モラトリアム・アクアリウム ④
「え、でも今のうそだよね」
外から来た子、というのがその頃の花野が絽奈に抱いていたイメージの、覚えている限りほとんど全てだった。小学二年生の頃。まだIRの話が市を覆うこともなく、ニュースが何を伝えているのかを理解できず、平日も休日もなく市役所で深夜まで働く母の姿にうっすらとした憐れみを覚えていた頃。
小学校の同級生は十二人。うち女子が七人。地元の出身ではない絽奈は初めの頃こそ「誰だかわからない子」だったけれど、六歳だとか七歳だとかは、そういう「誰だかわからない子」に一番夢を見る年だ。今となってはこの二々ヶ浜で外から来た人なんて珍しくも何ともないが、あの頃――きっと男子たちだって覚えているなら頷くことだろう――教室の中心にいたのは、絽奈だった。絽奈一人だけが、児童書の世界からやって来たみたいなお姫様だった。
そしてその頃の絽奈は、『霊感少女』でもあった。
これは他の小学校の面々に聞いても「いたいた」「やってた」「掘り返さないで」みたいな反応が返ってくるので、どこの教室にも一人くらいはいておかしくない。子ども向けにありがちな怪談小説の影響か、それとも『特別な自分』を演出するための手軽なプリセットなのか。居もしない霊を居るという。してもいない恐怖体験をしたと言う。見えもしないものを見て、聞こえもしないものを聞いて、周りにそれを言い触らす。何なら嘘を吐き続けているうちに自分でもそれが本当のことだと勘違いし始める。けれどそんなものを周りが信じてくれる期間はこの科学の時代にそれほどは長くなく、やがて同級生の誰かに「嘘吐くな」とトドメを刺され、『霊感少女』が築き上げた教室の中の小さな邪馬台国は終わりを告げる。
あの教室で銅剣を抜いたのは自分だった、と花野は思っている。
本当の問題は、その後のことなのだけれど。
どの季節だったのかは全然覚えていない。記憶の中の教室はセピア色に褪せているけれど、いくら古い小学校とはいえまさかそんなわけはないので、朧な記憶にフィルターがかかっている。つまりこの記憶もあまり信用ならない。でもとりあえず、何らかの休み時間ではあったのだと思う。
自分の座る窓際の席の近くで、絽奈が話をしていた。それを取り巻いてみんなが楽しそうにその話を聞いていた。自分も聞いていた。何の話だったかはろくに覚えていなくて、かろうじて記憶に残っているのは「舟の幽霊」と「大怪獣」のフレーズ。面白いなあと思いながら聞いていた。話し終わって、小松が言った。
「あしたぼく、釣りにいくのやめようかな」
このあたりだけ妙に情報量が多い。確か、その前に小松がこんな話をしていたのだ。明日はじいちゃんと釣りにいくんだ、たのしみなんだ、いっぱい釣ったら家でさしみにして食べるんだ。それが急に意気消沈したから、親切心のつもりだった。それを告げることがどの程度の重みを伴う行為なのか、当時の花野にはよくわかっていなかった。
「え、でも今のうそだよね」
「うん。うそだからだいじょぶだよ」
そして絽奈にあっさりと頷かれてしまったものだから、今でもよくわかっていない。
絽奈は自分が嘘を話していることを知っていた。今にして思えば、と花野は推測している。あの頃から絽奈は今と同じことをしていたのだ。面白い話を作って、それを人に聞かせる。笑わせたり泣かせたり、感動させたりする。強い想像力が形を取って、物語として人に伝わっていく。そういうことを本人は、しっかりと自覚を持ってやっていたのだと思う。
でも、話を聞いていた中には、そうじゃない奴らもいた。
たぶん中学生が聞いたら、誰でも明らかな嘘だとわかる話だった。でも小学校の低学年なんて、恐竜が近所に出たと言われたら本気で信じてしまうような生き物なのだ。うそだったの。えー。うそつきじゃん。そんな感じのことを誰かが言い、絽奈はそれを受け止めた。
そして次の日から、絽奈は学校に来なくなった。
花野はしばらく、彼女の家にプリントを届け続けた。最初の数日は顔も見せてくれなかった。だからよっぽどのことをしたんだと思ったし、今でもそのときのことを思い出すと無意識に変な声を出しそうになる。これまでの人生で一番プレッシャーがかかった時期。なぜか式谷も一緒に絽奈の家を訪ねていたような気がするが、なぜ一緒だったのかは全く覚えていない。プリント係がその後自分から式谷に移った経緯も全く思い出せない。当時から式谷は絽奈のことが好きだったんだろうか。それとも持ち前のお節介を発揮して、小学生ながらに毎日胃を痛めていた自分を気遣って付いて来てくれていたんだろうか。あんなに小さな教室で長い間一緒に過ごしていたのに、このあたりのことは何もわからない。
ガララ、と玄関が開いて絽奈が出てきたとき、びっくりしたことは覚えている。
なんだか向こうは向こうで、やたらに決断的な表情を浮かべていたことも。
「学校にはもう行かない」
きっぱり言った。
でも、とかそんなことを自分は言ったと思う。その場にいたとしたらたぶん式谷も言ったと思う。けれど絽奈は何も意地になってそんなことを言っているわけじゃなかったらしい。涙の一つも浮かんでいなかった。手も震えていなかった。それからこんな風に、言葉は続いた。
「何をしたらいいか、もうわかった」
□
ぽん、と画面の上部に通知が来る。
千賀上絽奈、とフルネームで送信元が表示されていた。
それで花野は、思い出の世界からまたこの水族館に戻ってくる。いつの間にか動画は五分くらい進んでいた。結構考え込んでしまっていたらしい。身体がちょっと冷え始めている。そしてまだ、ぼんやり頭の中で考え事は続いていた。絽奈は言った。やることが見つかったから学校には行かない。もう必要ない。その言葉のとおり絽奈はやることをやり続けている。それでもたまに、花野は思う。絽奈を不登校に追い込んだ原因は、やはり自分なのではないかと。
『あきらちゃん!』『いま暇?』
そしてそういう懸念は、いつも絽奈からの連絡で誤魔化されてしまう。
動画の上から通知が現れた。タップする。連絡用のメッセージアプリを開く。スタンプがついていた。絽奈が自分で作ったやつ。「『真昼のお願い』が一番好き」と伝えた次の日に、わざわざそれに出てくるキャラクターを使って作ってくれた、「あきらちゃん!」と自分の名を呼ぶ可愛いデフォルメキャラのイラスト。
あれからも絽奈は、自分と連絡を取ってくれている。
それだけでいいのかもしれない、とも思う。
『超暇』『何?』
『あきらちゃんって魚詳しかったっけ』
全然詳しくない。が、
『まあまあ』『今水族館にいるからちょっとなら調べられるよ』
ぽん、と喜びを表すスタンプが送られてくる。それから続いて『ちょっと待って……』と苦悶するスタンプ。そんなに苦しまんでも、と思う。今まさに怪しい魚でも食べて死にかけているんだろうか。なら自分よりも先に一一九とかに連絡した方がいい。行き帰りで救急車は病院まで三、四十分はかかるだろうし、受け入れ先が見つかるかどうかも別問題だけれど。
『これ』
ぽん、と送られてきたのは、一枚の写真だった。
浴槽があるから風呂場だ。やたらに綺麗だから多分絽奈の家。映っているものを見て、素直に花野は答えを打ち込む。
『式谷湊』『十四歳』『哺乳類』『クジラの仲間』
『ちがう』『そっちじゃない』
『撮ってる方?』『彼氏自慢女』
『ちがう!』
違うならなんでこんな写真送ってきたんだよ、と花野は思う。写真の明るさからして今撮ったものだろう。洗い場の床に式谷が屈み込んで、幸せそうな笑みででピースサインをしている。カメラを向けられて咄嗟にこの笑顔が出る奴はアイドルとかタレントに向いていると思う。今度式谷が進路相談に引きずられていく前にアドバイスしてやろう。宇垣は多分頭を抱えると思うが、真面目なので熱血アイドル指導を始めるかもしれない。傍から見たらたぶん面白い。
まあそっちはいいや、と気を取り直す。最近は呆れるのにも飽きてきた。代わりにもう一度写真を見て、
『この黒いの?』
『そう』
『生きてんの?』『魚じゃなくない?』
『わかんない』『生きてはいる』
ふうん、と花野は首を傾げた。どう見ても魚ではない。魚詳しかったっけ、という謎の導入についてちょっと考える。まあいいや、と席を立つ。『ちょっと待って……』と苦悶のスタンプを送り返して、再び事務室へ。
「まだ終わんないから、もうちょっと待って~」
「いいよゆっくりで」
母に言って、勝手に本棚から図鑑を何冊か抜き取った。バララララ、とそれを捲って中身を確かめる。絶対魚ではない。カエルの章には載っていない。甲羅がないからカメではなさそう。サンショウウオも違う。そうだ、と分類を見るうちに気付いたから、
『これどこで見つけたの』『海?』
『海だけど、陸でも動いてる』『湊はアザラシだって』
アザラシではないだろ。
一応アザラシの項目も見てみる。絶対あいつ小さいアザラシの丸っこいイメージだけで物を言ってるんだろうな、と思う。見た目の印象として近いのはクラゲだけれど、それにしては写真から見られる質感はもっちりしすぎだと思う。ウミウシとかかな、とそのあたりを見ていると目に付いた文字があったから、
『貝の仲間とか?』
『殻がないのに?』
『タコとか』
自分で言っていて、違うだろうなとわかった。写真に映っているのはタコほど足が多くないのもそうだけど、もうちょっと可愛げがある。図鑑は一通り調べ終えてしまった。本棚に戻す。『わからん』
送ってから、間髪入れずに、
『一応水族館の中見てみる。似たようなのいるかも』
ありがと、と返ってきたのを確認して、再び事務室を出た。
水族館の展示スペースはそんなに広くない。県内にはもっとちゃんとした、ペンギンショーなんかをやっている大型の水族館もあるけれど、こっちは個人の趣味だ。昔はこのあたりも漁業が盛んで、その元締めをやっていた筋の館長が海への愛が溢れる男で、かつては町議もやりながら水産加工でブイブイ言わせつつ趣味でその横にレストランと水族館を作り、時代の流れで工場とレストランが閉鎖されて今はこの縮小した道楽水族館を残すのみ……という認識で花野はいる。合っているのかどうかは知らない。自分にとっては市役所をクビになった母の再就職先であり、それ以上でも以下でもない。過ぎ去った時代の話は歴史学者に任せておく。
一周をぐるっとまわるのに、精々が十分くらいだと思う。水槽に目を凝らしながら花野は歩く。二々ヶ浜で見られる生き物のコーナー。二々ヶ浜では見られないはずの、どこかで仕入れてきた外国の魚のコーナー。触れるヒトデ。あ、ヒトデ? 解説文を見た。ヒトデにはいろんな形があります。図鑑を調べたときはあまり真剣にヒトデの項目を見ていなかった。考え込みながら戻ってくる。タツノオトシゴの筒状水槽の前。
事務室に戻るよりも、先に端末で調べる方を選んだ。
キューブチェアに腰掛ける。『ヒトデかも』『ちょっと待って……』絽奈に送って、それからブラウザを開いて調べものを始める。『ヒトデ 黒』『ヒトデ 黒 丸い』『ヒトデ 丸い』これだという結果は得られなかったけれど、マンジュウヒトデという丸っこいヒトデがいることはわかった。近いかもしれない。画像検索をやめて、図鑑情報の残っているサイトだとか、水族館の特設ページを調べ始める。スクロールは早い。画面に集中している。
だから、ガーッと音を立てて自動ドアが開いたとき、思わぬ驚きで身体が固まった。
何も不思議な話ではないはずだ。まだ開館中の水族館なのだから。来客の一人くらいある。けれど母が受付に座らずに事務室に籠り切りなことからもわかるように、それは滅多にない。
「こんにちはー」
滅多にない来客は、受付の前からこっちを覗き込んでいた。姿が見える。この暑い中、長袖のスーツを着込んだ若い男だ。宇垣より下で、佐々山よりも上。三十になるかならないか。やたらにでかいバッグを肩にかけて、額から首にかけての滝のような汗をスポーツタオルで拭いている。
普通の人間は、水族館にスーツで来ない。
母を呼んでこようと、腰を浮かした瞬間のことだった。
「あ、」
男と目が合った。
「どうもこんにちはぁー」
ニコニコと笑いながら男が近付いてくる。使い込まれた革靴が音を立てる。逃げるわけにもいかないからそのまま立っていれば、男は無遠慮に目の前までやってくる。
変な臭いがする。
街の方で嗅いだことのある、甘ったるい変な煙草みたいな臭い。
「このへんの子? 水族館の人って今いない?」
花野の頭の中には、警報が鳴り響いていた。式谷の声が使われている。気を付けた方がいいよ。どうやって気を付けりゃいいんだよ、ともう一度思う。向こうからズカズカ乗り込んでくるのに。
いいや。
とにかく母を呼ぼう。こういう手合いの相手には少なくとも自分よりは慣れているはずだ。
「今――」
「お、これタツノオトシゴ?」
呼びます、という言葉に男の声が被さってくる。
水槽を見ながら、首元をタオルで押さえながら瞳を不気味に青く染めて、
「いいよねえ、タツノオトシゴ。形がカッコイイってていうのもそうだけど、まず何より名前に夢があるよ。君さあ、虚舟って知ってる?」
「は?」
「ま、今の子は知らないか。女の子は勉強嫌いだしね。全国各地の海岸沿いにある伝説でさあ。いわゆるUFO伝説なんだけど、これって本当にあったことなんだよ。アメリカでラズ……なんだっけ。ナントカ事件が起こって大騒ぎするよりもずっと前、キョーワとかカンセーの時代の話なんだよ。それがここにもあってさ。つまり日本って、世界で一番最初に宇宙人が来たところなわけ。世界でだよ? やっぱ日本ってその頃から注目されてたんだろうね。そういうの聞くと誇らしくならない? でも日本の学校ってそういう必要なことを全然教えないからなあ。変な教科書ばっかり使ってるし。君もね、あんまり学校の勉強とか真面目にしない方がいいよ。言われなくてもしないか。はは」
通報でいいや、と花野は思った。
母に会わせるまでもないと思った。というより、ちょっと頼りないところのあるあの人には会わせない方がいい。臭いの記憶を思い出した。大麻だ。数年前から二々ヶ浜では合法になっているし、実際どれだけ有害なのかは一生やるつもりもないのでよく知らない――何なら酒と煙草だって傍から見れば明らかに有害だと思う――が、少なくとも大麻の臭いをぷんぷんさせながら本気のトーンで変なことを口走っている人間はどう考えても危険だ。
背中に端末を隠しながら、緊急通報のボタンを押す。
通報先は一一〇じゃない。薊原曰く、この街の警察の多分半分くらいはこういうのと裏で繋がっている。だから、そういうのを告発して懲戒された人間が所属している組織を頼る。
町の自警団。
式谷の父親なんかが参加している、旧二々ヶ浜の青年団や町内会で構成された自警団体に、位置情報を送信する。
「それでなんで日本に来たのかって言うと、やっぱり僕たちを助け出すためなんだろうね。ほら、今ってみんないじめられてるだろ。中国とかアメリカとか、そういうところに。日本人って豊かで優しいからそういうところ付け込まれちゃうんだけどさ、やっぱり宇宙人から見ればそういうの許せないんじゃないの。国内にも日本を潰そうとしてるスパイが大量にいるわけだし。キョーワの時代から……というか日本は一番古い民族だし、宇宙人はそういうのがわかってたんだろうな。もっと昔から、いつか必ずそういう日が来るって。神の落とし子……そうそう。ここでほら、タツノオトシゴが繋がってくるわけなんだけど、まあつまり一種、仲間なんだろうね。タツノオトシゴは竜に似てるだろ。で、日本人っていうのはスサノオとかアマテラスに似てるわけ。落とし子だから。あんまり言われないけど、やっぱり海の神っていうくらいだから舟を作ったのもスサノオなんだろうね。で、昔から日本は一つの家族としてまとまってきたわけだからその大兄貴が『俺の弟に何してんだ』って……ていうか君、古事記とかそういうの読んだことある? 日本が神の国だってことはわかってる?」
意味わかんねーよタコ。
そう言ってそのへんの水槽に突き落としてやれたらと思う。水槽の中の魚が可哀想だからやめてやろうと思う。そういうタイプの宗教の信者なのか歴史認識が終わっている団体の構成員なのか、それともどっちもなのか。何にせよ目の前にいるのが非常に今の二々ヶ浜市にマッチした人物であることは確かで、つまりさっさと消えてほしい。
自警団が来るまでどのくらいかかるだろう。
もし詳しいことが知りたいなら、なんて言って男はバッグの中から何かを取り出そうとする。知りたくねーよ、と思いながら花野はそれを見ている。
キィ、と扉の開く音がした。
「どなたですか?」
振り向くと、母がバックヤードから顔を出している。
あ、とそれで男は動きを止めた。中途半端にバッグを広げたまま動きを止めたものだから、その開いた口からバサバサと何かが零れ出す。ありゃりゃ、と言いながら男は床に這いつくばる。正直なところこの男のバッグの中身なんて指一本触れたくもないけれど、こういうのは品性の話だ。仕方がないから花野も屈んで、それを拾ってやる。
パンフレット。
案の定、お馴染みの宗教団体の名前が書いてある。
「君、よければそのパンフレット――」
「こんにちは。どういったご用件ですか?」
母が男に話しかけた隙を突いて、手に持ったパンフレットをそのままバッグの中に捻じ込む。やけにでかいし、パンフレットを詰めた奥にも空間がある。それこそ大麻でも底に詰めているのかもしれない。
「あ、職員の方ですか?」
と思ったら、男はバッグに手を突っ込んで、パンフレットの床に散らばったのもそのままに別のものを取り出した。筒状に丸めた何かのポスター。緑色の輪ゴムをキリキリ丸めて解いて、
「実はですね、今わたくし、九月の市長選に向けてということで応援のお願いに回っておりまして」
木島太郎、と大書きされた選挙ポスターだった。
顔は、と見比べた。全然違う。ということはこの男は秘書だろうか。名刺を出しもしない。
「こちらの水族館にも、このポスターを掲示してはいただけたらと」
「はあ……今、館長がおりませんので、私では何とも」
「あ、そうなんですね。じゃあこちら、とりあえず受け取っていただくだけでも」
ううん、と微妙な顔で母は頷いて、
「そうですね。ただ、うちの館長はもう政治とかそういうのは懲り懲りみたいなので、『絶対に掲示しますよ』とはお約束できないんですが、それでも大丈夫ですか?」
「ええ、ええ、ええ。もちろんです。大浜先生ですよね、館長さんは。事情の方、よく存じておりますので」
「あ、ご存知なんですね。でしたらその……ちょっと明け透けな話なんですが、こちらの木島さんから大浜にご挨拶されてからの方が、ポスター等々の掲示なんかもご都合がよろしいと思いますけど。ちょっとそのあたり、順番が」
ああいえいえ、と男は遮って、
「そのあたりは、ええ。色々とこちらでも気を遣わせていただいておりますので。ぜひこちら、ポスターだけでも受け取ってもらえれば」
「ああ、そうなんですね。すみません。こちらで事情を共有していませんで」
「いえいえ! それでは恐れ入りますが、どうぞよろしくお願いいたしますぅー」
では、と男は鞄の口を閉めないままで、何度も頭を下げながら去っていく。ガーッ、ともう一度自動ドアが閉まる。しばらく時が過ぎ去るのを待つ。
花野から言う。
「通報しちゃった」
「あ、ほんと? さすが素早い」
偉い偉い、と母は言った。自警団には後でお母さんから連絡しておくから。咄嗟に判断できて晶はすごいねえ。怖かったよねえ。この人は自分のことを永遠に五歳児か何かのままだと勘違いしてるんじゃないだろうかと花野は思うけれど、別に「子ども扱いしないで!」なんて思春期をかますつもりもないので、そのあたりは聞き流して、
「誰。この木島って。宗教?」
「じゃない? 見たことないから新人かな……。出るんだね、対抗馬」
「どこ? 与党? 『復国』とか?」
「わかんない。書いてないや」
ぽい、と捨てるように母はそれをキューブチェアの上に投げた。
「締め作業だけしちゃうから、もうちょっと待ってて。それから帰ろ」
「それならその間に自警団に連絡しちゃうよ。暇だし」
「あ、ほんと?」
ありがと、と母は言ってバックヤードに戻る。花野は端末を取り出して自警団の番号にかける。コール中に母が戻ってきて、展示室の中で細々とした作業を始める。電話が繋がる。
「あ、すみません。さっき通報した者なんですけど。はい。花野です。花野晶。二々ヶ浜水族館。そうです。さっき怪しい男が来たと思って通報したんですけど、すみません。選挙ポスターを配りに来てただけってことで母――職員が対応して話がついて……」
はい、はい、とやり取りをする。お疲れ様、大変だったね、と最後に電話口から聞こえてきた声で気付く。昔、ちょっと会ったことのある人だ。母の同僚だか友人だか、そんな感じの人。名前は覚えてない。髪は茶色だったと思う。ちょっと気まずい。
どうもです、と通話を切った。母の姿を探す。入口のところ。自動ドアの運転を切って、中から施錠をしている。その近くまで歩いていって、「連絡しといた」と告げると、ありがとー、と母は言って、
「びっくりしちゃうよね。街の人がいきなりこっちまで来ると。今日、大浜さんもいないから対応にも困っちゃうし。でもああいうとき、すぐにお母さんのこと呼んでいいからね。危ないから」
大浜、という言葉を花野は頭の中で結び付ける。館長の名前。
けれど、
「え、いないの。館長」
「いないけど」
母は不思議そうに、
「なんで? 会った?」
「会ってないけど、外に車停まってたから。外っていうか裏」
歩いてどっか出掛けたのかな、と花野は館長の姿を思い浮かべながら考える。海からやってきたサーフィンが大好きな熊みたいな、いかにも貫禄のある爺さん。おっちゃんも若い頃はそりゃもうスマートでアメリカでオートバイをかっ飛ばしてな、という話を手振り付きでもう四回くらい聞かされている。とうとう自分の足で歩くことに目覚め、成人病の不安とオサラバし、本人自慢のかつての肉体を取り戻す決意を固めたのだろうか。
そういえば、とそれをきっかけに思い出した。
「今日表に自転車停めちゃった。先に裏から出て軽トラ――」
「ちょっとここで待ってて」
言い切る前に、母は早足でバックヤードに戻っていってしまう。
一瞬、花野は唖然とした。
母がああいう動きをするところは年に数回も見ない。何かにつけてのんびりした人だ。仕事が忙しかったらしくいつも目の下にクマを作っていた時期ですら、怒られた記憶がほとんどない。
何か、用事でも思い出したのだろうか。
待てと言われたからには素直に待つことにした。そしてさらに思い出す。調べものの途中だったこと。端末を取り出す。『ちょっと待って……』と言ったきりでしばらく間が空いてしまった。今日はもう水族館も閉まってしまうから、また明日に持ち越させてもらうことにしよう――
「うわ、」
その文面の作成途中で、さらに花野は驚く羽目になる。
激動の一日だ。自動ドアの向こうに張り付くように人影がある。しかしそれが誰のものなのかわかれば、驚き損だったな、と花野は思う。
この町に数多存在する、数多の爺さんの一人。
小松の爺さんだ。
ととと、と駆けていって入口の前に立つ。一応内鍵を外す。けれど小松の爺さんはよく日焼けした額に庇を作って水族館の中を覗き見るばかりで、全然入ってこようとしない。
そして言う。
「……晶ちゃん、大丈夫かい。不審者とかいうのは」
「あ、」
それで小松の爺さんが――館長と古い付き合いで、水族館の飼育員も務めるこの老人がこのタイミングで現れた理由が、花野にもわかった。
通報と、通報取り消しまでの時間差の問題だ。
ここから近いところに住んでいる爺さんだから、自警団の連絡網に反応して、わずか数分の間にここまで駆け付けて来てくれたのだ。
「すみません。さっき自警団の方には連絡したんですけど――」
ドア越しに、花野は事情を説明する。もう少し町が若かった頃は小さなボートで沖合まで漁に出ていたという爺さんは、しかし今やそのころを感じさせない細い腕を組みながら、時に「え?」「ごめんよ、もっと大きな声で」を挟みつつ、うんうん、と話を聞き、
「そうか。なんもなけりゃあそれが一番良かったよ」
無駄足を踏む羽目になったことにも一切の腹を立てず、そう言って話を結んだ。
「そんで? そのポスターっちゅうのは?」
「中にありますけど。今、入り口――」
「ああ、いいよいいよ。裏から回るから」
食い下がる間もなく小松の爺さんは踵を返し、年齢に見合わぬ軽快な足取りでサンダルを高く鳴らしながら階段を下りていった。姿が見えなくなる。裏に回っていったのだろうと思う。そうなると母と鉢合わせることになるはずだ。ここで待つか、それとも自分も裏まで回るか。
まあ、突っ立って待っているよりは迎えに行った方が感じは良く見えるだろう。
折角小松の爺さんも自分を心配して来てくれたわけなのだから、そのくらいの礼儀は見せてしかるべきだと思う。内鍵をもう一度閉める。展示ゾーンの奥まで歩いていって、バックヤードへ。さらにそこからもう一枚扉を潜れば、だだっ広い空間に出る。元は食品加工のための機械が置いてあったらしい場所。今はすっかりそれも撤去されて床も壁も何もかも剥き出しで、ちょっと変な臭いだけが残っている。学校のプールの更衣室がものすごく広くなったら、多分こんな感じになるんじゃないかと思う。つるつるの床を歩く。裏口のアルミの扉に手を掛ける。
今度は開いた。
きぃ、と音を立てると、母と小松の爺さんがぎょっとするような速度でこっちを振り向いた。
二人とも館長の車の近くに立っている。というか、そっちの方を向いていたらしい。何かを見ていたのか。何だろう。目を凝らす。母の口が開く。
「――晶、中で待ってて!」
滅多に聞かない大声。
でも、そのときにはもう遅かった。
目に映っている。車の中に誰かがいる。誰かじゃない。あのさぞシートベルトがしにくかろうと思わせる体格には覚えがある。いつも着ているブランドものらしいポロシャツも。というか運転席に座っているわけだから、普通はその人だと思う。そうでなくたって顔さえ見れば、それが誰だか確信できる。
今は、確信できない。
顔に、紙袋が被せられているから。
「晶ちゃん、しばらくこっち戻ってな。な?」
小松の爺さんがいつの間にか近付いてきていた。こっちの視界を遮るようにして立ち塞がる。ほらほら、と水族館の中に返すように誘導してくれる。扉を開けてくれる。
けれどすでに、花野ははっきりそれを見ていた。
ポロシャツについていた黒っぽい跡。酸化反応。赤いのが、空気に触れて黒くなる。
事務室に戻る。ここで待っててな、と小松の爺さんが出ていく。しばらく入口の近くに立っていて、それからようやく花野は動き出す。応接用のソファに腰を落とす。柔らかすぎて、信じられないほど沈み込んで、二度と自力では立ち上がれないのではないかと思う。時計の音がうるさくて、人が徐々に集まってくる音が聞こえてくる。通報を取り消す必要はなかったんだろうなと思う。
血だった、と記憶を確かめた。
そのとき端末には――花野が途中で打ち込むのをやめた端末には、一件、こんなメッセージが届いている。
『晶ちゃん、大丈夫?』
それに気付いたのは、家に帰ってからずっと後のこと。
□
「お。花野さん来た」
ほらやっぱり先に行ってなかったじゃん、と式谷が笑ったのは朝八時。徐々に気温が上がり始める時間帯。すでにみっしりした湿度が呼吸しにくいほどに辺りに立ち込めて、蝉がじゅわじゅわ鳴き始める、そんな夏。
自転車に乗って家を出た花野は、そんな夏のほとり、小学校の前に三人の人影を見つけた。
「何してんの」
「花野さんが来るの待ってた」
「湊とだべってた」「式谷と小松がいたから、そういう日なのかなって」
順に式谷、小松、紬。
全員同じ小学校の出身で、つまりはもう九年の付き合いになる同級生たち。一年の頃ならともかく、もう中学校も三年目だ。普段はバラバラで登校している。それが暑いだろうに夏服で自転車に跨って、小松なんかスラックスの裾を折り返して七分丈にしてまで、葉桜が作る緑色の影の下にたむろっている。
きっぱり理由を述べたのは式谷だけ。どっちの経由だろう、と花野は考えた。絽奈か。それとも自警団の父親か。そしてすぐに考えるのをやめる。
「ども」
どっちでもいいや、と思ったから。
時間ヤバいけど、と花野は言って一番前を走り出す。後ろで小松が端末を取り出したのだろうか、うおほんとじゃん、と声を上げる。その隣あたりから、いいよもう遅れても、暑いしサボろサボろ、と言うのは最近学校に来たり来なかったりの紬。
「ほんと最近暑いよね。終わってるよ、地球」
隣に並んでそう言ったのは、もちろん式谷。
規模でか、と紬が笑う。いやでもこれはマジな話なんだけど爺ちゃんが言うには昔より断然暑くなってるらしいぜ氷河期の逆だろ、と小松。
「やっぱこれ地球温暖化のせいなんかな。地球、大切にしていこーぜ。俺らで」
「お、宗教の人? 学校でも流行り出した?」
「ちっげーよ。俺が言いたいのはだな……つか、変なこと言うなよ。洒落になんねーし。マジでそういう奴みたいじゃん、俺」
「ウケる」
小松と紬が二人で盛り上がり始める。小松は主に環境問題の話がしたいらしいが、紬は小松をからかって遊びたいだけ。大体この二人は昔からこんな感じだよな、と思いながら花野はペダルをぐんぐん押し込む。風が頬に当たるけれど、湿気った風だからそこまで気持ち良くはない。県道をずっと真っ直ぐ。前籠に詰めたスクールバッグの持ち手がパタパタ揺れる。
漕ぐたびに、夏休みが近くなる。
「式谷」
「ん?」
涼しい顔で髪をなびかせた式谷が、こっちを向く。こういうことをこういうタイミングで言うのはダサいかな、とちょっと迷う。でも、と思い直したのは、昨日もこういう話をしていたんだし、という微かな記憶と正当化。
「進路票が白紙なの、二人になるよ」
お、と一瞬式谷は、目の前で手を広げられたような顔。
けれどすぐにいつものあの、何も考えていないような、この世に悲しいことも辛いことも一つもありません、とでも言いたげな笑顔に変わって、
「仲間だ。一緒に宇垣先生困らせて遊ぼ」
「かわいそ、宇垣。生徒こんなんばっかで」
「あの人、話してると結構可愛いよ」
「出た。お前何でも可愛いって言うからな……」
そんなことないって、夏は可愛くないし。式谷が言えば、紬が反応する。夏が可愛くないって何。小松も釣られて、いや夏は季節の中で一番可愛いだろ、次点で春。何これファッションの話? いや違うお前ほんとにわかんないの季節ごとのイメージの可愛い可愛くないがさあ。
他愛もない話だった。
なあ花野もわかるよな、と言われたから、全然わかんないけど、と返す。嘘ぉ、と小松が言う。湊はわかるよな。湊はわかります。ほら、二対二。
だから何だよ、と花野は笑った。
笑った先には、馬鹿みたいに青い空。冗談みたいに真っ白い、大きな大きな入道雲。たぶんそこには、どれだけ自転車を漕いでも辿り着かない。だからぼんやり心の中だけで、声にも出さないで、花野はこんなことを思い浮かべている。
こんな時間は、そんなに長くは続かない。
早く『誰か』にならなくちゃ。
坂の上の学校から、予鈴の鳴るのが聞こえてくる。
花野は思いっきりペダルを踏み込んで、教室へ急ぐ。
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