第18話 ごみ袋

 ――これから会うのは木曜日の昼間だけにしましょう――


 自分とマークの身を案じ、藍子がそうメッセージを送ると、マークはあと三週間しか日本にいられないのにと残念がった。

 木曜日なら藍子も図書館の仕事がなく、マークの方も授業やアルバイトがない。ただ、マークがシンガポールに帰国するまでに残された木曜は三日だけだ。

 

 ――それなら、月曜と水曜の夕方、僕はあのベンチにいます。藍子さんが誰かに見られるのが心配なら、話しかけません――


 マークにそう返信されると、藍子はあらがうことができず、寒いから無理はしないでと返信した。


 月曜日の退勤後、夕闇の中で外濠そとぼりを眺めるマークの姿を見て、藍子は過ぎ去った初夏を思い出した。

 あの頃、何度も見かけた青年とこんなに親しくなるなんて。

 背は高いが、足が長く細身なマークは座っているとどこか少年のように華奢に見えたものだ。今はコートを着ているせいか、年齢相応の青年らしく見える。


 マークは藍子がこのタイミングで通るのを分かっていたかのように、藍子の方を見て笑顔を見せた。藍子はマークの近くまで来ると右手を腰の辺りで振り、歩みを止めた。しばらく見つめ合ってから、

「風邪ひいちゃうから、すぐに帰ってね。待っててくれてありがとう」

と言うと、その場から立ち去った。

 寂しそうな笑顔でうなずくマークの顔が藍子の頭からしばらく離れなかった。


 電車を降り、駅から徒歩数分のマンションのエントランスまで来て、藍子は驚いた。

「お母さん」

「藍ちゃん。ラインしても全然返事がないから、お母さん心配で来ちゃったの」

 この時間のエントランスは、帰宅する人や習い事に出かける子どもなどで往来が激しい。人目を気にした藍子は仕方なく、母親をマンション内に入れた。


 エレベーターを降りて、自宅玄関前で大きなごみ袋を見つける。今朝、いつもより遅く出勤する健吾に捨てるように頼んだ資源ごみの袋だ。ビン類が重いのでお願いしたのだが、捨てるのを忘れて出勤したのだろう。健吾にはよくあることだが、今の状況も相まって藍子は思わずため息を漏らした。


 藍子はドアを開け、狭い玄関で靴を脱いでスリッパを履く。リビングからは優斗がテレビゲームをしている音が漏れ聞こえる。藍子は、部屋に上がろうと靴を脱ぐ母親に向き直ると、口を開いた。


「連絡なしに来るのはやめてと言ったでしょ」

「だって全然返事がないんだもの。心配になるでしょう」

「既読にはしてるじゃない。それに、何回言ってもお母さん分かってくれないじゃない」

「なによ、どういうこと」

「だから、しばらく資格の勉強に集中したいから、水曜日には行けないって言ったのに呼ぼうとするでしょ。やめてほしいの」

 藍子はそこまで言って、動悸が激しく、まるで自分の耳に心臓の音が聞こえそうに感じていた。


「藍ちゃん、どうしたの。最近、変よ」

「変って何が」

「メッセージだって前はすぐに読んでくれたのに、今は次の日とか。文面だってなんだか冷たいし」

 藍子の母は、いぶかしがるように藍子の目と全身を交互に見る。それからおもむろに口を開く。

「健吾さんと何かあったの」

「何もない。いつも通りよ」

「さっきのごみ、健吾さん捨ててくれないの。ねぇ、藍ちゃん、前から思っていたんだけど、あなた達大丈夫なの?」

「大丈夫って何が」

 藍子は、自分の足が震えているのを感じていたが、頭の中が真っ白になったような感覚におちいっていた。


「だって、優くんが赤ちゃんの頃からあなた一人があの子のお世話している感じだったでしょう。みんなでお食事に行っても、あなただけ優くんをあやしていて、健吾さん一人で悠々と食べていたじゃない。あなたがそれで幸せならって思ってたけど、お父さんもずっと気にしていたのよ」

「なにそれ。そんなこと思っていたの」

「そうよ。藍ちゃん、あなた自分の考えを健吾さんに言えないの?おない年なんでしょう? 健吾さん、まり屋だからお金も自由に使わせてくれないんじゃないの?」

「やめて。自分の考えはちゃんと言ってる。聞いてくれる時と聞いてくれない時があるだけ。そんなの誰だってそうでしょう?」

 藍子の声はわずかながら震えていた。


 藍子の母はじっと藍子を見つめると、思い切ったようにまた話し始めた。

「だから前に言ったのよ。あなたがあんな小さな会社で編集の仕事始めるって言うから。今の時代、産休育休がしっかり取れて、お母さんみたいに長く働ける仕事にしなさいって。結婚したら夫婦はどんな関係になるか分からないんだから。司書の資格って言うけれど、安定したお給料もらえるの?」

 藍子は動悸が激しさを増し、立っているのもやっとに感じた。


「お母さん、そう言うけど、私、子どもの頃ずっと寂しかったよ。友達だって少なかったし。高尾のおばあちゃんが泊まりに来てくれた時だけ、家に帰るのが楽しみだった。お母さん、いつも疲れてて、私の話なんか聞いてくれなかったじゃない」

 藍子は涙が出そうになるのを必死にこらえながら、

「それに、家族の中で悪口言い合うのも嫌だった。私がどんな気持ちで聞いてたか気にした事あった? 私、優斗に健吾の悪口なんて言った事ない。この会話も聞かせたくないから、もう帰ってよ!」

 そこまで言うと、右手で胸を押さえながら、母親を追い返そうとした。

 藍子の母は、初めて見る娘の剣幕に圧倒され立ち尽くしていたが、分かったわと呟くと呆然とした様子で玄関から出て行った。

 藍子はその場に崩れるようにしゃがみ込むと、しばらくそのままま放心していた。

 




 

 

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