ハローハロー ③


 絽奈の部屋は、式谷の部屋の倍くらいの広さがある。畳敷きの和室で、数えたことはないけれど十畳とか十二畳くらいあるんじゃないかと思う。特別この部屋が広いというわけじゃなくて、千賀上家は廊下もやたらでかくて長いし、その間に通りすがる部屋も大体広いし、十二時にはぼーんぼーんと鳴る大きな古時計があったりする。怪しい村の遺産相続を巡る事件現場にされそうなくらいに広い。

 けれど部屋の中まで古臭くて殺人現場にされそうな雰囲気かというと、そうでもない。

 エアコンはガンガンに効いているし、畳の上にベッドだし、タンスとテーブルは北欧系の家具屋で買ってきたらしい真新しいやつ。使っていない勉強机の上には真新しい参考書と、インテリアとしても知識源としても実用性抜群のお洒落な図鑑がたくさんあって、壁にかけてあるのと目覚ましの時計は、大きな古時計なんかじゃ全然ない。キラキラ輝く、色を使いすぎのキャラものだ。

 そして何より、テーブルの上にはピカピカの真っ白なデスクトップパソコンがあり、その横には無造作に最新式のタブレットが置かれ、向かいには電子キーボードと、ゲーム機を繋ぎっぱなしの液晶テレビが置いてある。

 それらに関しては全部、絽奈が自分で買ったものだ。

「スポーツドリンク、どこにあるのかわかんなかった」

 だから、と言わんばかりに絽奈は両手に麦茶の入ったコップを二つ持って部屋に戻ってきた。コン、コン、と順番にテーブルの上に置く。これだけ綺麗な部屋なのに絽奈はこの世にコースターというものが存在しないかのように振る舞っている。部屋の隅に置いてある腹筋ローラーと除菌シートのパッケージには、自分の指紋以外には何もついていないのではないかと思う。

 ありがと、と式谷はそれを受け取った。

 一口飲めば体中が透き通った気がして、ついでに言葉も真っ直ぐになる。

「もういいんじゃない? 諦めて一緒に住んじゃえば?」

「…………簡単に言うけどね」

 ベッドに腰かけた絽奈の一言目は「はあ!?」じゃなかった。

 ということはもう大体決まりなんだろうな、と式谷は察している。

「知らない生き物の世話なんて、何も責任取れないんだよ」

「でも毎日海から家に来るんだったら、そっちの方が危なくない? 結構距離あるよ」

「……食べ物とか、何もわかんないし」

「わかめ食べてたよ」

「食べたの!?」

 割と何でも食べた、と式谷は昨日の冷蔵庫前のアザラシとのやり取りのことを思い出している。そして割と何でも食べる割に、一回に食べる量は全然少ない。外に連れ出したらそのへんの葉っぱも食べた。人が飲むのと同じような水を飲んでも平気そうにしていた。

 それに、と、

「お腹が減ったら自分で家に帰るんじゃない? なんかめっちゃ頭良さそうだよ、この子」

 僕より良いかも、とアザラシの顔の前あたりに式谷は指を出す。ぐにぐに、と向こうから身体を押しつけてきた。網戸が開けられるなら、アライグマやネコ並の賢さは備えていそうな気がする。

「……自分で?」

「自分で」

 揺れているというより、背中を押してほしそうな気配。

 だから式谷は、ちょっとした祈りとか願いとか、そういうのを込めて口にする。

「いいじゃん。それなら夏休み、寂しくないでしょ」

 意表をつかれたような顔を、絽奈はした。

 けれどそれからは、慌てた様子でも、恥じる風でもない。自分自身の中身にじっくり視線を向けたような時間があって、探偵みたいに顎に手を当てて、

「……それは別に、元々寂しいとかはないけど」

「えー」

「でも飼うんなら、もっと色々調べなきゃ。無責任は絶対ダメ」

 どいて、と絽奈が肩に手をかけてくる。式谷は暫定住所の定まったアストロアザラシと一緒にコテン、と横に倒れる。足で畳の上を追いやられる。起き上がる。

 絽奈がパソコンのスリープモードを解除する。

 パッと表示された画面には、黒背景に白抜きで、こんな文字がでかでかと表示されている。


 このお話は、全部デタラメです。

 現実とフィクションの区別をつけてからご視聴ください。


 絽奈の作る動画の一番最初に、必ずついている注意書き。

「ねえこれそろそろ変えない? 威圧感あるしやめた方がいいって。怖くてみんな別の動画に行っちゃうよ」

「これでいいの。勘違いされた方が困るし」

 勘違いする人いないって。いるの。そう言いながら絽奈はその画面を最小化して、次は検索画面を立ち上げる。

 キーボードの前で、猫の手になって動きを止める。

「……この生き物、結局何?」

「あざらし」

 それだけは絶対ない。きっぱり言い切って、絽奈は勝手に自分で答えらしきものを打ち込んでいく。『ウミウシ』『ウミウシ 日本』『ウミウシ 種類』『カエル 黒』『カエル 黒 海』『サンショウウオ』『オオサンショウウオ 丸い』『海 生き物 丸い』『海 生き物 丸い 黒い 可愛い』『深海魚 可愛い』『深海 魚以外』

 マウスのホイールがぐるぐる回る。よくそんな速度でパッとページが見られるよなあと感心しながら式谷はそれを見ている。アザラシがちょっと動く。海の仲間に反応したんだろうか。その身体をちょっと撫でる。冷たくて気持ち良い。絽奈はとうとう検索ワードの手札を失って、自棄っぱちみたいな文字を打ち込む。

 海、謎、生き物。

「あ」

「えっ」

 それで見つかるんだ、とびっくりして式谷は身体を起こす。アザラシを胸に抱きながら畳の上に膝を立てて、絽奈の後ろからしっかり画面を覗き込む。

 けれど、全然それらしい画像は映っていない。

 代わりに、新興宗教、という言葉が映っている。

「ごめん、全然関係ないやつなんだけど」

 気になっちゃって、と絽奈がクリックして、タイトルの全文が表示される。独占取材。癒着と汚職まみれの危険なIR街に潜む新興宗教の実態。左上には週刊誌のロゴ。本文には毎度お馴染みの地元密着型カルト宗教の名前。

 救世主が海から来ると言い張っていると、そういうことが書いてある。

「だからあの日、海に来てたのかな」

「っぽいね。へー。怖……」

 ね、と絽奈が頷く。ぐるぐるとまたものすごい速度でページをスクロールする。まあ週刊誌で情報を集めようなんていうのもどうかと思うんだけどかと言って大手メディアってこういうことちゃんと取材してくれないしとかぶつぶつ呟いている。気を遣ってくれていないときの絽奈と同じ速度で文字を追うことはできないので、式谷は、

「それ、なんでそのページ引っかかったの?」

 気になったことを、直接訊くことにする。

 ぴた、と一瞬だけ絽奈の手が止まる。なんでだろ、と小さく呟いてサイトの下部へ。数字のボタンを押して別のページへ。

 ここだ、と彼女が言う。

「『御神体として崇められているのは、得体の知れない謎の生き物だった。海からお越しくださったんです。そう信者は言う。IRからの利権を吸い上げるためだけに創設されたと思しきカルト団体。銃、薬、マネーロンダリング。そして政治。果たして彼らが後生大事に抱えているのは猿のミイラか、それともそれよりも遥かに悪質な何かだろうか』……」

「猿のミイラって何?」

「猿のミイラと魚のミイラを繋いで人魚って言ってたやつでしょ」

 へー、と式谷は頷く。見せてあげよっか、と検索窓を絽奈が叩き出す。確かにもうこのページに用はない。

 それでも、一箇所だけ。

「なんか写真あるけど」

「ん」

 ほんとだ、と絽奈がマウスを動かす。言われたから一応、という雑な手つきでそれをクリックする。画像が大写しになる。講堂のような場所で人が並んでいる写真。入学式とか卒業式の光景に似ている。壇上に誰かが立っている。何の気なしのようにマウスホイールが回ってズームアップされる。

 二人して押し黙った。

 もうちょっとだけ、その部分が拡大された。

 絽奈は動かない。だから代わりに式谷が動くことになる。画面に寄る。すごく、と思う。すごく言い逃れの余地がある。画像が粗いから。これだけでは判断できないような気がする。たぶんできないと思う。誰に問い詰められてもそれでやり過ごせるんじゃないかと思う。

 たとえ自分で信じていなくても。

「……これ」

 絽奈が口を開く。式谷はそれを抱え上げる。自分の手を下敷きにするようにして机の上に持っていく。画像と隣り合わせにする。二人の目が同時に動く。

 目の前にいる宇宙アザラシと。

 週刊誌に掲載されている、怪しい新興宗教の御神体。

 見比べて式谷は、ふと思い出した。

 あれは、小学四年生のときだった。

 忙しい式谷家の両親に代わって、千賀上家の両親が近くの神社のお祭りに連れて行ってくれた。その頃はこのあたりもまだ少し平和で、子ども二人でふらふら境内を歩いていてもそこまで気にされなかった。絽奈は金魚すくいになけなしの三百円を投入して、一匹も取れずにぺそぺそと泣きべそをかいていた。

 取って、とTシャツの袖を引かれた。

 世話できないよ、と言ったのは式谷だった。

 できる、と彼女が言うからそれを信じた。一発で取れてそのときは得意になっていたけれど、今にして思えば泣きべその小学生を見た屋台のおじさんが、よく取れるタモを渡してくれただけなんじゃないかという気がする。

 まだ涙の跡がちょっと残る絽奈は、金魚と綺麗な水の入った袋を手にして笑った。絽奈が笑うから式谷も笑った。それを見たおじさんがからかうように――もしくは単に微笑ましくて口を滑らせてしまったように――こう言った。良い彼氏だねえ。絽奈は何を言われたかわからないという顔をする。言われたことを理解する。顔を真っ赤にして、折角長い時間をかけて納得のいく形になった髪型が崩れてしまうくらいの勢いで、首をぶんぶん横に振る。

 それから絽奈が口にした言葉と、今から式谷が口にする言葉は全く同じ。

 ただちょっと言い方が違って、言う相手が違うだけで。

「――友達?」

 あのときおじさんは愉快そうに笑ったけれど。

 こっちのアザラシは、きゅう、と鳴く。


 窓の外には、すっかり夏が来ていた。

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