第16話 罪 

 夜中に藍子は目を覚ました。覚醒しつつある心地よいまどろみの中で昨晩のことが思い出される。

 

 名残惜しそうなマークと荻窪駅で別れ、車窓から夜の街並みを眺めながら、藍子は身体からだの暖かさを感じていた。

 長年腹の底に蓋をしてきた負の感情がせきを切ったようにどろどろと溢れ出し、澄んだ泉だけが身体からだに残っているような感覚に包まれる。泣きたいような感情だった。

 私は今まで自分に嘘をついていた。

 だからこうなったんだ。

 今まで守り抜いた自分の信念が足元から崩れ落ちていき、押し寄せる感情の渦の中で藍子は自分を見失っていた。


 眠れないまま寝返りを打つ。寝室の小さな窓から差し込む月の明かりが本棚を照らし、藍子はドストエフスキーの『白痴』に目を留めた。

 大学生の頃にこの本を手に取り、むさぼるように読んだことを思い出す。主人公の心の綺麗さに感動し、自分もそうでありたいと憧れた若き日。


 これから社会に出たら、私欲のために心は汚れていき、きっとそれが当たり前になるのだろう。それが大人になるということなのかもしれない。周囲の人をがことのように愛する主人公のような心は薄れていくのだ。

 だからこそ、自分はそれを失いたくないと心に誓った。


 しかし、自分のその現実離れした思いは姉や両親、さらには夫にまで見くびられるもとになったのではないだろうか。たとえ彼らにその意識がなかったにしても。

 藍子は研ぎ澄まされたように覚醒した意識の中で、『白痴』を凝視し続けた。

 

 私は立派な信念を持っていたわけではない。

 ただ愛されたかっただけ。

 そう悟ったとき、涙がとめどなく溢れ出した。

 

 自分が一番大切にすべき、かけがえのない息子を裏切ってしまった。

 藍子は自分が取り返しのつかない罪を犯し、それは一生心に影を落とし自分をさいなむであろうことを自覚した。


 背後で寝息を立てる健吾の存在がこれまで以上に遠く感じられる。

 マークによって灯りをともされた心は今や健吾を拒絶し、他人のようにさえ感じられ、そんな自分の変化に藍子は戸惑った。


 眠れぬまま窓の外は少しずつ白んでいき、藍子は朝食の準備をするためにベッドを降りて、クローゼットに向かった。


 

 

 


 


 

 


 


 


 

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る