第二章
第8話 心の華やぎ
月曜の朝。いつもの満員電車に揺られながら、藍子は自分の体が軽いような感じがした。
週末は忙しかった。優斗のサッカーの試合で早朝から弁当を作り、出張中の健吾の代わりに運転して隣県まで遠征に行ったのだ。運転が得意ではないせいか、帰宅後から肩が凝り昨晩は疲れで湯船の中で居眠りしてしまったほどだ。
それなのに体が軽い。藍子は久しぶりに感じる心の華やぎに戸惑い、それを打ち消すように、ばかみたいと心の中で呟いた。
今朝、藍子は今まで通りに弁当を作って通勤バッグの中に入れた。先週は三日例のカフェで食事をしたので散財した気分でもあったし、何よりあの青年―マーク―に顔が知られていたのが分かり、通うのが気恥ずかしくなったのだ。
「お先に休憩いただきます」
藤木と内山に挨拶をすると、ロッカーからカバンを取って肩にかけ、外濠に向けて歩き出した。いつも休憩時間に利用していた外濠沿いにある公園のベンチは、大学から五分ほど歩く。お掘や紅葉する木々を眺めながら仕事から気持ちを切り替えるのに、五分は丁度よい時間だった。
それなのに、今日はその五分の道がなんだか遠く感じられた。週末の疲れが抜けないせいかもしれないし、それだけではないような気もした。
藍子は首を振って外濠にある一番近くのベンチに座ろうとして、驚いた。
そこに、マークがいた。
視界の端で動きを止めた人間が気になったのだろう、マークも藍子の方を仰ぎ見て、眉を上げた。
「こんにちは。先生」
藍子は、こんにちはと小さな声で答えたままそこにしばらく立ち尽くしていた。
「あの、座りますか」
マークはちょっと微笑んでそう言うと、ベンチの右端に腰掛けなおした。藍子はなんと答えようか逡巡したが小声で、
「ありがとう」
と言うと、ベンチの左端に腰を下ろした。
マークとの間には子供一人分位のスペースがぎこちなくあけられていたが、彼からはふわりといい香りがした。それは古本屋の匂いのような紅茶のようなそれでいて甘くて懐かしい気持ちにさせる香りだった。
「あの、私、いつもこの辺りでお弁当を食べているの。今日も持ってきていて……。食べていいかしら?」
藍子は戸惑ったようにそう言うと、肩からおろしたカバンをマークとの間に置き、弁当を取り出した。
「もちろん。どうぞ。僕はあまり食べません、ランチは。だから、気にしないで下さい」
マークは藍子の言葉をすぐに理解しそう言うと、手に持った缶コーヒーに口をつけた。
こんなことになるなら、もっと手の込んだお弁当を作ってくればよかった。昨晩の残り物と朝急いで作った卵焼きを詰めた弁当を口にしながら、藍子は少し後悔した。
マークは、自分が通う大学の司書と思われる年上の女性がどう口火を切るのか
「あそこのサンドイッチ、おいしかったですか?」
マークに話しかけられ、藍子はもぐもぐと口を動かしながら頷いた。
「おいしかったです。いつもお弁当ばかりだから、たまに食べると新鮮で」
不思議そうな顔をするマークに気づいて、藍子はフレッシュという意味ねと付け足した。
「ああ。よかったです。私もバケットサンドが食べたいので、あそこで働くことにしました」
留学生らしい丁寧な日本語でそう言うと、マークは目を細めて微笑んだ。
異国で自炊するのは大変だろうな、中華を作るにしても本場の調味料とは違うのだろう。マークの端正な横顔を見ながら藍子はそう思った。
「どうして先生はレジの時、現金で払いますか?アプリの方が簡単です」
ふいに予想外な質問をされ、藍子は面食らいながら、
「えっと、アプリはあるの。でも、銀行口座が私のじゃなくて夫のだから。自分のお昼代は自分で払いたいしね」
そう答えてから、今の日本語は分かったかしらと横を見ると、マークは聡明そうな顔つきで頷いていた。
「そうですか。私も同じです。両親のお金だけで生活するのがいやですから、アルバイトをしています」
お金が足りないわけではないけれど、全部は使いたくない。お堀を眺めるマークの横顔はそう言っているようだった。
この青年もいろいろあるのだろう。中年になって大学生を見ると自由そのものに映るがそうではない。学生時代のさまざまな葛藤が藍子の胸に去来して、懐かしさを覚えた。
火曜金曜と週末はあのカフェで働いているからよければまた来て欲しいとマークに言われ、藍子は金曜に行くと約束した。どこかふわふわした感情を持て余しながら藍子はベンチを後にし、職場に戻った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます