第17話 視線 

 翌日の金曜日、藍子は朝からスクランブルエッグを作っていた。熱したフライパンにバターを入れ、溶け始めた頃に卵を流し込む。仕上げに優斗が好きな溶けるチーズを加えて、菜箸でかき混ぜる。

  

 食卓では、健吾と優斗がサラダとトーストを食べながら朝のテレビを観ている。

「お父さん、あのさ」

優斗はコーヒーを飲みながらテレビを観ている健吾に話しかけた。

「なんだ、健吾」

「あのさ、次のサッカーの試合はお父さんと行けるの」

「ああ、そうか、あと一週間で試合だったな。前回の試合はお母さんが連れて行ったんだっけ。来週末は出張がないから、大丈夫だ」

「やった!」

 優斗は嬉しそうにそう言ってから、スクランブルエッグを持ってきた藍子の顔を気遣うようにちらりと見た。


「良かったね、優斗」

 藍子は優斗の顔を見ずにそう言ってから、空になったサラダボウルをキッチンに下げる。

「あ、お母さんも来れたら一緒に来て。俺、次はシュート決めるから」

 そう言うと、優斗はスクランブルエッグをスプーンですくってトーストに乗せ、大きな口を開けて頬張った。


 二人を送り出し、食器を片づけ、洗面台の前で出勤前の化粧をする。

 つい最近まで私がいないと寝られなかったのに。

 化粧下地を塗って、小さなシミをコンシーラーで隠す。パウダーファンデーションを軽く乗せながら、藍子はさっきのやりとりを思い出していた。


 健吾なんて優斗が小さい頃から、公園でサッカーしたり、自分が応援するサッカーチームの試合観戦に連れて行ったり、そんな事しかしていないのに。最近の優斗は授業参観で私を見ても、まるで知らないお母さんみたいに手も振らないんだから。

 パールの入ったベージュのアイシャドウをまぶたに乗せながら、藍子は優斗の成長に一抹いちまつの寂しさを感じていた。


 でも、今はまっすぐに優斗の目を見られないから、これで良かったんだ。

 藍子は口紅を塗ってよそゆきの顔になった鏡の中の自分を見つめ、そう思った。



 藍子の勤める大学は二学期制で、十二月の図書館は利用者がそれほど多いわけではない。後期のテストは一月中旬から始まるので、来月からはテスト勉強をする利用者が増えるはずだ。

 藍子は開館前に、館内にあるラーニングコモンズスペースの整頓をしていた。この部屋ではパソコンの貸し出しもあり、学生達がディスカッション等で利用できるように椅子とテーブルが配置されてある。


 昨晩、閉館前にいつも通り藤木か内山が清掃したのであろう。目立つ汚れはなく、藍子は椅子の位置だけを直していた。

 その時、ドアが開いてゆっくりとした足取りで館長が入ってきた。

「沢田さん、おはようございます」

 館長は藍子を見て、穏やかな笑顔で挨拶をすると、椅子の整頓を手伝い始めた。


「館長、ここは私一人で大丈夫です。こんな作業を手伝って頂くなんて恐縮です」

 藍子は焦りながら館長を制止するようにそう言うと、館長は静かに口を開いた。

「いえいえ。たまにですが、私も閉館前にここの清掃をしているんですよ。きれいにしておかないと、そこの販売機で買った飲みかけのジュースを置きっぱなしにする学生が増えるからねぇ」

 人が良さそうな笑顔でそう言うと、館長はテーブルの位置を直しながら、

「沢田さん。いつも熱心に働いて下さるから助かっています。来年三月までの契約なのがもったいないくらいですよ」

 と言って、また微笑んだ。


「いえいえ。私は一つの仕事に夢中になってしまうと周りが見えなくなってしまうから、みなさんにはご迷惑をかけてばかりで。それに、夕方までしか働けなくて、閉館作業もお手伝いできず心苦しく思っています」

 藍子は少し緊張しながらそこまで言って、頭を軽く下げた。

「藤木さんから伺いましたよ、本との距離感の話。いやぁ、そんなに本好きな方がここの図書館にいたら学生にもいい刺激になると思いますよ。最近は学生ともいいコミュニケーションが取れているそうじゃないですか」


 館長の言葉を聞きながら、藤木が最近の自分を見てそのように館長に言ってくれたのかと藍子は少し嬉しく感じ、

「ありがとうございます。まだまだですから、がんばります」

 と言って、微笑んだ。

「ただね、学生との距離感も考えなければいけません。あくまで図書館の職員であって、友達ではないですからね」

 館長は声を少し硬くしてそう言うと、藍子の顔を見据えて、

「最近、あのシンガポールの留学生は来なくなりましたかね。いやね、沢田さんの出勤日だけ見かけて、あなたの方を目で追っているような姿を何度か見たものですから」

 そう言うと、藍子の目をうかがうようにじっと見た。


 気づかれていた。それも、まさか館長に。

 藍子は自分とマークの行動の迂闊うかつさをいながら、できる限りの平静さを装い、

「あ、あの学生は内山さんと休憩時間に食事をしたカフェでアルバイトしているので、その時に少し会話したんです。留学生で不便な暮らしをしていると思って、私の方も気にかけていました。きっとお母さんみたいに思われているのかもしれません」

 と言って、ご心配おかけしてすみませんと頭を下げた。


「それならいいのですが。何かトラブルがあったら相談してください」

 館長はそう言うと、目の奥を少しだけ光らせながら藍子の顔をしばらく見つめた。

 その視線に藍子は何か粘り気のようなものを感じ、以前内山が言った「館長のお気に入り」という言葉が脳裏をよぎる。まさかではあるが、もしそうであるならと自分が隙を見せてしまったことを後悔した。

「はい。今のところは大丈夫です。ご心配ありがとうございます」

 藍子はややぎこちない笑顔でお辞儀をすると、失礼しますと言って足早にその部屋を後にした。



 



 

 

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