊原は起き上がる。髪をかいて、欠伸を一つ。それで完全に眠気は覚めてしまう。十一時。外は大層暑かろうと思うが、どうせそのうち取りに行かねばならないものだったのだ。これを良い機会と考えるとしよう。だらだらシャワーを浴びる。自然乾燥と大して変わらないような時間をかけて髪を乾かしながら、式谷に『寝てた』とだけ送る。身支度を整える。

 玄関の扉を開けて、むっとした夏の空気に身を晒す。げんなりしたから、薊原は思った。

 カジノに行って、タクシーでも捕まえよう。

 何ならちょっとカジノの中に入って、汗が引くまで適当にスロットを冷やかすのもいいかもしれない。

 扉が閉まる。オートロックが後ろでガチャン、と音を立てる。

 薊原が生涯初の大負けを経験し、その意味に気付くまで、あと二十五分。



 七月二十六日の午前十一時十分。文京区の学生向け賃貸の一室。

 部屋の借主は緒方由加利。都内国立大学経済学部三年、二十歳。愛媛県から家族の期待を背負って遥々上京した彼女は今、カーテンを開けもしない薄暗い部屋の中で一人だった。

 玄関には踵の低い靴が横倒しになっていて、泥汚れのこびりついた傘立てには留め具を外したままの透明なビニール傘が四本。浴室ではいつものごとく終日からからと換気扇が回り続けている。湿気の籠る部屋だから、壁紙の白いビニールクロスは今日の高気温高湿度も相まって膨らんですら見える。クーラーは点いていない。ワンルームのひどく手狭なキッチン。俯いて緒方は立っている。

 手には包丁。

 ピンポン、とそのときインターホンが鳴った。

 初め、緒方は全く動かなかった。包丁を両手で握りしめたまま、ずっと動かないでいた。それと対比するように、視線の方は全く定まらない。どこを見ているわけでもないが、どこを見ているわけでもないせいでずっと僅かにぶれ続けている。ここではないどこかを見ている。心の中か、あるいは未来、これから自分がすることとその結果か。

 ピンポン、ともう一度インターホンが鳴った。

 緒方は動かない。

 ピンポンピンポン、と続けてもう二度、インターフォンが鳴った。部屋の隅で割れた画面の端末が光り出す。同じ名前が何度も表示されている。それを見ない。端末の周りにはまだガラスの破片が散らばっている。

 風に流される幽霊のように、緒方は動き出した。

 包丁を持ったまま玄関口へ動く。サンダルも靴も履かない。裸足の裏で小石を踏む。ドアに顔を付ける。よろけて額がぶつかる。「お、」と向こうから声がする。その声に聞き覚えがある。それでもドアスコープを覗き見る。

 ぱ、と理性を取り戻したような顔をして。

 それから緒方は、恐る恐る扉を開けた。

「おいっすー! ごめんごめん、寝てた? さっき大学行ったら実験棟のスプリンクラーがぶっ壊れてて超水浸しになっててさあ。もう聞いた? しかも立ち入り禁止だっつーから予定急に空いちゃって。あれ見に行かん? この間言ってたアニメのやつ。なんだっけ、あの映画」

 夏の太陽を後ろに背負っても、全く見劣りするところのない明るい笑顔。いつ見ても機嫌良さそうな雰囲気を身に纏う。昔々にたった一度すれ違ったことがあるかもしれないと、たったそれだけの理由で仲良くなった一つ年上の、それでも同じ学年の、同じ大学の違う学部に通う彼女。

 式谷葵。

「って、うお。包丁持っとる。料理中?」

 ごめんごめん、とやはり彼女は笑って、

「先に連絡しといたんだけど、気付かんかった?」

「……葵」

 からん、と包丁を床に捨てる。

 葵はぎょっとした顔をしてそれを拾う。危な、裸足じゃん。緒方はそのつむじを眺めている。葵が顔を上げる。はい、と笑ってその包丁をもう一度自分に手渡してくる。

 もしかしたら、と緒方は思った。

 これが、自分に最後に訪れたチャンスなのかもしれない。

「人の、」

「ん?」

「人の殺し方って、詳しい?」

 葵は後ろを振り向いた。当然、そこには何もない。夏の光が非常階段に差し込んでいるだけ。一応、というように右も見た。何もない。左も見た。何もない。可能性を検証し終えたらしい彼女は自分を人差し指で差して、嘘でしょ、なんて訴えるような顔で言う。

「あたしが?」

 うん、と頷く。

 言われた葵は一度、あんぐり口を開けた後、

「――イメージ悪すぎるだろ!」

 わはは、と大きな声で笑う。

 あんまりにも楽しそうに笑うものだから、釣られて緒方も、ちょっと笑った。



 七月二十六日午前十一時三十五分。

 この夏合宿で一番面倒くさいのは給食作りだよな、と花野は一年ぶりに思っている。

 最初の頃は複数の班を作って、その中で適当に数人分だけを作るという形を取っていたらしい。それがいつの頃からこうやってまとめて作るようになったのだか知らないが、普通に野菜を切っているだけでその量にうんざりする。料理人はすごいよな、と思う。父は街の方の老人ホームでキッチンスタッフをしていた時期もあるらしいのだけど、絶対自分には勤まらない。根本的に料理を楽しいと感じたことが一度もない。今日もちまちまちまちまキャベツを切って餃子のタネを作っているわけなのだけど、本当に涙が出るくらいに面倒くさい。一時間もかけてこれから活動するたかだか六時間のためのエネルギー補給の準備をする。想像を絶する効率の悪さ。納得がいかない。肩も凝るし首も痛くなる。どうにかして今からメニューを冷凍餃子に変えたい。というか絶対冷凍餃子にした方がいい。その方がずっと時間を有効活用できる。何がピザ窯だよ絶対やらない。将来は冷凍食品を開発する人になりたい。この世界を自炊という呪いから解放したい。

 そんなことまで考え始めるくらいだったから、家庭科室の入り口で「花野せんぱーい」と一年の高良と向島が自分を呼んだときには、それを言い訳に「あと頼んだ」と思わず瞬時にエプロンを脱ぎ捨ててしまうくらいだった。

 隣で作業していた三上は「あっ、はい。お疲れさまです」と快く引き受けてくれた。三上はおそらく式谷の系譜にある「料理が楽しいからシフトをたくさん入れてほしい」勢の一人なのだが、妙に体育会系気質というか従順すぎるところがあり、式谷の振る舞いを真似ているだけなのではないかという疑惑がないでもなく、うっすらとした不安と罪悪感が湧く。後で優しくしてやろう。えー、と唇を尖らせて不満を露わにしている鈴木と二年の浅沼はどうでもいい。こいつらは周りに頼れる人間がいない方がテキパキ仕事をする。適度に崖下に蹴り飛ばしてやった方がいい。

 入り口あたりで、高良と向島は不安そうな顔をしている。

 これはこれで面倒かもしれん、と思いながら、花野は二人に近付いた。

「何かあった?」

「何か……ってほどでもないんですけど」

「今、校門のところに誰か来てるみたいで」

「誰かって誰?」

 スーツの、と向島は言う。高良の顔を窺う。高良はそれを受けて「今、」と口にする。小さな声で、他の誰かに聞かれてしまったら困るというような、あの朝練で出している音とは裏腹なか細い声で、

「宇垣先生が話してるんですけど、なんか揉めてるみたいで……」

 洪先輩が花野先輩に来てもらった方がいいかもって言ってたから、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る