モラトリアム・アクアリウム ②


「あれ、ごめん。そっち先に終わったんだ」

 面倒なことを押し付けられているもう一人が、駐輪場にやってくる。

 前籠のスクールバッグに端末を滑り込ませて、まあ、と花野は頷いた。自転車から下りる。ストッパーを外す。自転車を引いて、もう一度乗る。

 似たようなことを、式谷もしている。

「この集会やると、もう夏だな~って感じしてくるよね」

「げんなりする」

 あはは、と式谷は笑った。でも今年でラストだと思えば寂しいじゃん。全然、と駐輪場の屋根下から日向に顔を出す。

 もう十八時が近かった。いつもなら裏門の方から出るけれど、この時間帯には閉まっている。正門の方へ回って、植え込みに沿って道を行く。萎れ切ってセピア色になった紫陽花。民家の前に掲げられた『定期テストに強い!密着型学習塾まなび』の、台風の後ぶっ壊れたまま放置されている看板。五年くらいまで存在していたはずのコンビニが撤退してできた更地。ただでさえ広く取られていた駐車場まで含めて今は完全に目的を失った空き地になり、昼間の熱をアスファルトに残すだけの自動地球温暖化装置になっている。畑にでもすりゃいいのに、と花野は思う。ジャガイモでも植えたら食費が浮く。

 そのど真ん中を大胆に突っ切りながら、

「また何か言われてたの」

 隣を行く式谷に、いつものように声をかけた。

「言われてた。とうとう進路票、白紙で出してるのが僕だけになったって」

「へー。それで。何か書いてきたの」

「『名前は書いてます! 名前は書いてます!』って連呼して何とか振り切ってきた」

 絶対嘘だ、とわかってはいたけれど、式谷にそれで押し切られる宇垣を想像したら笑ってしまった。

「もう観念して書いたらいいじゃん。進学か就職か、どっちか」

「花野さんは進学だよね」

「一応高校までは行くつもり。親もそうして欲しいみたいだし」

「大学は?」

 大学は、と口にすれば思わず真面目な顔になる。だらりとハンドルに預けていた身体を起こせば、あ、と察したように式谷が、

「お金?」

「……まあ、それもある」

「も?」

「今バカバカ潰れてるじゃん、大学。学費も国立のくせして馬鹿みたいに上がってるし」

「へー。あ、潰れてるのは知ってる。絽奈が『三つくらいしか残らないんじゃない?』みたいなこと言ってた」

 うわ、と花野は引き攣った表情を浮かべた。絽奈がそう言うなら、本当に三つくらいしか残らないかもしれない。

 何年か前に「大半の国民に大学教育なんて必要ない」「人々が政治や科学のような難しい物事を深く考える必要のない、そういう幸せな国づくりを目指していきたい」と言い放った文部科学大臣がいて、特に辞任も撤回もなく、そのまま信じられないほど順調に公約に掲げなかった政策を実行し続けている。大学の半分を職業訓練校に置き換えるプロジェクトは今のところ、大学の半分以上を食いつぶす勢いで進みつつ、職業訓練校の新設は一つも進んでいない。汚職で揉めているらしい。スクラップ&スクラップ。この調子だと三年後には義務教育も四年くらいに縮められ、我らが二々ヶ浜中学校も自動地球温暖化装置か老人ホームのどちらかに変貌を遂げていることだろう。

「まあだから、そのへんがネック。奨学金取れたら全然行けると思うけど」

「取れるでしょ。県トップだし」

「どうだろ。東京の奴らが受けてるような模試って、そもそもこのへんだと受けらんないし。あいつら小学生とか保育園の頃から塾行きまくって勉強してるし。それにそもそも、三年後までちゃんと学力入学の枠が残ってるかどうかもわかんない……」

 らしい、と付け足したのは、前に宇垣から聞いた話の受け売りだったからだ。三十代中盤。元は大学で理系の講師をやっていたのが大学スクラップで職を失ってのなれの果て。それがあの男だと花野は風の噂で知っている。かつての肌感覚をたまに話してくれるが、本人も認めているとおりそれが必ずしも最新の状況と合致しているかは定かではない。

 大変だねー、と式谷は言った。

 全く大変そうには聞こえなかった。こいつは、と花野はいつも思う。あらゆる物事に対して本当は何の関心もないのではないか。優しい、怒らない、いつも機嫌良さげで感じが良い。自分とは全く違う理由で毎年寮長に選ばれているのがこいつだが、実際のところこういう奴が一番怖かったりするし、裏で未成年飲酒をしながら海とか見て泣いていたりする。そういう偏見が花野の中には根強くある。たとえ相手が小学校からの同級生で、昔はみなとくんあきらちゃんと呼び合う仲だったとしても。

「私の心配じゃなく、自分の心配しろ。結局どうすんの、式谷は」

「なーんも考えてない。未来のことはわかんない」

 こういうことを、平気な顔で言うし。

「別に勉強したいこともないし、働きたくもないし」

「そんなん私だってそうだけど」

「隕石とか落ちてきて、明日世界が終わってくんないかなあ」

 ぎょっとして花野は隣の式谷を見た。

 お、と式谷は、自分で自分の言葉に驚いたような顔をして、

「……という。今が幸せの絶頂みたいな感覚があり、みたいな」

「いや、全然誤魔化せてない」

 こういうことも、平気で言うし。

「怖。大丈夫? 情緒不安定?」

「前から思ってたんだけど、花野さん僕のことそういうキャラにしようとしてない?」

「だってそういう感じじゃん」

「どういう?」

「みんなの前ではへらへらしてるけど、家に帰って一人になった瞬間に真顔になってボロボロ泣いてるキャラ」

「守ってあげたくなるじゃん、その式谷くん。可哀想」

 ないない、と式谷は笑っている。

 絶対ある、と花野は思っている。もう見てきたかのように目に浮かぶ。何なら本当にどこかで見たことがあるかもしれない。

 話しているうちに、林の向こうに小学校の頭が見えた。遠からずあれもまた廃校となることだろう。何せ全校生徒が今は四十人くらいらしいし。そういえば、と式谷が言う。このあいだ海に行ったら宗教の人たちがいて、しかも注射器が転がってたから気を付けた方がいいよ。気を付けろってどうすりゃいいんだよ、と思いながら、へー、と花野はそれを聞いている。

 小学校の前の交差点で、花野は真っ直ぐ進む。一方で式谷は左に曲がる。けれど誰と一緒に帰っていてもここですんなり別れることはあんまりなくて、木陰で日の光がじわじわ夕陽の温度に変わっていくのを背中に感じながら、取り留めのない話を五分くらいする。十分もしているといよいよ別れ時がわからなくなってきてしまうから、どちらからともなく終わりの気配を醸し出す。

「いざとなったらさ、」

 今日の五分は、大体そのまま話題を引き継いで進路の話をしていたから。

 その終わり際に花野がかけた言葉も、やはりそれに関することだった。

「マネージャーにでもなればいいじゃん。絽奈、もう公務員の新卒より稼いでるんでしょ」

 軽い冗談で、話のオチのつもり。

 式谷と絽奈の関係は大体わかっているから、そういうのを前提にして。

 そのつもりだったのに、あはは、と笑った式谷は、

「ないない。絽奈にだって選ぶ権利あるでしょ」

 カジノで一儲けでもしようかな、国の推奨する生き方に沿って。そんな話のオチをさらに付け足して、じゃあまた明日、と綺麗な笑みを浮かべて、颯爽と坂の下へと消えていく。

 遅れてゆっくり、花野は動き出す。

 ぼんやり考え事をしながらペダルを漕いで、家路を辿る。

 あいつはあいつで、色々あるんだろうな。

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