サマー・フレンド ①


「あのさ。いきなり人間になる生き物ってなんか知ってたりする?」

「は?」

 七月二十六日、午前八時十二分。朝食のパンと牛乳を食べ終えて校舎二階、特別棟と東棟の間の流し台で歯を磨いていると、そんな風に式谷が話しかけてきた。

 一体何を、と言おうとしたけれど、口の中がまだ泡立っている。ん、と無言で左の手の平を向けると式谷が素直に待ちの姿勢に入ったので、花野は歯磨きを最後まで続ける。しゃこしゃこしゃこしゃこ、じゅわじゅわじゅわじゅわ。セミの声は朝からうるさい。ラジオ体操の時間からずっと休まず鳴いている。グラウンドでは「朝の涼しいうちに遊ぶぞ!」と駆け出していったアホどもがルール無用の鬼ごっことかいう永久に終わりの見えない遊びに精を出していて、三階の廊下からは二年生の洪と一年生の高良がフルートだかオーボエだかを暑かろうに熱心に練習する音が響いてきていて、その他多くはいつものように教室に収容されていたり、花野と同じように水飲み場に並んで鏡とにらめっこしながら歯ブラシをちまちま動かしていたりする。

 一人がその列から抜けて、差し込んだ朝日にチカッと蛇口が銀色にきらめいた。

 んべ、とそのタイミングで花野も、口の中で盛大に泡立った洗口液をうがい水とともに吐き出す。

「何。なぞなぞ?」

 旅行用のパックに歯ブラシを戻しながら、花野は式谷に訊ねた。ちょっと懐疑的な目つきになっているのは、最近――というか夏合宿が始まってからのこいつの様子は何かおかしいと、そう思っているから。

 しょっちゅう外に出かけるのだ。絽奈のところに行っているのかと思ったけれど、絽奈が自分とメッセージを送り合っているタイミングでも学校を空けるのでどうもそれだけではないらしい。頻度としては他の生徒とさして大きく変わるほどでもないけれど、例年の、つまり一年のときと二年のときの「いつ見てもこいつ教室にいるな」とか「いつ見てもこいつ給食作ってるな」とか、そういう状態と比べてしまうと若干の違和感がある。

「キツネとかタヌキとか……あ。これ宗教の話?」

「いやいやいや。違うって」

 真面目な話、と式谷は言う。真面目にそういうことを言っているのが宗教だった気がするので何とも居心地の悪い回答だったが、へえ、ととりあえず納得したフリをしておく。そのフリが通じたのか通じなかったのか、式谷は続けて、

「普通の話。僕もいないとは思ってるんだけど、もしかしたら普通に知ってる範囲の常識でそういうのあるのかなー、って。一応。確認」

「普通いないだろ、そんな生き物……」

 勘弁してくれよ、と花野は思った。こういう変に綻んだところから「地球は平面なんだ!」みたいな馬鹿げた主張を信じ込む余地が生まれてくるんだと思う。こいつが陰謀論にハマり出したらと思うと背筋がぞっとするものがある。無駄に頼られている奴だから、下手をすると十五人くらい一緒に向こう側に持って行くかもしれない。

「そんなんいたらもっと大騒ぎになるでしょ。普通に考えて。テレビで毎日やってるよ。パンダとかアザラシの代わりに」

「だよね」

 けれどそう言って頷いた式谷は、なんだか奇妙な――何をどうとも花野には形容しがたい。奥行きの見えないような、不透明な雰囲気を漂わせていたから、

「何? 何かあった?」

「ひみつ」

「おい」

 訊ねたけれど、そのうち話すかも、と式谷は踵を返してしまう。

「今日もちょっと出掛けてくる。一応洪くんと大翔に男子部屋の方は任せておいたけど、何かあったらよろしく!」

 たたた、と軽やかな足取りで階段を下っていく。

 ととと、と軽やかな足取りで階段を上ってくる。

 小さな声で、

「あと、三上さんのことなんだけど。昨日は男子部屋の方で大丈夫って言ってたけど、もしかしたら僕には言いにくいこともあるかもしれないから。もし多目的室に顔出してたら、それとなく気にしてもらえると嬉しいかも」

「……はいはい」

 ありがと、と明るく笑ってもう一度式谷は、軽やかな足取りで階段を下っていく。その背中が朝日に白く輝くのを見つめながら、花野はこう思っている。

 なんだあいつ。



『新しく家に来たワンちゃんのくろたろうくんは、先輩ネコちゃんのしゃんぷーくんに興味津々! くんくん。くんくん。おいなんだよ、やめろよ。なんでついてくるんだよ。ついてくんなって! しょうがねえやつだなあ――』

「ねこ」

「そう。こっちはワンちゃん――犬とは違って……ええっと、鎖骨があって……」

 自分の部屋で見知らぬ子がテレビを観ている。

 これは全く以て絽奈にとっては初めての経験だった。

 七月二十六日午前十時二十八分。ここ三日、おおむねこういうことをしながら絽奈は日中を過ごしている。つまり、未確認生物を相手に第五種接近遭遇みたいなことをしながら、テレビを前にして地上の文化と言葉について教えている。

 もう一度言う。

 未確認生物を相手に、地上の文化と言葉について教えている。

「いぬ。ねこ。はなす」

「あ、ううん。話す、は、しない。話さない。犬も猫も、話さない」

「はな、さない。なんで」

「なんで……ええ……。なんでだろう……」

 どう考えてもありえない、と絽奈は思う。

 すごく長い夢を見ていると言われた方が納得がいく。湊が知り合いの誰かに声をかけて自分にドッキリを仕掛けていると言われた方が――いや、そっちはあんまり納得がいかない。ドッキリが嫌、という話は前にした記憶があるから、絶対にそういうことはされない。となるとやっぱり、長い夢を見ているのかもしれない。そうであってくれた方が、これまでの現実認識を崩されずに済む。

「ねこ、かたち、こう」

 食い入るように画面を見つめていたその子が。

 急にぐねぐね動き出して、大きな大きな、虎みたいな大きさの宇宙柄の猫に変化するところを間近で見てしまっていることにも、それらしい説明がつけられる。

「あってる」

「ううん、もうちょっと……小さい。この画面の猫は、小さい。もっと小さい。より小さい」

「もっと。より。なに」

「二つのものを……比べる。大きい。小さい。こっちは、もっと大きい。より大きい。こっちはもっと小さい。より小さい」

「もっと。より。おなじ」

「同じ。……大体は」

「だいたい。なに」

 幻想文学の世界に迷い込んでいるんだろうか、とこの三日、絽奈は何度も思った。ファンタジーとかSFとか、そういうのよりも『マジックリアリズム』みたいな単語が思い浮かぶ。だって、なんだか日常と地続きすぎる。目の前のこの子が人間の姿を現してからも、ごく普通に生活が続いている。

 何かもっと、と絽奈は思っている。

 何かもっと、すごいことが起こるものなんじゃないだろうか。

 だって、言語を理解できる生き物なのだ。こんな生き物が他にどこにいるというのだろう。いや、意外といるのかもしれない。何となく雰囲気とか音で断片的に人間の言っていることを察する生き物はいるのかもしれない。犬とか猫とか、「ごはんだよー」とか言ったら普通にそれを理解して近付いてくるものじゃないか。ほらテレビでもちょうどそんな感じの場面が流れている。それに人間の言葉と同じ音を喋る生き物だっている。インコとか。インコで合ってるっけ。いや違う。オウム返しだからオウムだ。あれでもインコも喋った気がする。やっぱりそうだ。というかインコってオウムの仲間なんだ。オウム目オウム科がオウムでオウム目インコ科がインコなんだ。ヒトもサル目でサルの仲間だし似たようなものだろう。イルカもクジラ目だし多分そんな感じだと思う。でもインコとオウムってなんで人の言葉を喋るんだろう――、

「ぐららん」

「グラタン」

「ぐらたん」

「うん。合ってる」

 比較的平和な――動物の可愛い映像を流したり、若手のアイドルやリポーターが観光地の飲食店で食レポしたりする番組を見せながら、絽奈はパソコンのキーボードを叩いている。調べもの。すぐに出てきた。音を使ってコミュニケーションする能力が元々あり、たまたま人間と同じ発声をできるような身体構造をしている。

 たまたま人間と、の部分は『たまたま』なんかじゃない、と絽奈は理解している。

 だってオウムと違ってこっちは全然普通に身体が変形したりするし――今だって屏風から飛び出してきた虎みたいな姿で、部屋の中の象みたいに異物感たっぷりで、こんなどこにでもあるような和室に佇んでいるのだから。正確なのは『わざわざ』だ。わざわざ、こっちとコミュニケーションできるように変形してくれている。

 凄まじいことなんじゃないか、と思う。

 宇宙人との邂逅レベルのことが、この田舎の片隅で起こっているんじゃないだろうか。

 何なら本当に宇宙から来たんじゃないかとすら絽奈は疑っている。「どこから来たの?」と式谷が不用意な質問を投げかけたとき絽奈は隣にいたし「なんでそんないきなり核心に」と慄いていたけれど、未確認でミステリアスな個体は「うみ」「くらい」と二語で答えただけだった。これだけでは出身地の候補から宇宙を外すことはできない。宇宙も海みたいなものと言えば海みたいなものだし、恒星の光が届かないゾーンはめちゃくちゃ暗い。宇宙人なのかもしれない。このぐねぐねしているのも生態的な先天能力ではなく遥か彼方の何光年も離れた惑星で育まれたナノテクノロジーとかアルティメットバイオグラフィーとか違うバイオグラフィーは伝記だ。SNSの自己紹介欄みたいなやつのことだ。なんだっけ。バイオ。バイオハザード。バイオテック。そうだ。バイオテクノロジー。アルティメットバイオテクノロジーみたいなやつがあれやこれやしているのかもしれない。

 そんな存在と最初にコンタクトするのが、自分みたいなしょうもない中学生でいいのだろうか。

 とめどない想像と妄想と未来予測が絽奈の頭の中に嵐のように巻き起こり続けている。三日も続く嵐だ。本当だったら今すぐ連絡すべきなんじゃないか。どこにと言われると困るけれど、たぶんそう、NASAとかJAXAとかそういうところに。いやでも宇宙人じゃなくて普通に深海生物とか海底人類とかそういう可能性もあるわけだからわけなんだけどじゃあどこにって言われるととても困るわけで何でかと言うとそういうのを管轄しているところがどこなのかよくわからなくて本当にどこなんだろう海上保安庁? 絶対違う。絶対違うけれどじゃあ市役所の人とかに相談してみようとなるかと言えばこの地の主要産業は公務員ですみたいな田舎において友達の親が次から次へと『公益通報制度を用いて密告しようとした反体制派の活動家』『福祉などという大してやることもないくせに金をじゃぶじゃぶ使う珍奇な部署にしか居場所のない一切生産性もなければ稼得能力も民間感覚もない残業ばかりの無能』等と多種多様な言いがかりをドカドカつけられてバンバン解雇されている様を間近で見ていれば今やそんな機関に全くそんな信頼は置けないわけで、下手に話を通そうものなら裏から裏からどんどんどんどん怪しい奴らが出てくるに決まっていて黒服にサングラスで記憶を消去する謎の二人組が出てきてくれるならむしろ儲けものなくらいで実際のところは特に専門家でもなんでもないのが急にしゃしゃり出てきて権威を振り翳したり詭弁を弄しながらガリゴリに解体を試みようとして人類の愚かすぎる側面を存分にこの子にアピールしてコミュニケーション能力があるということは恐らくこの子には仲間がいるわけでSOSの信号を発信して海底文明は地上文明を邪悪と判断しその卓越したナノテクノロジーで地上勢力を一掃してついでにアトランティス大陸よろしくあらゆる大陸を水没させてこれで地球は本当に水の星になりまして宇宙から見て丸っきり青くなりましためでたしめでたしなんてことに――

 ぽん、と端末が鳴った。

 びくん、と盛大に絽奈の肩が跳ねた。

 たった今殺されかけたのかというくらいに心臓の鼓動が大きく感じる。けれど全然なんてことはなかった。端末に表示されているのは『花野晶』の文字。本文はこう。

『式谷って、最近何かあった?』

 絶対何かあった。

 というか完全に、その事態を共有している。

 返信を打ち込もうとして、しかし絽奈の指は止まる。当たり前だ。どのくらい話していいのかわからない。いや、晶なら自分の言うことを受け入れてくれるはずだと絽奈はわかっている。少なくとも頭ごなしに否定しない――いや多分する。頭ごなしに否定するだろうけれど、そのうちなんだかんだとこちらの言い分を聞いてくれる。だって何しろこっちには厳然たる証拠があるわけで、全然自分の思い込みとか幻覚ではないわけだから。そうだ。自分一人じゃない。二人で見ている。絶対大丈夫。二人なら、絶対大丈夫。

「ろな」

「――はいっ」

「それ、なに」

 ああ、とウミからの質問に絽奈は答えようとした。携帯端末。テレビの解説を終えた後だから、多分そんなに難しいアイテムではない。遠くの相手と話すための機械。文字媒体によるコミュニケーションの存在がまだ理解の外にあるみたいだから――海底あるいは宇宙文明は音声コミュニケーションが主体で文字文明がないのだろうか、暗いところから来たというならもしかしたら視覚を介した文化がそれほど発達していないのかも、いやでもテレビの画面に食い入るようにしているということはそこから放たれる光の波長は読み取れているということでよくわからない――そのあたりのことを説明し切れないかもしれないけれど、とりあえずこれだけでもある程度ウミを満足させることはできるはず、

「ううん」

 と思って説明すれば、ウミは首を横に振って、

「これ」

 当然のように人の姿に戻ると、肩をびくん、と跳ね上げるジェスチャー。

「これ、なに」

「…………驚く。びっくりする」

「おどろく。びっくりする」

 綺麗にこちらの言葉を復唱するウミに、そのアクションの意味を丁寧に丁寧に教えれば、

「ろなおどろく。うみちゃんおどろく。びっくりする」

 ウミもまた丁寧に、もう一度肩を跳ね上げるジェスチャーを披露してくれる。

「……そっか」

「そっか。そうなんだ。おなじ。あってる」

 気恥ずかしさとか、地球の未来への懸念とか、驚くという感情が共有できるならこれってすごいことだよという感動とか、そういうのを色々。

 色々と心の中に渦巻かせながら絽奈は、とりあえず湊にメッセージを送った。

 早く帰ってきて。

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