第10話 殺人衝動

 もう日が沈みかかった気でいたのに、外に出るとまだ日は高く、確認した時刻はちょうど14時半を回ったところだった。


 背後にそびえる休館日の図書館は窓を割って侵入したから、その割った窓から帰りも出た。

 こういう公共の建物は警報装置を付けていそうなものだけど、そんな気配はない。


 その事実を予知で見たからこの建物を選んだのだけど。


 そして僕はふと立ち止まる。

 羽二重リンが怪訝そうにその様子を見ていた。


「どうしたの?」


 やっぱり、毛ほども何も感じない。

 何も……なにも?

 いや、それは嘘だ。


 実を言えばふつふつと心の奥底から愉悦じみたものが湧いてくる。


 これが……そうか。

 これまで存在しなかった本能が心に根付いている感じ。

 いや、多分存在に気づいていたけど、見ないようにしていたのか。


 例えば人が成長期を経て生殖能力の獲得に伴い自然と性欲も芽生える。

 それにあからさまに気付く瞬間が誰にでもあるはずだ。


 実際にあの男を殺してようやく気がついた。多分、この精神の在り方は人間じゃない。


 僕は人間じゃない『外道者アウトサイダー』という存在になった事実がようやく腑に落ちた。


 だから、導かれるように足が動いて図書館の敷地から外に出る。


 路地に出た。

 背後から羽二重リンが何か声をかけてきたけど無視する。


 人通りは1人だけ。

 目の前を中年の、スーツを着た男が通り過ぎる。

 寂れた図書館の前。

 凶器は存在しない。

 でも素手がある。


 この時、妙に身体の中が熱く感じられた。

 何か血液以外のものが身体中を液体として巡っている感覚。妙にそれが清々しい。

 積年纏ってきた重い、重い重い重しを全て脱ぎ捨てたような気分だ。


 そして、目の前の男の、長いこと歩き回ったのかやや汗ばんで汚らしいうなじへ手を伸ばし——


「待ったっ!」


 その一声と共に後ろへ投げ飛ばされた。

 背後へ体全体を引っ張られ受け身を取る余地すら無く硬いアスファルトへ叩きつけられて全身惜しみなくぶん殴られたような衝撃。


「がっ、」


 口から唾が垂れた。

 声が出ない。

 なにも知らない中年の男が何事かと背後へ振り向き、何を思ったのか、関わらないようにそそくさと立ち去る。


 あ、逃げる。


 あ……


「ひとまず、ひとまずさぁ落ち着こっか、ほら立って」


 当の投げ飛ばした本人、羽二重リンがそうやってのたまう。

 なんで、男が逃げちまうじゃないか。


「いいから」


 そう言って、無理矢理引っ張られ腕を回されヘッドロックをかけられたまま近くのビルとビルの間へ引き摺り込まれた。


「あー……正気失ってる。仕方ない」


 そう言うや否や彼女はジャケットのポケットからいつか見たバタフライナイフを取り出し、刃をむき出しに持ち手を僕に取らせる。


「ほら」


 そんな軽い一言。

 剥き出しのナイフを握った僕の手を掴んでグイッと引っ張り、その鈍い切先を彼女自身の心臓へ突き立てさせた。


「え?」


 急速に冷めていく。

 ついでに言うと僕の血の気が引いていく。

 ナイフから手を離す。

 心の中で膨れ上がった得体の知れない欲望が満たされたのか、元からそんなもの無かったみたいに僕の中から削ぎ落とされていく。


「あっ、え、え?」


「収まった?」


「何やって……」


 いや、僕の方こそ何をやってたんだ?

 何をやっていた?


「今回は……あー、溜め込んでたのがさ、多分あのアダムって男、殺したのをキッカケに噴出したんだと思うよ……あー、キツ……」


 そう言いながら胸に根元まで突き刺さったナイフを引き抜き、僕の方に前のめりにしなだれかかる羽二重リン。

 体重をこちらへ預けてくるけど、やけに軽い。

 それを何も言えずに見てること数秒。

 やけに長く感じた数秒。

 数秒の後に


「よし、治った」


 そう言って離れ、彼女は自分の胸の辺りを確かめるように撫でる。

 傷はおろか、服に空いた穴も流れ出た血の跡すらも存在しない。

 何度か見た彼女の能力。

 自分の負傷を無かったことにする。

 自分を認識してる人間の認識から自身の負傷を消し、それを現実に反映させる。


 そして、元気そのものの彼女は今、この瞬間起こったことは何も無かったみたいに、僕へ屈託無い笑みを見せた。


「どうやら君も『外道者アウトサイダー』として本性が根付いてきたみたいだねー。でもいけないよ手当たり次第にやっちゃあ……」


「……あの、あのさぁ」


「ん?」


「さっきの、痛みは感じるんだよね?」


 何を当たり前のことを、とでも言うように


「もちろん」


「じゃあ、なんであんなことしたの……」


「なんでって、代替行為?いや、ここで殺したらまずいと思ってさ。追っ手とか……」


「そうじゃ無くて……あの、なんでわざわざそこまで痛い思いしてまで——」


 僕を助けてくれるのか。

 アダム・スミスの件もそうだけど、彼女がいなきゃ僕は電車で首を切られて死んでいた。


「えー……だって彼氏だし」


 え、あれのこと?


「本気で言ってたの?」


「え、逆に本気じゃないと?」


「うん、まあ、……状況が状況で何考えてるのか分からなかったし」


 そもそもあんな状況で言われたから頭のおかしい女と思ったし、その印象は話の通じる感じから少しだけ払拭されたけど。


「えー……ショック。じゃあ、改めて言おっか」


 少し間を置き、多少言葉に迷った挙句彼女は


「付き合って」


 一言、はっきりと僕の目を見て——こうやって目を合わせると意外と背が低い——なんでそんなに僕に執着するのかわからないけど、そうやって聞き間違いの余地のない言い方で言われた。


 それに対して、なんて答えたものか数秒だけ僕は悩み


「あの、返事早く。あんまり間を置かないで」


 そんなふうに急かされたりしつつ僕は少し流された感じで


「分かったよ……」


 と言った。

 ちょっと渋々っぽさが出てしまったかも知れない。

 だから、やや不満気に


「なんか煮え切らない感じ……」


 と述べた彼女の感想。


「いや、お互いに相手のこと知らないしさ、でも、いろいろ助けてもらったから、いいかなって。僕の方はそんな風。だから、これからお互い知っていきましょうってことで……いい?」


 少し取り繕う。

 向こうもそれに納得したわけじゃないけど、まあいいかと受け入れたみたいで、


「んー……そう。じゃ、いいやそれで。それじゃあ、一応ボスには連絡入れたし、どうする?これから。そもそも電車でどこ行こうとしてたの?」


 それを言われて僕は、もともとやろうとしていたことを思い出す。

 電車で向かおうとしていた場所——住んでいたアパートの部屋。

 本当は1人でそこへ行こうと思っていた。

 思っていたけど、羽二重リンはしばらくついてくる気満々の様で、だから、少しだけヤケクソのような気持ちで


「……ついてくる?」


 そう言った。


◆◆◆◆


 あれだけのことがあったにも関わらず、電車は1時間の遅れで運行を再開した。

 車両の屋根が切り取られ、何人か死傷者も出た事実は、全て人身事故の一言で片付けられていた。


 遅れの影響でやや過密した電車にしばらく揺られ、降りた駅から歩き、約20分歩けばそのアパートはある。


 羽二重リン、そして『棺姫』から聞かされた『外道者アウトサイダー』の能力の説明は正しかったらしく、住んでいた部屋の前で警察が張っていることも「KEEP OUT」のテープが張られていることもない。


 だから、結局捨てられなかったその部屋の鍵をポケットから取り出し、少しズレて建て付けの悪い扉の前へ。

 開けてみれば、出て行った時のまんまのワンルーム。


「ここが君の住んでたとこ?」


 背後から羽二重リンが聞いてきた。


「住んでいた……そうだね。1ヶ月前まで住んでいたね」


 そうやって言いつつ靴を脱ぎ、玄関をくぐって、すぐ脇の洗面所へ入った。

 そして、その隣のお風呂場。


 何も鼻につく匂いはしない。

 扉のスリガラスも汚れていない。


 そこでは何もなかったかのように。


 もはや、開けるという行動に良心の呵責がないことに気付いた。

 焦るとか、躊躇うとか、そういう精神の反応がない。


 だからスルッと開く。


 湿ったお風呂場の匂い。

 乾いた浴槽、シャワーノズル、少し曇った鏡。黒カビが隅に生えている。

 窓から夕陽が差し込んでオレンジ色のお風呂場。


 もし、そこにまだソレがあったなら浴槽の中は腐って溶けた血肉でデロデロになっているはずだ。まだ放置されていたら。


 でも、何もない。

 なんか、そもそも何もなかったんじゃないかって気がしてきた。

 

 後ろから羽二重リンが付いてきて、真横に身を潜り込ませて立つ。距離が近い。


「ああ……なるほど」


 僕の顔色を横からうかがって


「誰かの死体がここにあったんだね?」


 静かにそう言った。

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