第7話 秘密
その次の月曜日と水曜日にも例のカフェに行ってみたが青年の姿はなかった。
藍子は少し残念に感じたが、窓側のカウンター席から見る景色が心地よく何度も来たいと思えた。秋も深まったせいか少し肌寒く感じる日もあり、公園で休憩するより快適でもあった。
今日は内山に誘われてまたあのカフェに向かっていた。一昨日の帰り際に内山が、
「明後日は私が先なんで、例のカフェで席を取って置きますから。良かったら来てください」
と小声で耳打ちした。なんだかその様子が『秘密』という感じで可愛らしく、藍子は押されるように頷いてしまった。
店に入るとすぐにカウンターの中の店員を確認する。今日はいる。
「沢田さん」
呼ばれて視線を移すと、内山が四人掛けのテーブル席で小さく手を振っていた。
生ハムとマスカルポーネチーズのバケットサンド。注文してから青年がきれいな細い指でショーケースからバケットサンドを取り出してお皿に乗せるのを藍子は眺めていた。
青年は後ろを向いてコーヒーマシーンから挽きたてのコーヒーを取り出してトレイに置く。ゆっくりと金額を言って、慌ててお財布の中から小銭や千円札を取り出す藍子を待っている。
「ありがとうございました」
藍子は青年の声に小さくお辞儀をしてから、振り向いて内山のいる席に座った。ここからだと青年の姿が目に入る。
「うちの大学の交換留学生ですよね」
内山は藍子の視線の先に気づいてそう言った。
「え?」
「カウンターの男の子。大学の廊下で何度か見かけましたから。多分この春からかなぁ。図書館にも何度か来たことありますし」
「ああ。そうなのね。知らなかった」
藍子は、そうなんだと心の中で呟いた。
「貸し出しの時に名前を見たから、確かマーク君。キムだったかチャンだったか、思い出せないですけど」
内山は左手の人差し指を顎につけて考えるようにそう言うと言葉をつけ足した。
「素朴な感じだけど、顔立ちが整っていて美青年ですよね」
藍子はなんとなく心の中を見透かされたようでどきりとして平静を装いながら、
「そう言われたらそうね」
と呟いた。もっと前から外濠沿いのベンチで見かけていて気になっていたとは何だか言い出せなかった。
内山は藍子がバケットを食べるのを眺めながら、カフェラテを飲んでいた。
「沢田さんって、ダンナさんの話とかお子さんの話とかあまりされないですよねぇ。ほら、バックヤードで作業する時、藤木さんってそういう話されるじゃないですか」
内山は不思議そうにそう言った。
確かに藤木は作業の合間に子供の勉強の出来不出来や学校行事、家族旅行の話などをすることがある。藍子はそれを思い出しながら、
「そうね。他の方のお話を聞くのは好きだけれど、自分の家族の話を聞いてほしいとはあまり思わないのよね」
と静かに答えた。
「そういう話はお友達にはされるんですか。いや、なんていうか私もあまり話さないタイプなので。ドライなんです。沢田さんはどうなのかなと思って」
内山は興味深そうに藍子を見つめた。
藍子はそれをなんだかおかしく感じて微笑みながら、
「そうねぇ。あまり話さないかも。なんていうか、自分の周りの出来事はそれで完結しているというか、大切なのだけど、他の人と共有したいとは思わないわ」
と答えた。内山はなるほどと呟く。
「それじゃ、相談とかもあまりしないタイプ?」
「うん。あまりしないわね。なんでかな、子供の頃からあまり言葉で表現するのが得意じゃないし、本が友達みたいな感じでね、本から色々教えてもらったり、本に相談していたのかな。あ、少ないけどちゃんと友達はいるのよ?」
と笑いながら付け足した。
内山もそれに応じるように笑った。
「もちろん、分かってます。本が友達も分かるなぁ。うちは母子家庭だったんで、小学生の頃から周りの子と何か違うというか本音で話せない感覚があったので。だから、母の帰りが遅いときはいつも本を読んでたんです。あの時間を忘れる感覚と、本の世界がそこにあって私はひとりじゃないみたいな感覚が居心地よかったな」
最後は懐かしそうに自分に言い聞かせるように話す内山を、藍子はコーヒーを飲みながら見つめて、
「そうね。そんな感じ」
と微笑んだ。それから、
「こんなおばさんに興味持ってくれてありがとね」
と冗談っぽく付け足した。
「沢田さんはおばさんって感じしないなぁ。なんか現役感があります」
内山が含みを持たせて笑いながらそう言うと、藍子はその意味に気づいたものの上手い言葉で切りかえせず、笑って誤魔化した。
「内山さんこそ、若くてお綺麗で。素敵な人はいるの」
自分の話題から逸らすように聞くと、
「いますよ。何人か」
そう内山はしれっと答えながらカフェラテを飲み干すと、いつものように口の端で笑いながら、
「ドライですから、楽しめればいいんです。そろそろ私休憩終わりなんで行きますね。ゆっくりしていってください」
と言うと、席を立ちトレイを下げて出口へ向かった。自動ドアの向こうから手を振って踵を返し大学へ戻って行く内山の姿を、眩しいような感覚で藍子は席から眺めていた。
ふと思い出してレジの方に目をやると、青年もこちらを見ていて目が合うとにこりと微笑んだ。
いつから見られていたのだろうか。
藍子は一人になって手持ち無沙汰なのもあり、二人掛けの席から窓際のカウンター席へ移ることにした。鞄を移してから、トレイを移動させようとした時、レジの青年がトレイを持ち上げてささやいた。
「席を移動、ありがとうございます。あの、図書館の先生ですよね?」
藍子が驚きながら頷くと、
「私、マーク・チャンといいます。シンガポールの交換留学生です」
と頭を下げながら低い声で挨拶をし、トレイをカウンター席に置いた。
藍子は少し動揺しながら、
「図書館の沢田です。トレイ、ありがとうございます。あの、お勉強頑張ってくださいね」
と言うと軽く頭を下げてカウンター席に座った。
「ありがとうございます」
青年は微笑みながらそう言うと、レジに戻って行った。
現役感なんてとんでもないな。
青年と二言三言言葉を交わしただけでなんだかどきどきしてしまった自分を年甲斐もなく恥ずかしく感じながら、藍子はそう思った。
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