ハローハロー ②
『与党はこれらの批判に対し「事態を十分注視して、国民の期待に応えていきたい」との姿勢を示しています。一方で先日から週刊誌で取り沙汰されている福尾幹事長と野党「豊かな日本をつくる会」の政治資金を巡る疑惑については「きわめて個人的なことであり、党としてはコメントを差し控える」と――』
『だからさあ、結局全部その、言い方は悪いですけど僻みみたいなもんですよね。結局こういう人たちって、儲かってる人たちが羨ましいだけでしょ? だってじゃあ、どうするんですか? 今更あんなにお金出して作ったIRを更地にするんですか? そこで働いてる人たちの職を奪ってまで? それこそ……はは。ちょっと馬鹿げてると思いません? 政治っていうのはね、清濁併せ呑んでやってるわけですから。こういう抗議活動する人たちって綺麗事ばっかりで現実のことをよく――』
『というわけで今年の夏はまたも例年にない暑さになるんですが……ここで中継が繋がっております。井上さーん?』『はーい。こちら横浜市からお送りしております』『すごい行列ですねえ』『……ええ、そうなんです。ご覧のとおり大行列で……というのもこちら。今月からオープンした、なんと純氷仕立て! 高級かき氷店に――』
『こうした国際紛争の流れは日本にどう影響を及ぼしていくのか。そして日本はこうした状況の中でどういったリーダーシップを発揮していくのか。二児の父でありながらIT企業の取締役も務め、各界のコメンテーターとして活躍中のタレントの若宮忍さんに解説いただきながら、一緒に考えていきたいと思います。よろしくお願いします』『よろしくお願いします。そうですねー。この問題、僕も海外の友人から色々と連絡をもらってまして――』
『わあ、羽毛なのに薄くて信じられないくらい涼し――』
ええいろくな番組がやっとらん、と父がリモコンをぽちぽち押し続けるのを眺めながら、「落ち着かない人だなあ」と式谷はわかめスープを飲んでいる。それ以外にテーブルに並んでいるのはカレーと水道水。居間の開け放された窓からは、無駄に熱持った日差しと湿気った風が入り込んできている。カビが生える前にさっさと残りのカレーの鍋は冷蔵庫に入れておかなくちゃ。
時刻は十一時半。
この時間帯に親子が二人で昼食を摂っているのは、何も父――式谷正治がこの数年定期的に無職になっているからというだけではない。今日は土曜日。だから息子の式谷湊も、教室で同級生と机をくっつけてきゃいきゃい給食にはしゃぐのでなく、小さなローテーブル越しに五十手前の父と顔を突き合わせて、スプーンを動かしている。
ずっとぽちぽち押し続けていたから、番組の切り替わりの時間になったらしい。ローカルバスで山へ行く番組にチャンネルは定まり、ようやく父はリモコンからスプーンに手を切り替える。中学生から見てもおいおいと思うような一匙を豪快に口に運ぶと、二回も噛まないうちに「んまい」と言う。
「お前、カレー作るの上手いなあ。俺より上手いかもしれん」
「箱の裏に書いてあるやつそのままだけど」
「手際が良いんだろうな。大したもんだ」
親ばか、と式谷が笑えば、父も似たような感じで笑って返す。この山には昔旅館があったんですよ。えっ、山の上にですか。そういえば今日も母さん夜勤だって言ってたけど聞いた? そうなんです。このあたりは平成七年までロープウェイが通っていまして。聞いた、随分続いてるから心配だな。大変だね、看護師って。苦労をかけて……あ、そうだお前、
「そろそろ夏休みだろ。大丈夫か。持っていくものとか。足りなかったら言えよ」
「ん。たぶん大丈夫だと思うけど。去年のやつそのまま残ってると思うし」
「今年も風呂と洗濯だけ戻ってくる感じか」
「うん。面倒だったらプールのシャワーで済ませちゃうけど。そのときは連絡した方がいい?」
「いや、別に。もう三年目だしな。でも何かあったら連絡しろよ。どうせ暇だから」
自警団はいいの、と苦笑いで返そうとして、あ、と式谷は思い出す。
「こないださ」
「ん」
「夜、浜辺のところまで集団で来てたよ。宗教の人たち」
ぴた、と父のカレーを食べる手が止まる。
かちゃ、とスプーンが皿の上に置かれる。
「行ったのか。夜中に、海まで」
「いや。行ってないけど知ってる」
視力二五〇・〇と笑って式谷は自分の左目を指差す。じっ、と父がそれを見つめる。二々ヶ浜警察署で勤務していたころを思わせるような――もっとも式谷は職場見学にも行ったことがないからどんな働きぶりだったのか知らないけれど――鋭い目つき。
三秒。
五秒。
「――ま。俺もとやかく言える筋合いじゃないが」
スプーンがもう一度動き出す。
「ほどほどにしろよ。最近物騒だからな。……『方舟会』の奴ら、こっちまで来てるのか」
「うん。あ、それでさ」
これもまた、言っておいた方がいいだろうと思って式谷は、
「その海岸に注射器転がってた」
「――触ったのか!」
「怖くて逃げちゃった。拾っといた方がよかった?」
そうか、と安心した様子で父が浮かした腰を下ろす。見つけても絶対触るなよ、と念押ししてくる。
「わかった。今度海岸清掃するときに気を付けるように言っとく。……使うなら街の方でやれってんだけどな。注射器が落ちてるってことは、それを捨てる奴が来てるってことだから、お前も出歩くとき気を付けろよ。特に暗くなってからはせめて友達と一緒にいろ」
ん、と頷く。わあ、すごく綺麗な景色ですね。でしょう。でもね、ここだけじゃなくて、ほら、あそこ。石段があるでしょう。頂上にお堂があるんですよ。もう少しだけ上ってみましょう。あんみつ美味しいですねえ。
ぽん、とテーブルの上に置いた端末が鳴った。
手に取るまでもなく通知が画面に表れている。千賀上絽奈。スプーンを持ったまま、左の指でロックを解除する。
写真が一枚に、言葉が一言。
『また来てるんだけど』
「ご飯食べたら、ちょっと出かけてくる」
「おう。皿洗っとくから、そのままでいいぞ」
「晩ごはん何時?」
「俺も夜間パトロールあるし、母さんも夜勤だし……カレー温めるだけだしな。炊飯器に米だけ残しとくから、好きでいいぞ。千賀上さんのとこだろ」
「うん」
「この間ナス貰ったから、もし親御さんと顔合わせたら礼言っといてくれ」
「もう言った。父さんがパトロールの当番代わったお礼にってやつでしょ」
「そうだっけか」
うん、と式谷はカレーを頬張りながら頷く。
「大丈夫?」
初夏の風が、居間に吹き込んでくる。
最近暑くてかなわんなあ、と父は言った。
□
自転車を使えば、式谷の家から絽奈の家までは十分もかからない。
それでもやっぱりスニーカーは暑いよなあ、とじんわり汗をかきながら式谷は農道を行く。すれ違う手押し車のお婆さんに「こんにちはー」と挨拶して、会釈なんだか力尽きる途中なんだかよくわからない返しをされる。家の近くの畑で汗をかいているのが二人いて、お互いを認識すると「湊くーん!」と手を振られるから今度こそ「こんにちはー!」と気持ち良く挨拶する。「うちの、家にいるよー!」「どうもー!」家にいないときがほぼないことは一旦忘れて、気持ち良く感謝の言葉も伝える。
絽奈の家は、旧二々ヶ浜町の中でもそこそこ辺鄙な場所にあって、庭に十台くらいは車を停められるスペースがある。
元は――つまり千賀上家が八年前に越してくる前はここは空き家で、それより前はちょっとした地主が住んでいたらしい。売り払って東京へ。それを東京から来た千賀上家が買い取って入れ替わるように住み着いた。元はリノベして古民家カフェをやりたかったとかリモートワークがどうたらこうたらとかたまに洩れ聞くけれど、あまり詳しいところを式谷は知らない。大体友達の親が何をやっていてどこに勤めているかなんて、制服だったり白衣だったりを着るような仕事でもなければろくに知らないものだ。
生け垣をぐるりと回って、正面から砂利を踏んで敷地内に侵入する。車庫とは別にある物置の庇の下に乗りつける。この物置は鍵なんか付いていなくて何かの板で入り口を塞いでいるだけの信じられないほど原始的かつ人類への信頼に満ち溢れた素晴らしいもので、四年前にここで狸が勝手に借りぐらしを始めて子育てをしていたことがある。今は森に帰ったから空き家。ストッパーを立てる。壮大な庭を小走りで、ホームセンターで買ってきたらしい新しめの庭石を踏みながら歩く。
正面のインターフォンを押そうとして、ちょっと止まる。
それから式谷は、縁側をぐるっと回るようにして、家の裏手に向かった。
元は二世帯住宅だったらしく、もう一つ使われていない玄関がある。それを無視する。ここに年中ひきこもっている絽奈ですら「家の中にまだ知らない場所がある」と言っていたくらいには広い面積。それを取り囲む道のりを、できるだけ日陰を選びながら歩いていく。
勝手口がある。
二人でどこかにひっそり抜け出すときによく使うやつ。この間の夜の海に行くのにも、そこから帰って絽奈を部屋に返すのにも使った出入口。
その傍、夏の日差しがつくる光のプールの中に彼女は屈み込んでいて、
「らんららんらーらんらーらーらーらんららーらーらーらーらー♪」
得体の知れない生き物を相手に満面の笑みを浮かべて、無謀なアルプス一万尺を試みている。
もちろん、その得体の知れない生き物とはあの宇宙で出来たアザラシのこと。
そしてアルプス一万尺を歌っているのは、絽奈だった。
昔やったなあ、と式谷は懐かしく思い出している。相当付き合わされた。学校で流行っていた。みんなできるものなの、なんで知ってるの、どこで習うの、と絽奈は不安そうにしていた。猫ふんじゃったでも似たようなことをした。そして彼女は中学生になってからろくに外に出ていないためにコミュニケーション方法が琥珀の中の化石のように保存され、動物を相手にしてすらいまだにそれを試みているらしい。
新発見だった。
「らーんららんらーらーらーらーらーらーらッ……!?」
新発見の代償として、ばっちり目が合った。
式谷は何も言わなかった。何も素振りを見せなかった。にこーっした表情だけは特に変えなかったけれど、そうすると見る間に絽奈の顔が紅潮した。今にもギリギリと歯ぎしりを始めそうな顔。ふー、と排熱するように息を吐いて、
「……来てたなら、言えばいいんじゃない?」
「可愛いねって?」
「――それはご親切にどうも!」
絽奈がそっぽを向いたので、ようやく式谷は動き出す。すたすたと長足で絽奈の傍に立つ。座る。もっ、とこっちを向いた生き物に「こんにちは」を言う。
「また来ちゃったか」
これで三度目のことだったから、あまり驚きはなかった。
夜の海に行ってから三日目。罠にかかっているところを助けたわけでもなければ、雪除けの笠を被せてあげたわけでもないけれど、この不思議な生き物は律儀に毎日この家の裏口に訪れている。唇を尖らせて絽奈が口にするのは、一日目と同じ疑問。
「なんでうちなの?」
「覚えちゃったんじゃないの。裏から来るし」
「でも湊の方に懐いてるじゃん」
「でもうちじゃなくて絽奈の家に来るじゃん」
「湊の家に持って帰ってよ」
「昨日試しに連れて帰ったんだけど、起きたらいなくなってた」
え、と絽奈が言う。網戸が開いてたから多分そこから、と式谷は虫に食われたふくらはぎを見せる。
最初はもちろん、海に連れて帰ったのだ。
あの海から戻ってきてその日の夜、〇日目。とりあえずついてきちゃったものは仕方がないとまずは千賀上家へ。それから必然的に自転車に乗って式谷家へ。流石にその夜のうちに海に戻る勇気は湧かなかったから、明日の朝に起きたら海まで連れて行こう、と式谷は自転車はそのままに部屋で眠りに就いた。そして次の日の朝、アザラシは千賀上家の裏口にののんと居座っているところを発見された。
ここは君の家ではない。そういうわけで海へと赴く一日目。「私も行く」と絽奈が言ったから、二人でもう一度海に行って、「達者で暮らすんだよ」ともう一度アザラシを波間に戻した。すでにその時点で浜の方に帰ってきそうな雰囲気をアザラシは出しており、何度も何度も絽奈は浜の方を振り返り、けれどとりあえず一旦それで決着という調子になった。
二日目。当然のようにアザラシは千賀上家の裏口にいる。絽奈は「もう疲れた」と言うので、仕方がないから式谷が一人で処理することになる。
薄々勘付いていた。
このコズミックアザラシは海に帰る気なんて毛頭ない。
というわけで試しに自分の家に連れ帰ってみて、それで今朝。
「え。ていうか湊、まだクーラーなしで寝てるの?」
「電気代もったいないし。この子ひんやりしてて気持ち良いよ」
「一緒に寝たの!?」
「朝起きたら暑くてぼーっとしてたけど」
いなくなってたから、と式谷はスペースアザラシの横顔に手を寄せる。もっもっ、とちょっとだけ手の内に返ってくる感触がある。
「人懐っこい」
あはは、と式谷は笑う。夜の海では気付かなかったけれど、夏の昼間に触るとよくわかる。このアザラシの周りだけは、冷房のよく効いた水族館みたいな心地の良い涼しさが漂っている。夏場に傍にいてくれてこんなに嬉しい生き物もなかなかいない。
一方で隣の絽奈は、ものすごい葛藤を内に秘めたり、秘めきれずにいたりしている。
「絽奈も触る?」
「――いい!」
怒ったように立ち上がる。どことも知れない場所に視線を逸らして、爪先だけの足踏みだけを三回する。思い出したようにこっちを見る。
「ぼーっとしてたのって、熱中症じゃない?」
心配そうな表情に変わった。
「大丈夫? ちゃんと水飲んできた?」
「一応。ご飯も食べてきたし」
「汗かいてるから、一旦うちに入りなよ。クーラーかけてるし。外にいたら倒れちゃうよ」
「この子は?」
両手に抱えているのはギャラクシーアザラシ。
持ち上げると、苦渋の決断という感じの顔で絽奈は、
「……一時、入国許可」
だって、と式谷はアザラシに話しかける。
もっ、という調子でアザラシが式谷を見上げる。
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