モラトリアム・アクアリウム ③


「晶ー。ちょっと今大丈夫かー?」

「永遠にダメ」

「そこを何とか……」

 しゃあねえな、とシャーペンを置いて花野は立ち上がる。自宅。姉妹同室の子ども部屋。小学生の妹は床に寝そべって今日も今日とて飽きもせずにパズルゲームに夢中になっている。もしくは何も夢中になることが見つからないからとりあえずパズルゲームで空虚を埋めている。全然こっちを見もしない。

 ドアノブを握ると、まだ昼間の余熱があった。

「何?」

「悪いね、忙しいとこ。お使い一つ頼んでいいかな」

 開けると、そこには父が立っている。赤すぎる夕陽に顔が染まって、だいぶ化け物っぽく見える。視線を落とせば、手には印鑑。

「お母さん、今日仕事で使うはずだった印鑑、家に忘れてっちゃったみたいでさ」

「うん」

「でも田橋のとこのお爺ちゃんがちょっと体調崩しちゃったみたいで、お父さん今から車出さなきゃいけないんだよ。代わりに持っていってあげてくれないかな」

 誰だよ田橋のとこのお爺ちゃん、と花野は思っている。が、口に出して訊ねたところでその答えに興味はないので、ん、と頷いてそれを受け取ってやる。

「一応、夜のパトロール前には帰ってくるつもりだから」

「夜ごはんは?」

「食べ……てきちゃおうかな。うん、食べてくる。何か買ってきちゃうよ。もしアレだったら連絡して。全員分買ってきちゃうから」

 ピザ食べたい、と妹が言った。了解、と父は笑う。こいつ一歩も動きもしないで……と花野は思ったが、ピザを食べたいという気持ちは同じだったので見逃してやる。どうせ夏休みに入ったら、自分たちでも簡単に作れるカレーだとか麻婆豆腐だとかばかりで、ピザなんて食べる機会はろくにない。果たしてそんな余裕が今の我が家にあるのかは知らないが、ないならないで父も何か工夫するだろう。食パンとピザソースだけ買ってくるとか。

「お願いして大丈夫?」

「ん」

「悪いね、勉強に集中してるとこ」

 家から出て、本日三度目の自転車への搭乗。

 学校に誰かピザ窯作らないかな、と思いながら花野はペダルを漕いでいく。

 夕陽の真っ赤に炙られるように、蝉が鳴き始めていた。



 キ、とブレーキが鳴ったのは海沿いの小さな工場の傍のことだ。

 物心ついた頃にはもうすっかり使われなくなっていたのに、いまだに魚の匂いが残っている食品加工場。赤錆の目立つ外装を目にするたびにその滅びの日は近いと感じているが、どういう魔法かいつまでも五体満足でそこに立ち続けている。自転車を停める。裏口のアルミの扉に手をかける。

 開かない。

 なぜか今日は、鍵がかかっている。

 振り返ると母の軽トラがある。館長の左ハンドルの青い車も。中にいないわけではないらしい。ドアを叩いて呼ぼうかと思ったけれど、そっちの方が面倒だからやめておく。より面倒でない方を取る。

 もう一度自転車に乗って、表に回った。

 二々ヶ浜水族館の、正面入り口側。

 一体当初の想定ではどれほどの客が来ると見込んでいたのか。今となっては寂しさの他には何も残さないだだっ広い駐車場を横目に、花野はスロープの脇に自転車を停める。坂を上っていく、長い長い自分の影。自動ドアがあるのは旧二々ヶ浜町ではここと図書館と市役所くらいだろう。ゴー、と音を立ててそれは開く。冷たい空気が身体に当たって気持ち良くなる。

 個人が作ったなんちゃって水族館にしては、青っぽくて綺麗なところだ。

 受付には誰の姿もなかったから、壁際を巡るガラスに自分を映しながら花野は歩く。この数年はよく来る場所で、すっかり顔なじみになっているような気もする。名も知らぬ魚どもも心なしかこっちを見つめているように感じる。けれどそんな知能がこいつらにあるのだろうか。半袖の隙間から入ってくる冷気に、少しだけ鳥肌の立つ気配がした。

 こぽぽ、と泡の立つ音がする。広い廊下の真ん中に、筒状の水槽がある。真っ青で、見るたびラムネが飲みたくなる。今年も宇垣はジュースを皆に奢ってくれるだろうか。あれは地味に嬉しいが、そろそろ奴の大学教員時代の貯蓄も底を尽きる頃なのではないか。そのへんにある道具と砂糖水を組み合わせたら上手いこと自作できたりしないだろうか。水槽には解説文がついている。その一番上に種類名の大書き。タツノオトシゴ。

 通り過ぎて、ガチャリ、とスチールの扉を開いて中に入る。

 こっちはそう綺麗な場所ではない。それなりにくたびれて、それなりに廃墟っぽい狭い廊下。食品加工場が動いていたときから使われているバックルーム。左の手前が職員用トイレ。奥が給湯室。

 右が事務室。

 一応、ノックをした。

「……?」

 なのに、何の返事もない。

 いないのだろうか。ぺた、と木製の扉に顔をつけて花野は耳を澄ます。何の声も聞こえてこない。とりあえず、来客対応中に鉢合わせるということはなさそうだ。

 ガチャリ、と勝手に開けた。誰の姿もない。手前には応接用のソファとテーブル。その奥には事務用の机が三つに、古びたパソコンとテレビ。壁を埋めるスチールラック。『平成三十年~』と書かれた経理資料のバインダーと、日焼けして背表紙がほとんど読めない大判、文庫、雑誌、入り乱れた本棚。

 机の上に、飲みかけのコーヒーカップが残されている。

「お母さーん?」

 呼び掛けたら、そのコーヒーカップが宙に浮いた。どかっ、と机の下からすごい音も響いてくる。

 だいたい想像が付いた。回り込む。机の裏側、あるいは正面。椅子の陰。

 中年の女が、自分の頭を両手で押さえてうずくまっている。

「……大丈夫? 何やってんの」

「頭打っちゃった……」

 痛みに悶えていたらしい。そろそろと中年――花野母は、初めて洞窟から顔を出した地底人のような慎重さで机の下から這い出てくる。頭を擦りながら顔を上げると、目尻には涙が浮かんでいる。

「びっくりさせないで。もう」

 こっちの台詞だよ、と花野は呆れ顔で思う。何やってんだこの人はいい年して、とも思う。が、口に出しても特に何の効果もないだろう。わかっているので、さっさと用事を済ますことにする。

「ん」

「……? 何?」

「印鑑。仕事で使うのに忘れてったんでしょ。お父さんに言われて持ってきた」

 ああ、と母は頷く。受け取る。そして言う。

「今日じゃなくてもよかったのに」

 なんなんだよ、と花野は思った。

 それが顔に出たのか、それとも母は自分で失言に気付いたのか、「ああ、ううん。ありがとう」と両手を振って、

「お父さんがこっちの方に来るならついでにって思ってたんだけど。晶が来てくれると思わなかったから。お父さん、何か用事?」

「何とかの爺さんを病院に連れてくって言ってた」

「どの?」

 知らん、と花野は答えた。この町には爺さんが多すぎる。

「多分行く前にお父さん連絡してるよ。見てみたら」

 ほんと、と母は頭を押さえていた手を下ろす。カバンを漁る。ない、と言う。ないわけないだろと思いながら花野はそれを見ている。別に見ている必要もないなと気付いたから、あったあった、と母が顔を上げたのと同じタイミングで言う。

「じゃ、それだけ」

「あ、ちょっと」

 それを母が呼び止めた。

 なに、と振り向く。ああほんとだメール来てた、外で買ってきてくれるんだ、と母は端末を見ている。先に質問に答えてくれよと花野は思うけれど、もう親子になってから十四年と中々の年季が入っている。少し待つ。母が言う。

「もう少しで仕事終わるから、ちょっと待ってて。送ってくから」

「いいよ別に。自転車で来たし」

「最近物騒だから。自転車は軽トラに載せればいいし」

 物騒、というフレーズで思い出す。式谷が言っていたこと。宗教の人たちこの辺まで来てるよ。注射器そのへんに転がってるよ。行きは一人で来たことを考えれば今更、と思わなくもないのだけれど、

「ん」

 押し問答する方が面倒くさい。

 素直に頷けば、母は満足げに笑った。さっさとやっちゃうからね、と机に向かう。別に急がなくてもいいよ、と花野は事務室を後にする。ずっと近くで待たれているのも嫌だろうという気遣い。水族館の展示ルートに戻る。さっきの筒状の水槽の近くに、おそらくこれまでに十人くらいは座ったことがあるんじゃないだろうか、背もたれのないキューブ状のソファがあるから、それに腰掛ける。

 やることがないから、端末を取り出した。

 指は勝手に動く。いつもの動きを覚えている。動画アプリをタップして、検索窓をタップして、チャンネル名をわざわざ打ち込み始める。

『電気芝居』

 絽奈の運営しているチャンネル。

 全ての動画が視聴済みになっている。新しく見るべきものはない。絵が一番好きなやつでも観るか、とスクロールする。本人が言うところの、楽曲にしては音楽性がない、漫画やアニメにしては動きがない、小説にしてはBGMと挿絵に頼りすぎ、強いて言うなら電気を使った紙芝居。電気芝居。

 何十万再生の文字が並んでいるのを見ると、今のところ同級生で一番人生が安定しているのはあの子だなという思いが湧いてくる。一番好きなのはまだ四万再生しかされておらず、大衆には見る目がない。タイトルは『真昼のお願い』。タップすると、注意書きから話は始まる。


 このお話は全部デタラメです。

 現実とフィクションの区別をつけてからご視聴ください。


 それを見るたび、花野は思う。

 これは私のせいなのか?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る