田代某(下)
名前はこの世で一番しつこい
だってそうだろ。神社や寺で売ってるお守りに破魔矢に御札。お経に祝詞、魔除けの呪文――全部それを持ってる間や聞いてる間、唱えてる間は効果があるのかもしれない。でも結局は一過性の、薬みたいなモンだ。効果が切れた時に病気や怪我が癒えてなかった……つまりさ、退けた奴がしつこくまた戻ってきたら一体どうなる? 牡丹灯籠の萩原新三郎よろしく、その時お守りを失くしていたら? 呪文を唱えてなかったら?
耳なし芳一みたいに経文、呪文を身体に書く。それも悪くはないかもしれねぇ。入れ墨として刻んじまえば、一々化け物が出る度にあくせくしなくて済むもんな。だけどさ、それだって絶対じゃねぇや。
人間、生きてりゃたまには怪我するだろう。大怪我することだってあるかもしれない。入れ墨は肌に入れるものだから、完全には消えなくても怪我の具合によっちゃ歪んだり、欠けたりする。そもそもあれは、怪我して治るまでのちょっとの隙だって見逃さねぇんだ。
じゃあどうするかって言ったら、名前だよ。
名前はこの世で一番しつこい呪いなんだ。だって一度付けて馴染んじまえば、いついかなる時も否が応でも付き纏う。肉が抉れて骨が粉微塵になったって、認知症で俺が自分を忘れたって、俺という人間から本当の意味で名前が剥がれることはない。
それに、だ。納骨堂の骨壺を見ろ。骨が収まってる棚の上には、ちゃあんと故人の名前が書かれてる。血肉が消えても名前は消えない。無縁仏の骨だって、潜在的には何かしらの名前を持ってることを否定する奴はいないだろう。
そうつまり、俺がいる限り、俺がいたという過去がある限り、俺の名前は――俺を守る魔除けの呪文は末永く存在し続けるというわけだ。クソッタレ。
田代の演説に一段落が付いたところで、古谷はおずおず口を開いた。
「その話、これと関係あるのか」
「あるから話してんだ」
八重歯を剥き出して獰猛に、愉快そうに田代は笑った。強いた布団の上に胡座を掻いて、雪路は我関せず缶ジュースをちびちび飲んでいる。
「水上」
「気にしなくていいよ。害はないから」
間延びした暢気な声で言われても、古谷としては落ち着かない。
音は聞こえず、姿も見えない。ただ人が傍を横切ったと思って見ても、誰もいない。そもそも古谷以外の同室者――雪路と田代は立ち上がってすらいない。そんなことが何度も起これば、嫌でも気づく。
部屋の中を何かがうろついている。
「何だよ、こいつ」
「さあ。よう分からんけど、昔からおるよ」
「家に憑いてんだよ、家に」
田代は吐き捨て、腕組みして天井を睨んだ。
「家っつっても、土地でも建物でもない。田代本家の長男に憑くんだ。細かいことは長くなるんで置いとくが、とにかくまぁ、江戸時代頃に田代姓を自称してた御先祖様がこの地に流れ着いた時にはもう、こいつが引っ憑いてたらしい。放っとくと、目ぇ付けられた子供――田代家の長男が消えちまう。神隠しに遭ったみたく、忽然とさ」
「うちに相談したら、これこれって読みの名前を付けろって言われたんだと」
「特定の名前持った相手には、こいつ、そこらへん徘徊するだけで手出しが出来ないんだよ。単純だし意味分からんけど、確かに魔除けとしちゃあ効果があった。お陰様で、先祖代々田代の長男はあのクソ忌々しい
「昔はそげん珍しい名前でんなかったちゃろうけど、時代やね」
言いつつ雪路は首を傾げて、楽しそうににこにこ笑った。相変わらず見えない何かの気配は感じるが、話していると気が紛れる。古谷は溜息を吐いて、腹を括った。
「……つまりだ。こいつは今、檻の向こうにいる猛獣よろしく何も出来ない状態なんだな?」
「さっきからそう言ってんだろ」
「いつもこんなにうろうろしてるのか?」
「おー。0時から2時くらいまではな。ただ何て言うか、一定の周期で遠くなったり近くなったりはしてる。遠い時は基本俺にしか分からない。近い時は俺以外の奴も結構気づく」
今日は分かりやすいだろ?
大口を開けてゲラゲラ笑い、田代は何やら嬉しげに雪路が持ってきたビニール袋から缶ジュースを取り出した。プルタブを開け、うまそうに飲む。その缶に印刷されたイラストと文字を見て、古谷はぎょっと目を瞬いた
「おい田代、それ」
「そいつも飲んでるだろ」
言われてみて、やっと気づいた。雪路の手には高校生が飲んではいけない類の梅ドリンクの缶が握られている。どうりで平素より言動が浮ついているわけだ。
「水上……お前これ、買って来たのか?」
「まさか。兄さんの貰って来たんよ」
「学校にバレたら面倒だぞ」
「そうかな? そうかも。その時は一緒に怒られようぜ」
こういうことを言うに当たって、一抹の悪意すらなく底抜けに無邪気なのだから質が悪い。時折思うが、妙に浮世離れしたこの友人は、社会倫理とでも言うべきものが微妙に身に馴染んでいないのではないか。合わない服を無理矢理着ているような塩梅だから、ふとした瞬間にボロが出る。
逡巡し、古谷は雪路が差し出した飲みかけの缶を受け取った。正月に親戚付き合いの一環として屠蘇を舐める要領で、一口だけ呑む。求められているのは秘密の共有であり、飲酒そのものではない。そう判断した上での行動だった。
缶を返すと満足げに雪路は頷き、
「今日のことは他言無用で」
吊り目がちの瞳を細めて、悪戯っぽい微笑を浮かべた。
『家』に、自分に、害意を持った何かが憑いていること。
名前の由来。
漫然と交友を続けるだけなら、別に明かさなくてもよかった事柄を田代は明かした。その意味を全く推し量れないわけではない。翌日の夕方、帰りのバスに揺られながら古谷はぼんやり考えた。
気味悪がられるかもしれない。避けられるかもしれない。馬鹿にされるかもしれない。嫌な噂を流されるかも―――
そうした負の可能性を多分に孕んだ事柄である。だからこそ、今の今まで田代も雪路もわざわざ他人に話そうとはしなかった。それをあえて明かしたというのはつまり、昨晩のあれは田代にとって存外特別な友情表現だったのかもしれない。
その点については、嬉しいと思う。
ただ、それにしてもだ。いきなり家に呼びつけて、怪異と対面させたのは一体どういう了見なのか。目に見えず、音も聞こえず、ひたすら気配だけがある……あれが確かにいることを他者に理解させるため、手っ取り早く体験という手段を取った。それ自体は分かる。道理が通る。しかし事前に説明して、心の準備をさせるくらいのことは出来たはずだ。田代自身が語るべきことだと一歩引いて見守っていたらしい周囲の人間はともかくとして、当の田代は何故それをしなかったのか。
考えかけ、だが考えるまでもなく答えを察して、古谷はつい苦笑した。
先日の田代姉の言葉が頭を過る。
繊細な割にやたら性根が図太いせいで
であれば楽しんで、茶化すしかない。
面倒な奴。
古谷は心の中で呟いた。だから友達が少ないのである。しかしまあ、あいつとは爺になっても何だかんだ付き合いが続いているに違いない。窓硝子の向こうを過る夏の夕景を眺めつつ、そんな予感を漠然と覚えた。
水上家のこと 白河夜船 @sirakawayohune
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