第三章

第15話 小籠包  

 十二月に入り、イルミネーションで彩られた街は一段ときらびやかさを増していた。

 藍子は中央線の窓から雨に濡れる街を眺め、かつてヒールの高い靴を履いて新宿を闊歩かっぽした日々を思いだした。

 高円寺や吉祥寺には高校生の頃に何度か行ったことがある。あの頃は古着に夢中になり、友達と何軒も古着屋さんを回ったものだ。


 若い頃の事を思い出しながら、藍子はロングスカートの中で足が少しだけ震えているような感覚がした。

 優斗の顔が何度か頭をよぎる。産院で初めて対面した時に胸が一杯になった感情や、はじめて歩いた日の事。幼稚園バスに乗ろうとせずに藍子のスカートの裾にしがみついて離れようとしなかったあの日。


 今ならまだ引き返せるかもしれない、何度か鞄から携帯電話を取り出しかけて、藍子はまたそれをしまう。

 それでも決めたのだ。

 きっとこんな風に直前まで心が揺れるだろうと分かっていながら。


 バーで飲んだあの日、別れ際にマークは藍子を誘った。

「来週の水曜日、私は午前で授業が終わりですから、家に帰って小籠包を作ります。藍子さん、食べに来てください」

 藍子は黙って頷いた。決心が揺らぐかもしれないから、その日まで連絡を取らないようにしたいという言葉を添えて。


 マークのマンションは閑静な住宅街にあり、昼間であれば緑豊かな公園が見えたであろう大きな窓があった。

 荻窪駅の改札口で藍子を見つけ、笑顔をほころばせて近づいてきたマークは、今はキッチンで小籠包が出来上がるのを待ちながら、調理道具を洗っている。

 蒸し器から立ち上がる蒸気と美味しそうな匂いが部屋中に立ち込めていた。


 藍子は小さなダイニングテーブルに座って、レモン水を飲みながら降りしきる雨を眺めていた。そうしているうちにも窓の外は暗くなっていき、レースカーテン越しにぼんやり見えていた景色は暗闇に閉ざされていった。

「カーテン、閉めてもいい?」

 そう言うと、マークの返事を待たずに藍子は立ち上がって水色のカーテンを閉めた。


 皮から手作りをしたという小籠包は、蒸籠せいろの蓋を外すと、湯気が立ち上がり、幾重いくえにも重なる折り目が美しい。

 藍子は感嘆の声をあげて両手を合わせてから、箸でつかんで左手に持ったレンゲの上に乗せようとしたが、破れて肉汁がこぼれてしまった。


 「小籠包はデリケートです。もっと優しく持たないととだめですよ」

 マークは笑いながら、お手本を見せるようにそっと箸で小籠包をつかんで、またそっと左手のレンゲに乗せる。そして箸で少しだけ皮に穴を開けると溢れた肉汁に口をつけてすすった。


 その食べ方は上品ながらもほのかな色気を感じさせた。藍子はちょっと間を置いてから同じように小籠包を口に運ぶ。熱々の肉汁には旨みが凝縮され、その後に口に含んだ皮と餡はもっちりと柔らかく、藍子は夢中になって味わった。


 藍子が食べる様子を満足そうに眺めていたマークは、またキッチンに立ち、食後の紅茶を淹れ始めた。シンガポールの紅茶ですと言ってマークがその袋を開けると、紅茶と共にベリーのような甘い香りが漂った。


 「これ、あなたの香り」

 藍子はマークから漂っていた香りの正体が分かり、思わずそう呟くと、マークは笑いながら、

「紅茶の葉を少しだけハンカチに包んで、タンスにしまっています」

 と言った。


 マークは、ベッドの隣にあるサイドテーブルに紅茶を注いだティーカップを二つ運び、卓上のキャンドルに火をともした。それから、部屋の明かりを消して

「ハッピーバースデー」

 と言うと、ダイニングテーブルに座る藍子を手招きした。


 本当の誕生日は年末だ。でも、その頃にはマークはもう日本にはいない。

 藍子はマークの横に膝を崩して座ると、黙って紅茶を飲んだ。紅茶の香りに包まれていると、マークに抱きしめられているような気持ちになった。


 「まだ迷っていますか」

 マークは、藍子の心を探るようにそっと声をかけた。

 この青年は成熟した大人のような気遣いを見せるが、それは大人の顔色をうかがって育ったせいなのだろう。

 藍子はそう思うと胸が苦しくなって、自分の顔を覗き込むマークの唇にそっと自分の唇を重ねた。


 藍子の白い上半身はキャンドルの灯りに照らし出され、ゆらゆらと揺れた。

 マークの視線からのがれるように藍子は火を吹き消し、誕生日の主役だからと言って笑った。

 廊下から漏れる淡い光が次第にぼんやりと二人の身体からだと熱気を浮かび上がらせていった。


 


 







 


 

 

 

 

 




 


 

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