Unidentified Mysterious…… ①


「お前にこの伝説のチャリを授ける」

 とうとう最後の形見分け、といった調子で姉の葵は式谷にそのボロっちい自転車を押し付けてきた。

 式谷が中学に上がる、ほんの数日前のことだった。つまり七つ離れた姉の葵がいつの間にやら大検に合格していたことが発覚して、大学に受かっていたことも発覚して、もう入学金の準備も入寮の手続きも自分で終えていて、「ハンコをここ。後ここと、ここ」と書類を差し出して父を卒倒させて数日後のこと。ピカピカの若葉マークをつけた軽トラで高速に乗って、東京の学生寮とを一往復。足りねーもんはそのへんでまた拾うわ、と笑った葵は、水色のランドセルを背負って帰宅した式谷の首根っこを猫のように捕まえるや問答無用。庭先まで連れ出して、ホームセンターから江戸時代にタイムスリップした後また現代まで戻ってきましたみたいなママチャリをむん、とこちらに押し遣ってきた。

「これを受け継ぐ我が弟には、その伝説の一端くらいは教えておかねばならんだろうな。あれは昔、豊臣秀吉が明智光秀の名を騙り本能寺に攻め入っていた天正十年、忘れもしない六月二日のこと……」

 メチャクチャな人だった、と今になれば式谷は思う。七つも離れていると大抵のことは「年上の兄姉ってこんな感じなんだ」で流せてしまうけれど、最近は記憶の中の姉と被る年代に差し掛かってきたこともあり、改めてそう思う。ある日ふらっと家から消えてカジノ街でアルバイトを始める……くらいはもう二々ヶ浜では珍しくなくないが、それ以前からそんな感じの人だった。自転車絡みの逸話だけでも百くらいはあるんじゃないかと思う。そのへんで拾ったのを自分で直したとか、海に突っ込んでちょっとだけ水面を走ったとか、塩水で錆びるといけねえと適当に分解したら戻し方がわからなくなって一から自転車の設計思想を学んでこれぞほんとの車輪の再発明とか。そういう話を姉から親から他人から、数え切れないくらい式谷は聞いてきた。

 極めつけは小学校の低学年の頃だ。これは実際に式谷自身も立ち会うことになった。ちょうど姉が中学三年の、今の式谷と同じ学年だったころの話である。家の電話が鳴ったのを式谷は勝手に取った。お、湊じゃん。通話口の向こうは姉だった。電話出られるようになったんだ、としみじみ感心しているような声なんて全然そのときの式谷には届かない。緊張で手が震えるというのはあのときが初めての体験だったと思う。リビングの方を伺いながら、小声でまくしたてるように式谷は言った。

 おねーちゃん生きてたの。

 おとうさんはクマみたいにぐるぐるしてるしおかあさんはぐったりしてる、怒られないうちに早く帰ってきて、今どこにいるの。

「淡路島!」

 折角だからしまなみ海道まで行ってから帰るって言っといて、と電話は切れた。シマウマが何とかって言ってた、と伝えると父は「サバンナ……?」とますます胃痛を深め、一方で母は「もうあれは心配しても仕方ない」とすっぱり諦めた。一ヶ月後にふらりと帰宅した姉は信じられないほど日に焼けていて、「家に帰ってきたら人生観変わったわ」と適当なことを言い、シマウマの話をするとダハハ、と声を上げて笑った。背中をバンバン叩きながら「今度一緒にサバンナに行くか!」と恐ろしい提案をしてきた。そのあと式谷は、父が娘にアルゼンチンバックブリーカーを決めるところもを多分人類で初めて目撃した。

 ただ、悪い人だったかと言うと、弟の式谷にとっては少なくともそうではなかった。

「んでこのチャリはとうとうお役御免ってわけだから、お前に譲ろう。何でもかんでもお下がりばかりの人生は我が弟ながら不憫だとは思うが、これも時代だ。受け入れなさい。設計図は残していくから、不満なら自分でカスタムするように」

 とにかくいつ見ても機嫌が良さそうな人だった。笑い方がガハハわははとやたらに豪快で、やることなすこと突拍子もなくて、母からすら「湊。こっそり教えて欲しいんだけど、あの子がお酒飲んだところ見たことある?」なんて常時酔っぱらっているのではないかと疑われるような人だったけれど、少なくとも自分には優しかったし、毎週何かしら起こすトラブルは自分に火の粉が飛んでこない限りは家に怪獣がいるみたいで面白かった。全身から放たれる異様な量のエネルギーとか、ときどき溢す「人生が楽しくてしょうがねえ」と言わんばかりの呟きとか、そういう一つ一つが、式谷は結構好きだった。

 だから、ん、と差し出されたそのボロボロの自転車を見たとき。

 本当は式谷はわかっていたのだ。たぶん、言えば母は通学用の自転車を新しく買ってくれるだろう。安いママチャリくらいならまだ買う余裕が家にはある。言うほど姉のお下がりばかりを使わなければならないわけでもなければ、特に不憫な弟という枠の中にいるわけでもない。

 そのことはわかっていた。

 だから、

「ありがと。大切にする」

「んむ。使い倒せ」

 それでもそれを受け取ったのは、姉から何かを受け取りたかったからなのだと思う。

「いいか、弟よ。自転車の本質ってのはな、移動距離の延伸だ」

 受け取ったら受け取ったで、もっともらしく人差し指を立てて姉はそんなことを言った。

「見くびるわけじゃないけど、お前はまだまだそのへんのところがわかってない。二々ヶ浜から出たこともほとんどないし。お前にとってこれはまだ単に『行ける場所まで早く運んでくれる』道具に過ぎないことだろう。しかしな、」

 あれを見るがいい、と姉は指差した。その方向を見る。何の変哲もない、冬の終わりで春の始まり。少し冷たい薄藍色の、夕べの空。

「あたしらはあの空の向こうに行くまでに、自分の足だと恐ろしく長い時間がかかる。だけど、自転車を使えばもっと早い。飛行機を使えばもっと早い。どういうことかわかるか?」

「全然」

「推進力が距離を決定するんだよ。あたしたちの生きられる時間には限りがあるから」

 あれはシリウス、と輝く一点を指差して姉は言った。おおいぬ座で一番輝く恒星。恒星ってのは太陽みたいなやつのこと。地球からの距離は八・六光年。キロメートルに直すと何十兆なんて馬鹿みたいな数字が出てくる。そこから先はつらつらと、第一宇宙速度だったら第三だったら、光速がどうとか何万年がどうとか、一つも頭に残らないような数字の羅列が続いて、

「私たちの寿命は精々百年ちょっとくらいだから、どう頑張っても今はあの星には辿り着けない。……でも、ものすげーロケットが出来れば違う」

 冗談で言っているのかと思ったけれど、見上げた姉の顔は真剣そのものだった。夢を見ている風でもない。一緒にゲームをしているときに「あそこの宝箱取りてえな」とコントローラーを弄っているときと似たような顔。

 ときどき姉は、自分と同じ方を見ているのに、全く違うものを見ているときがある。

 このときも多分、そうだった。

「極端な話に聞こえるだろうけど、本当はこういうことは人生の至るところで起こってんだ。自転車があればいけるところ。車があればいけるところ。ロケットがあればいけるところ。学があれば、コネがあれば、金があれば、頑強な肉体があれば、くだんない狡猾さと分厚い面の皮があれば……。この世には、たくさんの自転車がある」

 夜に向かう風が吹いて、雲が流れていた。

 青みがかった空ごと、西の地平に吸い込まれていく。IRの方の空は徐々に化学的な色合いに変わり始めていて、それでもその星だけはまだ、目に見えるほどに輝いている。ひょっとすると、と思った。ひょっとすると自分は今、すごく大事なことを言われているんじゃないか。

 それが何だか、無性に寂しい気がして。

 そのとき不意に、葵が振り向いた。

「いいこと思い付いた。湊、宇宙飛行士になりな!」

 最後までメチャクチャだった。

 酔っぱらってんのか、と思わないではいられないような話の運び方。名案名案、と笑う顔には明け透けな笑みが浮かんでいて、まるでこの世には悲しいことも苦しいこともありませんというようなメッセージを表情の全部から放っている。安心するような、拍子抜けしたような、いつもどおりで嬉しいような。そういう気持ちを溜息にも似た吐息に式谷は込めて、

「――おねーちゃん」

「おう」

「僕、もう中学生になるんだけど」

 だからそんな馬鹿なこと言ってないで、と繋げるつもりだった。けれどそんなつまらない言葉を聞く前に、葵は一層笑みを深めて、

「でっかい夢で自分を膨らますにゃ、うってつけの時代じゃん」

 次の日、姉は実家を去って東京へと旅立つ。

 式谷家は、結構静かになった。

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