第19話 カワセミ 

 木曜日。藍子とマークは井の頭公園の池の周りを歩いていた。あいにくの曇り空で歩いていないと寒さが身にこたえた。

 池を取り囲む木々にはまだ紅葉が見られ、二人はあかい絨毯を踏みながらひたすらに歩く。まるで何かを振り払うように歩き続ける藍子の隣をマークは何も言わずに寄り添う。靖国神社を散歩した時と同じどこか張り詰めたような空気が漂っていた。


「藍子さん。あそこを見てください。きれいな鳥がいます」

 ふいに、マークが池に架かる長い橋を指さした。曲がりくねったその橋の真ん中あたりに青い鳥がとまっている。

「ほんと、宝石みたいな色。あれはカワセミね」

 二人は橋を渡り始め、カワセミに近づこうと試みたが、あと三メートルというところで飛び立ってしまった。


 思わず顔を見合わせて笑ったあと、マークが安心したように、

「よかった。笑顔が見られました」

 と言って、藍子の顔を優しく見つめた。

「気を遣わせてしまってごめんなさい」

 藍子はそう言うと、欄干らんかんに肘をかけて目の前に広がる景色を眺めた。水面みなもに映し出される紅葉とそこを泳いでいく数羽のマガモに魅せられる。

 

 藍子はマークの方を見ずにそのまま話し始めた。

「あなたとのこと、やっぱりとても後悔した。後悔すると分かってしたのだから、本当にバカよね」

 マークは一瞬悲しい顔をして、それを藍子に悟られないようにごめんなさいと呟いた。

「あなたは何も悪くない。誘ったのは私で、あなたは受け入れただけ。私の方がずっと年上なんだから、私の責任よ」

 藍子は池から目を離してマークを見つめると、そう言って目を伏せた。


「藍子さん、家族のことで悩んでいるのでしょう。私は難しい日本語が分かりません。それに若いですから、経験もありません。だから、話してくれないのでしょう?」

 マークは珍しく語気を強めて、藍子をじっと見つめた。藍子は首を横に振ると、

「そうじゃないの。自分の感情を上手く言葉にできなくて……。正直に言うと、これからどうしたらいいのか迷ってる。今まで自分が信じていたものが……砂でできたお城だったと気づいたから」

 藍子は砂上の楼閣ろうかくと言おうとして易しい日本語に言い換えると、マークの視線から逃れるようにまた池を眺めた。


 あの日、母親から指摘されたことは、日々の生活の中で自分が見ないようにしてきたことだ。心の奥底で健吾に大切にされていないことに気づいていた。かつては健吾に抗議したこともあったが、家庭内でいさかいが増えるのを恐れ、諦めることで平安を得たつもりでいた。

 けれど、それは間違いだったのだろう。

 結局、あんな過ちを犯すほど自分は弱い人間だったのだから。子どものためにやり過ごし抜くだけの強さもない人間だったのだから。藍子はそう思った。


 マークは藍子のかげった表情を見て、意を決したように話し始めた。

「藍子さんの力になれなくて残念です。ただ、私の経験で言えることは、家族の問題は一番難しいです。特に、相手をコントロールしたいと思う人間が家族なら。私の両親はそういう人間です。今は日本にいますので、距離があるから大丈夫です。でも、国に戻ったらいつか同じ仕事をしなければなりません」

 マークのまっすぐな声に藍子は惹きつけられるように顔を上げて、マークの顔を見つめた。

「私は心の中に距離を作ろうと思っています。前はそれができなくて、私は自分を失くしてしまいました。何が好きで何がしたいのか分からなくなりました。小さな頃から両親が喜ぶように行動していましたから」

 

「日本に来て、図書館で藍子さんを見た時、本が好きな人だとすぐに分かりました。自分の好きな気持ちを大切にしている人は輝いています。藍子さんは、僕にそのことを教えてくれた大切な人です」

 マークはそう言うと泣きそうな表情で藍子を見つめ、微笑んだ。藍子の心にマークの言葉は染み渡るように感じられた。母親から独身時代の仕事をなじられた後だから、余計にそう感じたのだろう。


 「ありがとう。あなたが言ってくれたこと、大切にする。あの人達と上手に距離を作るってどうしたらいいのかまだ分からない。でも、自分なりのやり方を探してみようと思う」

 マークは藍子の言葉に安心したように頷くと、

「藍子さん、寒いですからそろそろ行きましょう。この近くに美味しいケーキ屋さんがあります。この前誕生日のケーキを食べませんでしたから、ぜひ」

 と言って藍子を促した。


 二人はケーキ屋に向かいながら次の予定を話し合い、二人とも自然が好きだから高尾山に行こうと決めたのだった。


 


 

 


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