明日も良い日になりますように。

quiet

ハローハロー ①


 金魚が死んで大泣きしていた絽奈の姿を、今でもよく覚えている。

 小学四年生のときだったか、それとも五年のときだったかはよく覚えていない。だけどその頃には絽奈はもう学校に行かなくなっていたはずだから、少なくとも小学三年よりも後のことなのは確かだと思う。夏の終わりだったはずだ。玄関口の強い日差しの中で、水槽が目に痛いくらいに輝いていた。横に置かれたあの独特な匂いを放つ餌箱は多分もう二度と開けられないんだろうなと思った。絽奈のお父さんとお母さんが死んだ金魚をどこに埋めるかという話をしていた。絽奈はずっと泣いていた。意味の通らない文法で、けれど断片的な言葉を要約すればおそらく「もう生き物なんて飼わない」になるだろう言葉を、しゃくりあげながら何度も何度も口にしていた。

 式谷湊は、千賀上絽奈に縋りつかれながら、その金魚の腹をじっと見つめていた。

 覚えていた。夏祭りで取ってきたやつだ。世話できないよ、と誰かが言った。ちゃんとできる、と絽奈は言った。本当にそのとおりで、少なくとも自分が手伝ったのは精々が学校から使わなくなった古い水槽を貰ってきたことくらい。それからは毎朝毎晩一日二回の餌やりも、定期的な水替えも、絽奈は決して欠かさなかった。それでも金魚はひと夏を越すこともできずにこの世を去った。残ったのは魚の肉と骨だけ。

 怖い、と思ったことを覚えている。

 電池が切れたみたいに、朝まで動き回っていたものが昼にいきなり動かなくなるのが。絽奈と一緒に餌をやったりガラス越しに覗き込んだりしていたあの姿が、水の中をすいすいと泳ぎ回る姿が、今はあんな風に力をなくして、皿の上にいつも載っているのと同じような姿になってしまったことが。お祖父ちゃんやお祖母ちゃんの葬式でもわんわん泣いたけれど、綺麗な服やたくさんの花で飾られて送り出される姿よりも、道端に無造作に捨てられたような金魚の姿の方がずっと、何十倍も怖かった。

 思った。

 自分も死んだら、こうなるんだろうか。



 死ぬ前に二人で夜の海に行こう、という話になった。

 多めに見積もればあと五十年くらいは余裕がありそうだったけれど、十四歳なんて明日生きてるかどうかも怪しい年齢だから、それなら今日行こう、と式谷が決めた。

 そういうわけで、暗い林道を二人で歩いている。二人乗りを諦めた証として、荷台にクッションをぐるぐる巻きにした一台の古い自転車を間に挟んで、ちりちりとタイヤの音を鳴らしながら。

「そういえば絽奈、花粉症どう? 終わった?」

「わかんない。今日も薬飲んできたから」

 六月の終わりのことだった。

 日中気温は三十六度。見事な猛暑日。今年は夏の訪れが早い、とニュースでは言っていたけれど、毎年こんなもんな気が式谷にはしなくもない。学校から帰ってきて、体育のバスケで汗まみれになったジャージを脱いでまっさらなジャージに着替えて、それをまた汗滲みのジャージに変えながら絽奈の家まで自転車で行った。襖を開けると、クーラーの気持ちの良い冷気。デスクトップのパソコンに向かった絽奈は背中を向けたままで「ちょっと待って」と言うから、言われたとおりに正座してちょっと待つ。画面には『動画のアップロード』と文字が見える。小学一年生の頃に買ってもらってそのままらしいキャラものの壁掛け時計は、六時を少し過ぎたくらい。夏だからまだ明るい。「もうちょっと」と絽奈が言う。

 動画のアップロード中。

 百パーセント。

 一段落着いたし、梅雨も明けてそろそろ花粉のシーズンも終わっていそうだし、夏休みも近いしで、何かをしたいねという話になって、こうなった。

「夏って何の花粉があるの? ひまわり?」

「ひま――それ、面白いかも。ひまわりで花粉症の人。今度の話、それにしようかな」

「ラブコメ?」

「……『ひまわりみたいに明るい人だから』みたいな?」

 好きだねラブコメ、と絽奈が笑う。

「再生数伸びやすいからそれでもいいけど。私はなんか、もうちょっと……」

「シリアスなやつ?」

「うん。伸びないけど」

 作りたいものを作るのが一番、と式谷は無責任に言って、荷台に巻いたクッションをぽんと叩いた。その音が、驚くくらいに遠くに響く。

 海までは、ほとんど何もない道だ。

 旧二々ヶ浜町のこの辺りは、ドがつくような田舎だから。

 絽奈の家から自転車に乗って、すぐに二人乗りを諦めたのが農道の入り口のあたり。車が通り抜けできないような畦道を一キロくらい歩いて、ようやく県道に辿り着く。車の通る音なんて耳を澄ましても一つも聞こえてこない。一番近い友達の家まで歩いて十五分はかかる。近くに住んでいるのは多分顔も知らない老人たちなのだと思うけれど、夜の早い彼らの住処は、すれ違うときにも空き家と大して区別が付かない。街灯は誰もいない夜の道に規則正しい幽霊のように佇んでいる。夥しい数の羽虫がそれに照らされている。打ち棄てられた十円菓子の包みや空き缶は土まみれで、ひょっとすると平成どころか昭和くらいからそこに放り投げられたままなんじゃないかと思う。

 飛び出し禁止の黄色い看板すら、ほとんど色をなくしていた。比較的新しいものといえば、その交差点を見下ろす一つ目の巨人みたいな真っ赤な信号機と、『雇用促進』『あざみばらいちろう』と大書きされた四年前の市長選のポスター。振り仰げば見える、黄色と紫のぼやけた光。

 二々ヶ浜IRが放つ、夜の街明かり。

 ちょうど二人の住む旧二々ヶ浜町を海へ追い込むようにして建設された、二々ヶ浜市の一大カジノ街。近隣空港からバスで直結していて、旧町の方から働きに通う人、賭博に通う人を除いたら、本当に知らない人ばかりが集う街。こっちの方の田舎と違って真夜中でも開いている店がたくさんあって、話し声が充満していて、道端が酒臭くて、ネオンライトが眩しくて、ニュースで毎日汚職と発砲事件の舞台にされている。とても自分たちの家の隣にあるとは信じられない場所。その明かりだけが、古臭い木造校舎の横に建てられた観覧車のように真新しくそこに立っている。

 場違いなのは、どちらの方か。

 巨人の目が赤から青に変わった。

 チリリ、とまた自転車のタイヤが回り出す。

「夏休み、」

 ぽつり、絽奈が切り出した。

「今年もまた学校?」

「だねー。今年で中学は最後だから、来年はどうするかわかんないけど。どうしようね。まだ全然電気代上がるっぽいし」

「割と毎日?」

「割と毎日。言ったっけ。今年も学級委員」

「晶ちゃん、『めんどくさ』って言ってたよ」

「いつもじゃん。去年もずっと『夏休みなんだから休ませろ』って言ってたし。大学まで行ったらデモとかストライキとかやり始めるかも」

「やらなそう。『デモするくらいなら休みたい』って言って」

 言いそう、と笑いながら林道を深く潜っていく。

 昔はもう少し馴染み深い場所に見えていた気がするけれど、IRができてからは妙に不気味な雰囲気になった。ヘンゼルとグレーテルが迷い込んだ森はたぶんこんな感じだったんじゃないかと思う。妙に背の高い樹々の枝垂れているのは魔女の手招きみたいで、風に折れたか寿命で朽ちたかした木が道路に寝転がったままなのは、廃村っぽさすら感じさせる。がさがさと林の奥から音がするのは多分タヌキかハクビシンだと思うけれど、最近はイノシシやらクマやらの目撃情報も相次ぐから油断はできない。あと、普通に不審者が子どもを誘拐してそうな道だとも思う。切れ間に見えたトタンの小屋は、誰がどんな目的で作ったのか、誰が管理しているのかさっぱりわからない。バラバラ死体が隠されていても誰も気付かない。

 じゃあ、と。

 その林を抜けて、風が髪に吹き付けたあたりで絽奈が言った。

「しばらく、会わなくなるね」

「いや全然抜けてくるよ。今年、もう一人宿直の先生入ってくれるっぽいし。去年より時間空くかも」

「……あ、そう」

 カーブを曲がる。

 ようやく堤防の向こうに、海が見えた。

 感動するくらいに無感動的な光景だった。海らしいところが三つしかない。一つ、砂浜があること。二つ、堤防から突き出すようにしてちょっとした岩場があること。三つ、水がいっぱいあること。それだけ。海の家もなければ輝く星も月も、それに照らされる満天の水鏡もない。街のネオンライトに夜空はかき消されて、海面は水を入れすぎた知育菓子みたいな安っぽい色をしている。人の賑わいなんてかけらもなくて、浅瀬の海だから音も静かで、大して匂いもしない。

 それでも、夜の海には違いなかった。

 自転車を堤防の上に停める。絽奈と一緒に石段を下りて、砂浜に足跡をつけていく。打ち寄せる微かな波。サンダルを浸せば、足の裏についていた砂粒が洗い流されていく。海水温は冷たかったけれど、このくらいだったら全然気持ち良い。足首まで浸す。サンダルが地面に埋まったり、水をかき分けて踵を叩いたりする感触を楽しむ。隣で絽奈はビーチサンダルを右手に持って、恐る恐る水に足の指を付けている。

 式谷は、笑いかけて、

「――『ここまで連れてきてくれて、ありがとう』」

 顔を上げた絽奈は、すごく嫌そうな顔をしていた。

「……死ぬの?」

「死なないけど。ほらこの間の動画のアレ。病気の女の子と海に行くやつ」

「死ぬんだ」

 へーえっ、と勢いよく絽奈が水面を蹴った。飛沫がかかる。あはは、と式谷は笑うけれど、絽奈にとっては思った以上の成果だったらしい。急に自分で自分に豆鉄砲を飛ばした鳩のような顔になって、「ごめん」と慌てて寄ってくる。

「濡れた? 寒くない?」

「寒くはないでしょ。さっき家出るとき、まだ二十九度あったよ」

 平気平気、と式谷は返す。でも、と絽奈は言う。そんなに心配ならこのまま海に飛び込んでうやむやにしてあげようかと思う。それを察したのか絽奈が肩に手をかけてくる。それでも振り向くだけは振り向く。

 変なものが目に入った。

「あれ、何?」

「……? あれって、」

 どれ、と絽奈が言うのも無理はなかった。色が紛らわしい。黒が基調で、黄色や緑がちりばめられている。普通の海なら目立つだろうけど、ネオンに紛れた二々ヶ浜では保護色として働く。でも、さっきまで林のそれほど明るくない中を歩き通してきたおかげなのか、式谷の目にそれはかろうじて、『海ではない何か』として映っている。

 水面に、浮かぶものがある。

 魚ではない。サメの背びれでもなさそうだ。ビーチボールに似ている。けれどときどき、動いてもいる。

 こっちに近付いてきている。

「湊、」

 興味があるから、こっちも近付いた。

 ジャージの下の短いのを履いてきていて正解だったと思う。膝の辺りまでは全然浸かって構わない。多少濡れてもどうせすぐ乾く。じゃぶじゃぶと水をかき分ければ波が沖の方に立つ。それに『何か』は揺られる。けれど、それでもこっちに向かってきている。

 スーパーボールみたいに見えた。

 金魚と一緒に夏祭りで取ってきて、いつの間にかなくなってたやつ。

 じっと見つめていると、それはとうとう式谷の腿のあたりに触れた。ひんやりした感触。背中のあたりに鳥肌が立って、けれど何となく、式谷はそれを邪険にはできない。もっもっ、とそれはさらに動いている。服が引っ張られている。上ってきているんだ、と思う。

 手に取った。

 宇宙で出来た小さいアザラシみたいだ、と思った。

「こんにちは」

 話しかけてみる。もちろん反応しない――と思ったら、微かに動いた気がする。のっ、という感じの鈍い動き方。毛はひとつもなくて、つるりとした手触り。昔に二々ヶ浜水族館で触ったヒトデよりも柔らかいのに、あれよりも何となく生き物という感じが薄い。

 段々可愛く見えてきた。

 で、これは何なんだろう。

「ねえ絽奈、これ――……薄情者だ」

「一週間くらい近付かないで」

 振り向くと、絽奈はすっかり堤防の間際のあたりまで引き揚げ終えていた。ビーチサンダルもしっかり履いている。逃げる気満々。

「この子、何?」

「知らない。私が訊きたい。ていうかそれに平然と触ってるのも何?」

「可愛いよ」

「可愛くない」

 言い切られてしまった。

 そんなことはないと思うんだけど、と式谷は手の中のそれを見下ろす。ボウリング玉よりひとまわり小さいくらい。こっちの視線に反応して見上げ返してきた気がしたけれど、目がどこにあるのかわからない。どういう生き物なんだろうと不思議になる。

「絽奈ってこういうの詳しくないの? 一日中インターネットやってるんだし」

「なんで急に悪口言うの……」

「事実だから」

 納得いかない、という感じの顔をしてから絽奈は、人相が悪くなるくらいに目を細めてこっちを見て、

「……ウミウシ?」

「ウミウシ?」

 って、とそれを見下ろしながら式谷は記憶を掘り起こしている。前に絽奈が「SNS映えする要素を取り入れてみたい」といつものようにインターネットをしているのを後ろから眺めていたとき、いくつも画像を見た。それと照らし合わせて、

「こんな丸くなくない?」

「そんな丸くないよ。何なのそれ。クラゲ?」

「新種?」

 軽い気持ちで言ったことだけれど、絽奈の目は思いのほか大きく開いた。一歩、彼女がこちらに踏み出す。合わせてこっちも一歩踏み出したら、怯んだように絽奈はその一歩を戻した。

「確かに、」

 聞いただけだからどこかで裏取りしてるわけじゃないんだけど、と丁寧に前置きしてから彼女は言う。

「海って、陸より全然広いし、深い場所は全然探索できてないから。まだまだ人間の知らない生き物がたくさんいるはず……って」

「あ、知ってるそれ。なんだっけ。もぺんぺみたいな」

「モケーレ・ムベンベ?」

「そうだっけ」

「そうだよ……ていうか、それ放しなって。海の生き物ってほとんど毒あるよ」

 死んじゃうかも、と絽奈が本当に心配そうな声で言うので、とうとう好奇心は素直さに道を譲った。式谷はそっとそのウミウシだかクラゲだかもけもけだか何だかわからないやつを海に下ろす。さようなら、元気で暮らしてね。

 ウミウシが服を引っ張っている。

 もっもっ、と身体をよじ登ってきている。

「気に入られちゃった」

 信じられない、という顔を絽奈はしていた。

 信じられない、という顔をされてもな、と式谷は思っていた。

 試しにもう一度下ろしてみる。波の関係かもしれない。海から上がる。砂浜を進む。波の関係じゃない。ウミウシは砂浜に上陸した。にじり寄ってきている。右に行く。右に来る。左に行く。左に来る。

「このまま連れて帰ろうかな」

「はあ!?」

 いきなり大きな声を出されたからびっくりした。

 絽奈の方を見ると、絽奈自身もいきなり大きな声を出した自分にびっくりしている。ウミウシも動きを止めている。びっくりしているのかもしれない。耳があるのだろうか。そもそも陸に上がれるということは肺もあるのだろうか。なんだっけ、と式谷の脳裏に掠めたものがある。水から跳び上がって陸上を移動する魚。あれも肺が――ああ、ハイギョ。そのまま。

「連れて帰ってどうするの」

 不機嫌そうな声で絽奈が言う。

「飼い方も何もわかんないでしょ。大体、生き物って勝手に動かしたらダメなんだよ」

「あ、それ僕も見た。あれでしょ。特定外来生物だからみたいなやつ」

「それにウミウシって、飼うの難しいんだよ。海水の……」

 水槽を用意しなきゃいけないから、と言いながら、しかし絽奈の顔は怪訝そうだった。たぶん、と式谷は思う。同じことを考えている。海から来たのに、明らかに陸上で問題なく活動している目の前のこの生き物。哺乳類なのだろうか。哺乳類ではなさそうだと思う。じゃあ両生類? あ、

「カエルの仲間?」

「……そうなの?」

「触った感じは全然違う」

 何なの、と絽奈は呆れた顔で言った。サンショウウオの仲間なのかな、とも。あれでしょ、と式谷は言う。吾輩は山椒魚であるみたいな。違う、と絽奈が言う。山椒魚は悲しんだ。

「言ってみただけ。どうする? もう帰ろっか」

 もちろん式谷も、本気で連れて帰ろうとしたわけではなかった。

 言えば絽奈は拍子抜けしたような顔になる。もっもっ、とサンショウウオの仲間は浜辺を動いている。あえてそれから目を逸らすように、安堵したように気を取り直して彼女は、

「そうしよっか。何もやることなかったね、夜の海。次はちゃんと準備してから来よ」

「あれ持って来ようよ。でっかいライト」

「何に使うの」

「イカ釣る」

 絶対やらない、と絽奈は笑った。

 またね、と式谷はサンショウウオに手を振って、彼女の下へと歩いていく。じゃあ次来たら何する? えー……。ビーチバレー? やだ、バレーがスポーツの中で一番嫌い。絽奈、レシーブ一回もできないもんね。あ、じゃあ花火にしようよ。いいけど、ここでやって大丈夫なの? 知らない、どこにも書いてないから片付ければ大丈夫……大丈夫? 後で調べとくね、他には? 他……、

 意外と海でやることって思いつかないね、と絽奈が階段に視線を落としながら呟く。

 そのとき式谷の耳は、全然違うものを捉えている。


「――足音しなかった? 今」


 ゆっくり、絽奈も同じ方を見た。

 堤防の真下だから、その上の景色は見えない。街のネオンの光がじわじわと、空気に色移りしたように洩れてくるだけ。怖いこと言わないで、と絽奈が言う。その言葉は初めは大きくて、段々小さくなっていく。最後のところは、もう式谷の耳にもろくに届かない。

 だって、本当にしている。

 足音。

 それも一つや二つではなく、ざっざっ、と行進するように大量に。

「ねえこれ、こっちに――」

「隠れよ」

 絽奈の手首を掴んで、導くように式谷は砂浜の上を駆け出した。

 砂が音を吸ってくれるおかげで、その走る足音は大して響かない。ラッキーだった。隠れるって、と戸惑っている絽奈をどんどん引っ張っていく。堤防から突き出した岩場。二人がいた浜辺と岩場の向こうの浜辺を綺麗に二つに割るような恰好の、高いところでは自動販売機を置いたってすっぽり隠してしまうような陰のできる場所。昔、と思い出す。姉は海岸清掃の授業でここに不法投棄されたテレビと冷蔵庫を見つけて、一時期『徳川埋蔵金伝説』の異名を取っていたことがある。

「足元気を付けて。滑るから」

 黒っぽい岩だから、濡れているのかいないのかもよくわからない。手を切らないように、足を滑らせないようにと、まずは海抜五センチくらいの低い場所から慎重に進む。足音はどんどん大きく聞こえてくる。だけどペースは悪くない。絽奈を支えながら、段々と高い方へ高い方へと岩場を進む。

 大きな岩の陰に屈み込んだ。

 ちょうど両方の砂浜からの視線が切れた、海に眠る魚の他には誰からも見えない場所。

「自警団?」

 絽奈が、額を突き合わせるような距離で呟く。そうであってくれたらいいと思うけれど、多分そうじゃない。

「だったら笛吹いてない? 吹いてないってことは――」

「来た」

 ぴた、と二人は口を噤む。階段を下りる音。砂浜を蹴る音。思いのほか、と式谷は思う。耳を澄ませば聞こえてしまう。もしかするとさっきの自分たちの足音も響かないはずと思っていたのは自分たちばかりで、向こうには気付かれていたんだろうか。そうでないことを祈る。足音の数から人数を推測してみる。十人以上いるのは間違いなさそうだけど、あまりにも多いから正確なところはわからない。

 じゃぶじゃぶと、水を蹴る音がした。

 それから、声が聞こえてくる。

「……何て言っ、」

 唇は、絽奈の手のひらにそっと動きを遮られた。

 耳を澄まし続けていた。何か、ぼそぼそと言っているのが式谷の耳には届いている。けれどそのほとんどがよく意味を取れない。低い声。唸り声に似ている。外国語のようにも聞こえる。そもそも意味のある言葉なのかもわからない。お経に似ている、と気付いた。昔行った葬式のことを思い出す。見慣れない黒い服。化粧品と防虫剤、寿司と古臭い酒の匂い。

 かつん、と足元で音がしたから、跳び上がらんばかりに驚いた。

 視線を下げたら、本当に跳び上がってしまいそうになる。

「――――、」

 注射器があった。

 明らかに使用済みと思われるそれが、それほど自分たちの足と遠くないところで波に洗われて、岩場の上を転がっている。

 絽奈、と言おうとする。口を塞がれていたことを思い出す。とんとん、と肩を叩く。何、と不安そうな顔で絽奈がこっちを見る。

 こっちをそっちに誘導する。

 指を差す。

 絽奈が見る。

「――っ」

 その口を、式谷が手で押さえる。

 注射器から遠ざかるように、二人で移動する。式谷は嫌な汗をかいている。岩場にあるということは浅瀬にあるということで、あっちの浜辺の方に打ち棄てられていたって、ついさっき何気なくその針を踏んでいたって全然おかしくなかった。医療廃棄物――使い終わった注射器の危なさは学校で散々教わっている。数学の宇垣が言っていたことを思い出す。全くもってけしからんことに最近は街の方に行くと誰彼構わずお前たちのような中学生相手でも平気で覚醒剤を売りつける信じがたい外道どもが蔓延っているから、大いに気を付けるように。興味は一瞬だが、依存症は一生ものだからな。……駄洒落じゃない。今のは語呂合わせだ。こら式谷。笑うな。

 もはやサンダルを履くことも許されない土地になった。

 式谷は注射器からそろそろと距離を取る。一方で絽奈はよっぽど注射器が嫌なのか、ぐいぐいと距離を取る。気持ちはわかる。

 気持ちはわかるが、そんなに動くと滑る。

 そう思っていたら、本当にちょっと滑りかけた。

 危ない、と絽奈の脇腹に手を回す。重心が高いのが怖くなって、咄嗟に膝を落とす。が、と岩に身体をぶつけたけれど、打ちどころがよかったのか全然痛くない。絽奈は立ったままこっちの肩に手を乗せてきている。バランスが落ち着く。互いに息を吐いて安堵する、その直前。


「おーーーーーーーーーーい」


 合唱だった。

 そのまま息もできずに二人は固まる。水面に波立つような大音声。足音の主たちが声を合わせている。高い声も低い声もある。感情が籠っていないようでいて、一方でやけに真剣にも聞こえる。おーい。おーい。何度も言う。台風の日の風鳴りみたいな音。雷の日に雲が燻るようなうねり。人間が出しているのが信じられないような声色。

 呼ばれているようで、怖くなる。

「今、こっち見てないよ」

 けれど同時に、そのことにも気付いた。

 絽奈を見上げる。絽奈が頷く。意味を理解してくれたらしい。声の向きがおかしいのだ。自分たちを見つけて呼び掛けているのだったら、もっと岩場と堤防に声は反響する。そうじゃないということは、海の方を見ている。

 今なら逃げられる。

 そろそろと岩場の陰から出ていく。さっきまでいたのとは逆側の浜辺に、絽奈の手を引きながら式谷は出ていく。幸いなことに誰もいない。こっちにもいたらどうしようかと思った。今のあの声とは別の集団がいて、全員のっぺらぼうで、岩場から出る自分たちを待ち構えていて、驚いて固まった自分たちを取り囲むようににじり寄ってきて何も言わないまま手が一本二本三本百本、

 妄想を振り切って、岩場を背にして砂浜を行く。

 こっちにも堤防に上る階段はある。おーい、の大音量に紛れて足音だって気にしないで、二人は行く。階段を上る。もう大丈夫、と絽奈が言うのは何かと思ったけれど、引いている手のことだった。一つ頷いて、式谷は先に階段を行く。姿勢を低くして確かめる。堤防の上には誰もいない。絽奈に手を伸ばす。安心して上ってきて大丈夫。

 ぐ、と最後の一歩を上り切って、ようやく自分たちを追い立てた集団が何だったのか、式谷は理解した。

「あれ、街の……」

「宗教でしょ」

 こっちの方まで来てるんだ、と絽奈が溢す。視線の先、堤防から見下ろしたところには、海に腰まで浸した集団がいた。

 黒っぽいひらひらした、クラゲのような服を着ている。ネオンライトに照らされて、科学実験中にバイオプールに放り出された人造人間の群れみたいな感じで、全員が同じ方向を向いて、花いちもんめでもするみたいに手を繋いで一列に広がっている。おーい、おーい、と何度も言う。こっちの方なんて丸っきり見やしない。お化け屋敷の首吊り死体みたいにずっと同じ方だけを見ている。短い英語のリスニング教材みたいに、ずっと同じことだけを言っている。今にも一斉にこっちを振り向いて、真っ白な目で自分たちに呪いをかけてきそうな雰囲気。

 気味が悪い、と流石に思う。

 さっさと家に帰ろう、と思った。

「絽奈、先行って。自転車取ってくる」

「え、」

「そしたら僕が走るから、絽奈が自転車乗って。……まだ乗れるよね?」

 たぶん、と絽奈が頷く。行く道で絽奈が全く荷台でバランスを取れずに、開始十秒で二人乗りを諦めた記憶が蘇る。ちょっと不安になる。まあいい。そのときは自転車も捨てて走って逃げよう。どうせ姉のお下がりだし、さらに元を辿ればゴミ捨て場で拾ってきたようなやつだ。

「行って大丈夫?」

「大丈夫」

 どうせ誰にも気付かれない。

 そう思えば、式谷の足は速かった。

 サンダルを脱いで、裸足で行く。小石が足裏に当たるけれど、大した痛みじゃない。地面を蹴るぺたぺたとした音は、自分の耳にすら届きやしない。自転車に辿り着く。ハンドルを握る。ストッパーに足の肉を挟みそうで怖い。挟まない。荷台を掴んで車体を持ち上げておいたから、タイヤは音もなく地面に着く。乗る手間も惜しんでそのまま押して走っていく。

 振り返る。

 まだ誰も、こっちを向いていない。

「帰ろ」

 ハンドルを押し付けられた絽奈は、一瞬何かを言いたげな顔をした。けれどハンドルを握らせた時点で式谷はサンダルの履き直しを始めている。絶対走りづらい。もう一生スニーカーしか履かない。

 顔を上げると、絽奈がおぼつかない調子で自転車に乗り込んでいる。ハラハラしながらそれを見守る。不安をよそに、自転車は滑らかに走り出す。式谷はぺたぺた走ってそれを追う。

 林道に入る。

 行きはあんなにおどろおどろしかった暗がりが、今は自分たちを守ってくれているような気がした。

 三百メートルくらい走った。足音は聞こえてこない。もう大丈夫だろうと思ったからちょっとだけ走るフォームを崩して、後ろを向いて、目で確かめる。

 誰も追ってこない。

 それでようやく式谷は笑みを溢す。普通の音量で、普通に絽奈に話しかける。

「こわ! めちゃくちゃ危機一髪――」

「湊、」

 一方で、絽奈は。

 緊張、という調子の面持ちをまだしている。じっと視線を前に向けたままで、背筋をピンと伸ばして自転車を漕いでいる。思ったよりずっと運転が上手い。ちょっとだけ中学に通ったこともあるからだと思う。だから多分その顔は、自転車の操縦に緊張しているわけじゃない。視線の先を追う。

 自転車の前の方。枝垂れた木々じゃない。トタン小屋じゃない。ボコボコの畦道でもない。もっとずっと近く。自転車『より』前にあるものじゃない。自転車『の』前にあるもの。

 荷物入れのための前カゴ。


「連れてきちゃった」


 もっ、という調子で。

 宇宙で出来たアザラシみたいな生き物が、こっちを見上げている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る