第20話 魔法瓶 

 週明けの月曜日、藍子は休憩時間にバックヤードで弁当を食べていた。一人黙々と口に運びながら、昨日観戦したサッカーの試合を思い出す。


 優斗は得点には結びつかなかったものの、いくつか伸びやかなシュートをした。試合は一対一の引き分けであったが、試合後の優斗は晴れやかな笑顔で両親のもとに駆け寄った。

 藍子は観戦中に隣りの健吾を見た。終始息子を目で追いかけ、声の限りに叱咤激励する健吾の横顔は真剣であった。

 帰りの車中、健吾と助手席の優斗はサッカー談義に興じ、藍子は後部座席でうたたねをしながら、二人が長年サッカーを通じて積み重ねた絆を感じ取っていた。


 藍子は魔法瓶に入っている熱い緑茶を蓋のコップに入れて少しずつ飲む。

 虚構に感じた夫婦関係ではあるが、自分と優斗、健吾と優斗の関係は虚構ではない。そこには当事者にしか分からない確かな愛情の重なりがある。

 それは優斗が成人するまで守り続けなければならない、自分のような子供時代を送らせないためにも。藍子は改めてそう感じていた。


 その時、ドアが開き、内山がドアから顔を覗かせた。

「沢田さん、休憩中ごめんなさい。今、ちょっといいですか?」

「はい。どうぞ」

 藍子がそう答えると、内山は頭を軽く下げて室内に入った。

「私、これから休憩で、外に食べに行くところなんですけど。実は沢田さんにお願いがあって」

 内山はしばらく言い淀んでから、また話を続ける。

「あの、来週の木曜日、沢田さん出勤して頂くことは可能ですか? 母が入院することになって、その日手術があるんです」


「えっ、それは大変。来週木曜ね……木曜は……」

 来週木曜は、マークと会える最後の日だ。藍子は一瞬躊躇ためらったが、事の重大性を考え、

「うん、大丈夫。五時までしか入れないけれど、それでも良ければ出勤できます」

 そう言って、微笑ほほえんだ。


「ありがとうございます! 助かります!」

 両手を合わせてぺこぺこ頭を下げる内山を藍子は優しく見つめながら、

「お母様、手術で良くなるといいね」

 そう声をかけると、内山の目にうっすらと涙が滲んだ。

「子宮体癌だったんです。でもステージ1みたいで安心したんですけど、全摘して検査をしないと実際の進行度合いは分からないみたいで」


「そうなの。それは心配ね。他にご兄弟はいらっしゃらないの?」

「兄がいるんですけど、九州に転勤して、奥さんと子どもと福岡市に住んでるんです。だから、今回の母の件にはノータッチで」

 以前、母子家庭で育ったと言っていたから、きっと内山があれこれ準備しているのだろう。普段あっさりしている内山がいつになく心細そうにしている様子を見て、藍子は何と声をかけて良いのか少し迷っていた。


「内山さんは、お若いのにお母様の事をサポートされていて立派ね。私が独身だったころなんて、都心に一人暮らしして、仕事と自分のことしか考えていなかったもの」

「うちの母、大らかというか、私が思春期に入ってからはあんまり干渉してこなくて。私、いろいろやりたい事やってたんです。沢田さんにはちょっと言えないような事とか、ね」

 そう言って、秘密めかして笑った後、

「でも、何か私が悩んでいる時とか落ち込んでいる時は、何も言わずに私の好物を買ってきてくれるようなそんな母なんです。だから、私の心の支えになっていて」

 そこまで言うと、込み上げてきた感情のせいか内山は言葉を詰まらせた。


「素敵なお母様ね。私もそんな器の大きいお母さんになりたいなぁって思っちゃった。仕事を代わることくらいしかできないけれど、また何かあったらいつでも言ってね。春まではここで働いていますから」

 藍子の言葉に再び礼を言って頭を下げると、内山はまた後でと言って部屋を出て行った。

 

 今、内山と同じ状況に自分が置かれたら、自分はどんな感情になるだろうか。迫りくる親の老いに付随する様々な問題を考えるだけでも、藍子は気が重くなるのだった。

 来週の木曜は会えなくなったことをマークに伝えなければならない。次の木曜日は高尾山に登る予定だ。それがマークと会う最後の日になるかもしれない。

 藍子は胸が詰まるような思いがしたが、その感情はマークに悟られたくないとも思った。

 


 






 

 



 


 

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