モラトリアム・アクアリウム ①


 晶、今年もなんだ。

 夏合宿前のプリントを確かめた母が溢した言葉に、花野は答えた。今年もだよ。ついでに深く長い、およそ十四歳の中学生が出してよいものではない溜息も吐いた。けれどそんなのお構いなし。娘のやることなすことその態度、あらゆるものにはこの十四年でたっぷり慣れましたとでも言いたげに、母は鷹揚に笑って続けた。

 よっぽど人気あるんだねえ。

 今度は溜息を吐く間もない。あらかじめ予想できていた感想だった。だから花野は全く想定の通りに、間髪入れず、何なら吐き捨てるようなハードボイルドっぷりでこう返した。


 なわけない。



「それじゃあ大体揃ったんで説明を始めます。三年の学年委員で、今年の夏季休暇臨時学校寮で女子階の寮長を務めることになりました花野晶です。私は面倒なことが嫌いなのでこれから皆さんは決して自我を出さず大人しく全ての規則に従って夏合宿を一切の問題を起こすことなく機械のように過ごしてください」

「花野さん、飛ばしすぎ、飛ばしすぎ」

 わはは、と体育座りの生徒たちから笑いが上がる。こいつらは自分が本気で言っているとはまさか思っていないのだろうな、と隣の式谷湊に宥められながら花野は思う。

 梅雨明けて、七月の多目的室でのことだった。

 どの教室にも揃いで置いてある壁掛けのソーラー時計は五時前を指している。もちろん朝の五時じゃなくて、十七時。冬場だったらもうそろそろ生徒たちは駐輪場から追い立てられる時間。けれど夏の日暮れは信じがたいほどの遅さで西の空へと進むから、まだ全然、昼間と区別が付かない。窓際の手すりのステンレスは多分信じられない温度になっているだろう輝きで、やけに濃い緑色の黒板を照らしている。

 二々ヶ浜市立二々ヶ浜中学校は、昭和と平成の境目くらいの時代に建てられた鉄筋の三階校舎で、当時の名残で結構な数の教室がある。

 けれど今は使われているのは一学年一つずつ、計三つ。二々ヶ浜西中が廃止されてこの東中に統合され、東と西の名が消されたにもかかわらず、全校生徒数は百とちょっとがせいぜい。遠からず廃校になることは西中の末路から見ても明らかで、生徒たちは日々ゾンビ映画の終盤みたいな学校生活を送っている。

 二階、一年生の教室である西棟と二年生の教室である東棟とを繋ぐ特別棟の半ばに、この多目的室はある。カーペット敷きの部屋。エアコンは点けているけれど、レースのカーテンも引かれていないおかげでグラウンドからの放射熱がそのまま床を温めている。ダニにとっては天国か地獄か。何にせよ、ここを本格的に使う前に相当念入りに掃除しておかないと気持ち悪くて仕方がないと花野は思う。

 黒板の前には、二人で立っていた。

 話しているのが花野。チョークを持って黒板に丁寧な字で『夏季合宿』『日程』『七月二十四日~』と書き込んでいるのが式谷。残念ながら日光が反射して、その丁寧な字は体育座りのその他大勢からはほとんど見えていない。

「一応今日は説明会ということで時間を取ったんですが……去年もやったし、三年と二年は大体わかるか」

「覚えてませーん」

「んじゃお前は今日から一年な。敬語使え、鈴木。私と廊下ですれ違うときは見えなくなるまで頭下げろよ」

「花野さん、怖い怖い。一年生はそれ、冗談だってわかんないから」

 式谷が宥めすかしてくるのをじろり、と花野は横目で見る。相変わらずいつも機嫌良さそうにニコニコしている。そういえば、と思い出す。

「式谷、自己紹介してない」

「あ、」

 言われて気付いた、と式谷はわざわざ転校生みたいに自分の名前を黒板に書き出して、

「三年のもう一人の学年委員で、式谷湊です。男子階の寮長は僕だから、困ったことがあれば何でも相談してね。特に一年生は家を離れて一ヶ月ちょっと外で暮らす……とかは初めての体験になる子が多いと思うから、ちょっとした不安でも何気ないことでも何でも」

 優しそう、と一年の女子がひそひそ話すのを花野は見た。よし、と心の中だけで頷く。これで大抵の相談事は式谷の方に向かい、自分の負担は大きく減ることだろう。一見軽薄そうな奴だが、意外にも式谷は自分の手元でほとんどの問題を処理してくれる。去年、洗濯に一時帰宅してから戻ってきたら「女子階の方のエアコンが水漏れしてたから中開けて適当に直しちゃった」と報告されたときは、もしかするとこいつはかなりすごい奴なのではないかと思った。

「それから今年は、引率に二人先生がついてくれます」

 花野晶、とこっちの分まで丁寧な字で書きながら式谷は続けて、廊下側に座る二人の大人に目を向けた。

「まずは毎年お馴染み、宇垣先生。一年生も数学でお世話になってるかな」

「一年は理科だな」

「あ、そですか」

 男の方が立ち上がる。ぐるり、と体育座りの生徒どもを見回して、厳めしい面付きで、

「男子階の方の監督は私がすることになる。あくまで夏季合宿は電気代とエネルギー節約を主眼とした共同生活だからな。規則正しく、節度を保った生活を心がけるように」

「と言いつつたまに自腹でアイスを買ってきてくれたりします。いかにもスパルタ教師って感じなのに意外と優しいでしょ~。一年生は安心してね」

「式谷、余計なことは言うな」

 余計なことは言ってません、と式谷はしれっと躱す。こいつのこういう誰彼構わずおちょくったような話し方をしておいて大して憎まれもしないのは一種の才能だろう、と花野は思う。小学生の頃からずっとこんな感じだ。

「で、今年はもう一人。佐々山先生です」

 がちゃっ、とパイプ椅子を揺らしながら不必要に慌てた様子でもう一人、女の方が立ち上がった。取引先に頭を下げるみたいな深い礼。ふふ、と笑い声が聞こえたから、多分どの学年でも似たような扱いをされているのだろうなと花野には察するところがあった。

「さ、佐々山です。夏合宿は初めてなので、色々と不手際もあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします……」

「さささ山先生、それじゃ先生が新入生みたいですよ」

「あ。そ、そうだね」

 ドンと任せておきなさい。佐々山は自分の胸を叩いて、けほっ、と咳をする。遠慮のない笑い声が上がる。わざとやっているなら大したものだと思うが、花野は何となくわかっている。式谷のとは違って、佐々山のは素だ。

「先生たちはいつもいるわけじゃないんですが、買い出しで車を出してくれたり、何かあったときのトラブル対応をしてくれます。いないときはとりあえず僕ら寮長に相談してください。後は昼の空いた時間に希望者向けの夏季講習もしてくれるんだけど……と。ごめん。順番めっちゃ飛ばして喋っちゃった」

「そのまま全部喋ってくれてもいいけど」

 ご冗談を、と式谷が手を振って進行役を戻してくる。冗談で言ったわけではなかったけれど、まあいい、と花野は気を取り直す。面倒な掴みのところは式谷がやってくれた。後はプリントに書いてあることをそのまま読み上げて、こいつらを眠りの淵に叩き落としてやるとしよう。

「じゃあ、ここからは一応プリントに沿って説明していきます。わかんなくなったらとりあえずそれ見といて、休みの子とかがいたら適当に職員室の横のとこでコピーして渡しといて。――夏季合宿の期間は四十日。夜間は三階に女子、二階に男子を集めて、日中はこの多目的室を含めて三部屋にクーラーを点けて夏を生き延びる予定です。食事は調理室を使って一日三食自分たちで作る予定なんですけど、そのうちシフト表を作るので予定を確認しておいてください。あと、」

 もしそれが無理になったら早い段階で相談を、と続けながら花野は、プリントに頭を下げている一年生と、全然聞く気がないまま天井の穴の数を数えたり、隣に座る友達とくだらない手遊びをしている二年三年をぼんやり眺める。

 年々、人は減っている。

 全校生徒百人とちょっとのはずの二々ヶ浜中学では、現に登校している生徒は、その半分くらいしかいない。

「次のページ。食費と光熱費の各自負担分なんですけど、まあこんなの払えんだったら学校来ねーわという人も結構いるだろうということで、払えない分の補填に関して書いてあります。役所は去年通りだったら今年も多分許可出さないんでアレですけど、不思議なことに二々ヶ浜には私たちがお手伝いをするとそれとは一切無関係にお小遣いをあげたくなってしまう地域の心優しい皆さんが――」



「花野さーん」

 やべこれ言い忘れた、と思いながらプリントを眺めていた。集会が終わった後の多目的室。残っているのは端っこの方に、相田を含めたいつもの三人と、折角綺麗に整えた黒板を自分で何の躊躇いもなく消している式谷。すでに数学の宇垣の姿はここになく、今こうして花野を呼んだ美術の佐々山の姿もさっきまではなかった。戻ってきたらしい。

「お疲れ様。大変だね、寮長って」

 ども、と花野は小さく頷く。手に持っていたプリントを机の上に置こうとして、やっぱり手持無沙汰になりそうだからそのまま持っておく。

「まあでも、私たちは自分たちのことやるだけなんで。先生こそ大変ですね。夏休みもガキの世話って」

 言うと、佐々山はきょろきょろと視線を巡らした。相田たちが去年流行った芸人の、全く原型のない物真似をしながら多目的室を出ていく。

 それでも声を潜めて、

「非正規雇用だから、こういうのに出ないと夏休みのあいだ無収入になっちゃって……」

 餓死しちゃうよ、と哀れっぽい声を出した佐々山に、花野はやや驚く。

「マジすか。宇垣先生は一切手当が出ないタダ働きって聞きましたけど、逆に?」

「逆に。私の場合一コマ――時間割のアレね。授業一回あたりでいくらって契約になってるから。授業ないとほんとに完全無職……って。宇垣先生は逆に手当出ないんだ」

 私も美術部の顧問は手当出てないけど、と佐々山は言う。全然自分が悪いわけではないのだけど、花野の心には何やら罪悪感のようなものが湧いてきている。

「いや、私も聞いただけなんで本当のところはよく……式谷、知ってる?」

「え? 何?」

「夏休みに宇垣先生が手当貰ってるかどうかって話」

「貰ってないと思うけど。なんで?」

「佐々山先生は貰えるんだって」

 パンパン、と手を叩いてチョークの粉を払って、式谷は、

「宇垣先生がポケットマネーで出すみたいな話なんじゃないの。去年、『どうしても女子のフォローが難しい』みたいなこと言ってたし」

 佐々山の口があんぐり開いた。

「うそ」

「いや知らないです。適当言いました。でも宇垣先生が出ないのに佐々山先生だけ出るってなんか変じゃない? 法律の話?」

 振られた花野は、知らん、と首を振って、

「そもそも法律ってそんなに守られてないでしょ。労基とか。他の先生とかも人減らされてサビ残ヤバいらしいじゃん。朝倉先生とかも今年は夏合宿出るって張り切ってたのにこの間ぶっ倒れたんでしょ?」

「あれ、もう市で残業代出す予算がないとかそういう話らしいよ」

「カジノ建てる金はあんのに?」

「あるところにはあるんだなあ」

 がらり、ともう一度廊下側の扉が開く。

 宇垣だった。こっちを見て、一度手招きする。僕ですか、と言うように式谷が自分を指差す。重々しく宇垣が頷く。

「進路指導」

「うげっ」

 またかよー、と肩を落として式谷が宇垣の方へ向かう。ちょっと振り向く。時間合ったら一緒に帰ろ。花野は、ん、と頷いて返す。

 扉が閉まる。残されたのは二人。

「――この街、ヤバくない?」

 茫然から返ってきて、佐々山は言った。

「なんでこんな街に来ちゃったんですか、佐々山先生」

「美大出ても美術教師で安泰だと思ったら、ここしか受かんなくて……。どこも教育予算の削減で人員減らされてるし……」

 あ、と、

「そうだそれ。花野さん、成績めちゃくちゃ良いんだって?」

「まあ、はい」

「県内トップ?」

「一応」

 お願い、と佐々山は両手を合わせた。

「夏季講習のとき、ちょっとみんなの勉強の面倒見るの手伝ってくれない? 私、美術以外はからっきしだから質問に答えられるか自信なくて……」

「あ、佐々山先生も夏季講習やるんですか」

「え、やらなくていいの?」

 いや知らないですけど、と花野は断ってから、

「いいですよ、全然。ていうか夏季講習って言っても、宇垣先生もそんなにいっつも教壇立ったりはしないんで。自習ベースだし、心配する必要ないとは思いますけど」

 ありがとう、と佐々山は言った。この教師を見るたびに花野は思う。子どもは突然大人になったりしないんだろう。子どものときに不安に思っていたことは、多分大人になっても不安なままで残っているんだろうな、と。

「ちなみに、夏合宿って全体的にどんな感じ? やっぱりちょっとトラブルとかあったりする?」

 そして同時に、こうも思う。

 わからないことを訊ねるときの、相手を子どもとも生徒とも思わないその態度。なかなかこちら側からしてみると好ましいところがある。

「そんなにはないですよ」

 さらり、と答えれば佐々山の顔は明るくなった。

「トラブル起こすようなのって、もう学校に来てないんで」

「……あ、そういう?」

「強いて言うなら一年にそういうのがいないでもないのかなってくらいです。まだ学校来てるのって基本真面目なのが多いから、そんな窓硝子割れるとか喧嘩で骨折るとかは、あんまないです。去年は馬鹿が理科室のバーナーでマシュマロ焼こうとしてプラスチック溶かしたのと……あれかな。詐欺の受け子やらされてた奴が夜中に血だるまで『助けてくれ!』って駆け込んできたやつ。そのくらいです」

 この世の終わりのような顔を佐々山はしている。

 表情が豊かな教師だ、と花野は思う。

「ちなみにそれ、どうなったの」

「薊原――ちょうど先生と入れ替わりくらいで学校来なくなった奴がいたんですけど、そいつが何か裏で口利きして収めたみたいです。あとこれ、鈴木の話です。去年の」

 そうなんだ、と驚いた後、薊原、という苗字に首を傾げるのを見たから、

「三年の薊原一希。親、薊原一郎です」

「市長の?」

 市長の、と頷く。はー、と佐々山は頷く。鈴木くんがねえ、びっくりだ。そっちかよ、と花野は思わないでもないけれど、まあ確かに今の鈴木のあのちゃらけた感じからは想像も付かない話だろう。自分も実際に目に見ていなかったら全然信じられない。

「あと何かあります? あれば」

「いや、とりあえず大丈夫。ごめんね、相談に乗ってもらっちゃって」

 別にいいですけど、と花野は答える。クールだ、と佐々山は笑う。それはちょっと面白くない反応だったので、調子に乗るなよ、と花野は思う。

「でも、花野さんが寮長なら安心だね」

 佐々山は続けた。

「頼りになるもん。満場一致で寮長に決まったっていうの、すごくわかる」

「――は、」

 思い切り性格の悪い笑い方を、花野はした。

 プリントを丸めて、これで話はお終いとばかりに廊下の方にすでに一歩を踏み出して、

「面倒なこと、押し付けられてるだけですよ」

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