Unidentified Mysterious…… ④


 ただいまー、と言ってから、行ってきまーす、と言うまでに十分もかからなかった。

 家の前に自転車を停める。新品になったタイヤは異様に走りやすい。前から空気が抜けていたのかもしれない。がらら、と玄関戸を開ける。もう午後三時だから持ち手が暑い。たたた、とリビングに駆け込む。おうお帰り、と父が振り向く。エアコン点けたら、と言いながら式谷はキッチンの方に流れるように入り込んで、冷蔵庫の前でようやく保冷機能付きの買い物袋を開ける。ドライアイスのおかげでまだ全然冷たい。牛乳から鶏肉からとにかくポンポン詰め込む。そろそろ自警団の方に行くからな、と言う父に、臨時収入あったから色々買ってきといた、と知らせておく。詰め終わった。冷蔵庫に入れなくていい部分は袋の中にそのままで、臨時収入ってと訊ねかける父の横を、一瞬水浴びまーすと通り抜ける。じゃっ、とカラスの行水。汗と臭いだけを流して、どうでもいい服からどうでもいい服に着替えて、またリビングへ。バッグを持ち直してテレビは言う。可愛くて元気なワンちゃんは二歳のまめたくん。ちょっとだけお茶目な彼はお寝坊の飼い主のベッドに興味津々で……くんくん、ごしゅじ~ん。

「晩御飯、今日みんな別?」

「母さんは向こうで食べてくるって。用意しておくか?」

「とりあえず大丈夫。なんか食べたくなったら自分で作る。あ、あと明日から夏合宿ね。一応」

 じゃあ行ってきまーす、とリビングを出て行く。こういうとき深追いがないのは完全に姉の遺産だと思う。自転車に跨る。冬だったらもうすぐ日暮れの時間のはずなのに、夏だから全然日が高い。全然涼しくない。家から十分弱。水を浴びたからギリギリ耐えられなくもないかもしれない。そう信じる。

 ぴんぽーん、とインターホンを鳴らした時点では、幸いにも信じる力が夏の暑気に打ち勝っていた。

 どうぞ、と絽奈の声がする。ガチャン、と鍵の開く音。扉を開けても玄関先に絽奈の姿はない。代わりにガチャン、ともう一度音が鳴って鍵が締まる。スマートロックとかいうやつ。簡単にできるよ、と絽奈はしたり顔で言っていたけれど、どうやるの、と訊ねたら何も答えなかった。たぶん千賀上父か千賀上母が「簡単だった」と言ったのをそのまま受け売りで話しているのだと思う。このシステムは式谷家には導入されていない。

 靴を脱いで揃える。たぶんここ数年、絽奈の靴がこの三和土に並んだ回数よりも、式谷の靴がお邪魔した回数の方が多い。やたら広い廊下を歩く。大きな古時計のガラスに自分の姿を映しながら通り抜ける。「向こうに何があるの」と訊ねて「知らない」と絽奈が返した渡り廊下の手前を右に曲がって階段を上る。突き当たりの左が絽奈の部屋。襖が開いているときは、ノックされるとびっくりするから何も言わずに入ってきてのサイン。

「遊びに来ました」

「……ふーん……」

 いつものように、パソコンの前に座っていた。

 エアコンのよく効いた部屋だ。肌が一気に冷やされて、汗が引っ込んでいくのを感じる。襖を閉めたら一応制汗シートで肌を拭いて、それが乾き切るまでは立っておく。

 絽奈はアザラシをぬいぐるみのように膝の上に抱えていた。最近かなり見慣れた光景。アザラシも何の文句も言わない。最近は自分を見てもすぐに寄ってくることはなくなったので、だいぶ絽奈に懐いたのではないかと式谷は思う。表情なんかないからよくわからないけど、だいぶリラックスして見える。

 一方で絽奈は、こっちを見ていない。

 何かのニュースサイトを開きながら、カチカチカチカチ左ドラッグをして文章を青く染めている。ときどき飛び出してきたシェアボタンを押しそうになって焦っている。機嫌が悪そうだな、と式谷は思うけれど、絽奈は機嫌を損ねるよりも戻す速度の方が速いから、あまり怖いことじゃない。

「お菓子めっちゃ買ってきたよ」

「えっ」

 たとえばこれだけで、急に目を輝かせてこっちを見たりする。

 ごめんごめん買い物してたらこんな時間になっちゃった。ううん全然。絽奈の目は保冷の買い物袋に吸い寄せられている。

「まず飲み物」

「おおっ」

 帽子から鳩やら花束やらを取り出すマジシャンはさぞかし気分が良かろう。そういうことをこの場で学びながら、式谷はどんどん袋の中身を取り出していく。

「スナック」

「おおおっ」

「前に『食べてみたいよね』って話してたパフェっぽいアイス」

「えっ、嘘っ」

「あと晩御飯どうするつもりなのかわかんなかったから、カップ麺も勝手に買ってきちゃった。ほら、高いから手が出しにくいよねって言ってたやつ」

「…………」

 そしてなんと、と取っておき。小さな紙の箱を取り出して、

「じゃじゃーん! 前にテレビでやってた洋菓子屋さんのケーキ! なんかちょうど良い時間だったみたいで、全然並ばないで買えちゃった。超ラッキーでしょ」

「……レシートある?」

「あ、いいよ全然。臨時収入あったから。今日めっちゃ余裕」

「……臨時収入?」

「カジノ。宝くじに当たったみたいなもんだから、気にしないで」

 食べよ、と式谷は笑った。

 口に入れた飴玉がうっかり毒だった、みたいな顔を絽奈はしていた。

 何も言わないで彼女は姿勢を正す。こっちに向き直る。ベッドの上のクッションを手に取る。目の前に置く。ぽんぽん、とそれを叩く。座って、と言うので式谷は言われたとおりにそこに正座する。

 それなりに近い距離。

 言いづらそうに、絽奈は、

「――な、悩みとかあるなら、聞くけど!」



 紛らわしい、とまた拗ね始めた絽奈も、ケーキを一口食べればすっかりご機嫌に戻った。今はテレビの大画面で映画を流しながら、麦茶を横にしてそれをちびちびフォークで削っている。例のごとくテーブルの上には丸い水跡がつくから、定期的に式谷がティッシュでそれを拭き取っている。

「カジノね」

 ちょうど映画もカジノが出てくるシーンだったからなのか、ぽつりと零すように絽奈が言った。

「カジノか……」

「今度一緒に行く?」

「絶対行かない」

 そんな怖いところ、とこっちを見もしないで言って、

「ていうか湊も、そういうところあんまり行っちゃダメだよ。そういうお金の稼ぎ方を覚えて『真面目に働くのなんて馬鹿らしいな』ってなっても良いこと何にもないんだし」

「…………」

「――傍から見たら私も真面目に働いてないように見えるかもしれないけど! これでも頑張ってるの!」

「何も言ってませんけど……」

 そしてそんなのは別に言われなくてもわかっていた。絽奈は自分で話も作るし文章も書くし絵も描くし音楽も作る。動画の編集もしているし、「話を面白くするよりもこっちの方が難しい」と自分で言うところのマーケティングだってちゃんとやっているらしい。どう考えても「友達の後についていって適当に数字と色を口にしたら数十万が手に入りました」とは格が違う。雲泥の差だ。そう考えていると、急に絽奈はハッと気付いたように、

「……これって真面目に働いてれば何とかなる人の言い分か……でも……」

 ぶつぶつ独り言を言い始めた。

 ケーキを削りながら式谷はそれを眺めている。映画の再生が止まったのは、絽奈がパソコンの操作を始めたから。同期したテレビディスプレイにはテキストメモが大映しになっている。『生活の糧としての賭博』『一発逆転の犯罪』『制御可能な範囲での法制化』『←でもそういう人を出さないことが最初に目指すべきことなんじゃないの?』『仕組みを調べる』

 難しい話が始まったな、と式谷は思う。こうなるとあまり邪魔はしたくないので、素直に部屋の中にいる第三者に遊んでもらうことにする。アザラシ。このあいだ絽奈はこのアザラシのことをウミちゃんと呼んでいた。海から来たからウミちゃんなの、と訊くと、Unidentified Mysterious IndividualsだからUMIちゃん、と答えた。わけわかんないな、と思っていたけれど、後から調べてわかる。UMA――Unidentified Mysterious Animals――つまり未確認生物のもじりらしい。UFOならともかく、そっちはよく知らなかった。

 ぽむぽむ、と頭を撫でる。

 もっ、とアザラシが手に身体を擦りつけてくる。あれ以来、一度も鳴いたことはない。

「あ、ごめん。画面使っちゃった」

 遅れてようやく、絽奈が気付いた。

「いいよ別に。ゆっくりやって」

「もうちょっとだけやらせて。テレビ見てていいからね」

 別に見たいものもなかったけれど、見ているフリをした方が気を遣わせなくていいだろう。式谷はチャンネルを手に取る。地上波に切り替える。それ以上は何もしない。

『全国的に今年は暑くなるということで……なんだかまあね、毎年そう言っているような気もしますが。今年は節電要請も出ているとのことですので、まあね。テレビをご覧の皆様にも、特に高齢者の方々! 電気代も高騰していますから体調管理にはぜひ、ということで今日は夏の節約冷感グッズ紹介――霊感商法の方じゃないですからね。冷たい感じと書いて冷感。テレビでそんなのやったらね、ほんと、とんでもないことですから』

 絽奈がキーボードを打ち続けている。式谷はアザラシの目がどのへんにあるのかを調べてみたいと思っている。物にぶつかったりはしないし、明らかにこっちの動きに反応しているからそれっぽいものはあるはずなのに、外観からは全くわからない。指をアザラシの頭上に掲げる。右に、左に。明らかにそれを追って動いている。しかし目は見当たらない。

 うーむ、と麦茶を一口飲んで、ケーキもひとかけら食べる。

 それをアザラシがじっと見ているので、ふと思い立ったことがあった。

「ウミちゃんって結局何食べてるの、普段」

「わかめ」

 画面から視線を外さないままで、さらっと絽奈が答えた。

 もちろん式谷だって絽奈に預けたままアザラシを延々放置してきたわけではない。絽奈が花野に電話をかけ、口頭で指示され、その指示をさらに渡され、伝言ゲームの最後を務めるラジコン役としてそれなりの協力をしてきた。

 海から来たんだったら、海のものとか食べるんじゃないの、というのが電話越しの花野の意見だった。

 だったら変に陸のものとか食べさせないで、適当に海にあるものを前に並べて、自分で食べさせてみればいいんじゃない。

 ウミウシは種類によって、特定の藻や虫しか食べないのもいるらしい。そうなるとかなり食べさせるものには気を遣うわけなのだけど、試しに海に連れていって色々目の前に並べてみたら、割と何でも食べた。「何でも食べたよ」と伝えると、絽奈は「何でも食べるが一番困る」と難色を示したが、「じゃあ家にある魚とか並べて様子見てみる」とその先を引き受けてくれた。

 そしてその結果が、

「わかめなんだ」

「逆に魚はあんまり好きじゃないのかも。わかめはもりもり食べるよ。そこ」

 絽奈が一瞬指を差す。ベッドの下。ちょっと迷ってから式谷は失礼して、床に顔をつけるようにしてそこを覗き込む。

 チャック付きの、乾燥わかめのパッケージ。

 どんな部屋なんだ、とちょっと思う。

『なるほどねえ、色々あるわけだ。いいですね。SDGsにも貢献できるってことで。さあ、どうですか若宮さん! この夏、こういうアイテムを使ってエコに夏を乗り切ってみるのは』

『いやあ~……。僕は普段やっぱり、機材の関係があるんでエアコンを一日中点けっぱなしにしちゃってるんですけど。でもこういうのもいいですよね。古き良き日本の夏って感じで』

『ねえ。私もね、昔は田舎暮らしだったもんだから。水を入れたバケツに両足を突っ込んでね、川で冷やしといたスイカなんか友達とこうガブッと――あっと。いま速報が入りましたね。えー、衆院議員の上朝文部科学大臣が今――』

 式谷はパッケージを手に取る。ちょっと埃がついている。流石に絽奈も部屋の掃除をされるのは嫌だろうし、自分に指摘されるのも嫌だろうから、言わぬが仏ということで、見ないふり。すでにアザラシはわかめの気配を鋭敏に感じ取っている。こっちを見ている。期待しているように見える。期待されると式谷は弱い。それならすぐに水に戻してあげようという気持ちになる。けれどまさか袋の中に直接水を注ぐわけにもいかないから、皿を用意する必要がある。

「ねえ、わかめ戻すのに使ってるお皿ってどこにある?」

『都内ホテルで遺体で見つかったそうです! 警察は殺人の可能性もあると見て――』

「――えっ」

 あ、聞いてない。

 絽奈の注意が完全にこっちから逸れたのを確かめてしまったので、式谷は諦めた。リモコンを手に取って音量を上げてやる。絽奈は画面に食い入るようにテレビを見ている。器用なことに、その状態でキーボードも叩いている。ブラウザの検索窓に文字が並ぶ。『文部科学大臣 死亡』

『落ち着いてくださいね、皆さん! まだ不確定、不確定ですから! えー、こちらに入ってきている情報としてはですね、現在警察がホテルを捜査中で――、現場に記者がいるとのことで、中継を繋ぎます。北上さーん?』

 もう手でいいか、と式谷は思った。こっちはこっちでやるしかない。チャックを開ける。手の中にわかめをざらりと出す。どのくらいがちょうどいいかわからないから、ちょっとだけ。もっもっ、とアザラシが嬉しそうに膝に乗ってくる。可愛いけれど、乾燥わかめが腹の中で戻ったら可哀想にも苦しんでしまうかもしれない。まだダメだよ、と声をかける。もっもっ、とそれでもアザラシは止まらない。

 そのとき、目を疑う事態が式谷の目の前で発生した。

「えっ、うぇっ、」

『――はい。現場は騒然としているとのことで。いやあ、最近こういうニュースも多いですからね。日本はどうなってしまうんでしょうか。この件は続報が入り次第ということで、明るいニュースに行きましょう。日本選手が世界で大活躍! CMの後はスポーツです』

『――今年の夏、最も恐い話がやって来る……! 占い師の高知先生をスタジオに招き、古今東西最恐の呪われた実話を大特集――』

「えー……。ここで終わっちゃうの、このニュース」

 ぐねぐねしていた。

 ぐねぐねしていた、以外の語彙が今の式谷の頭の中に浮かばなかった。すごくぐねぐねしているのだ。うねうねしているというよりぐねぐねだと思う。伸びている。広がっている。そのことを認識したらようやく普段の言語感覚が戻り始めた。ぐねぐねしてるのが、伸びて、広がっている。自分の腕を上ってきている。いや上ってきているというのは正確じゃない。膝の上には乗ったままなのだ。伸びて、腕の方までそれが届こうとしているだけなのだ。わかめが奪われる。それだけでは飽き足らずケーキにまで伸びていく。ケーキは美味しかった。機会があればまた買ってきたいと思う。絽奈が笑ってくれたのもよかった。

 それは食べられるんだろうか、と不安になった。

「ちょっと待って!」

「えっ」

 絽奈が振り向く。

 そのときにはもう間に合わないから、二人して全く同じものを見ることになる。


 キラキラした宇宙みたいな服を着た、自分たちと同年代くらいの子どもが。

 奪い取ったケーキを指につけて、舐めている。


 言葉を失っていた。たぶん、絽奈は目の前の光景が全く意味不明で思考が停止していたのだと思う。後になれば式谷はそのくらいのことは推測できる。

 けれどそのときは、自分が押し黙っていた理由の方で精一杯。

 美味しい美味しいショートケーキの真っ白なクリームを舐める目の前のその姿を見ながら。

 ついさっき、ぐねぐねして広がったり伸びたりする前のことを思いながら。

 わかめばっかり食べていたらしい食生活に、思いを馳せながら。

 心配して、式谷は訊いた。

「――おいしい?」


 うん。


 Unidentified Mysterious Individuals。

 未確認でミステリアスな個体は、頷いて答えた。

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