田代某(上)
田代という男がいる。
彼は非常に古風な――時代錯誤と言ってもいいほど古風な珍しい名前を持っていて、幼少期は悪童に揶揄われたり、教師には苦笑されたり、病院ではやたら気まずい思いをしたり、初対面の人間からはそこはかとなく引かれたりと、とかく色々名前のせいで煮え湯を飲まされてきたらしい。そういうわけで彼は自身の名前を蛇蝎の如く憎んでおり、意味もなく呼ばれることを嫌う。だからここでは一応、田代某という風に彼のフルネームは伏せておく。
この田代某は、亡友・水上雪路の幼馴染み兼遠い親戚に当たる人物で、雪路を通して知り合った古谷崇の友人でもある。高校時代はよく古谷、雪路、田代の三人で連んでいたのだけれど、これは確か高校二年の夏休みだったかの話。
8月何日であったかは覚えていない。
盆は過ぎ、8月も後半、しかしまだもう少しだけ夏休みが残っている――そういう微妙な頃合だった。ある日いきなり、
『明日、家で勉強会をするぞ』
と田代がらしくもないことを言い出した。
『勉強会?』
『溜まっている課題を清算するのだ』
メッセージアプリには一方的に日時と集合場所、家人に気を遣わせないよう夕飯と風呂は自宅で済ませてくるべし、朝食は持参するべし等々、田代家に泊まる前提の注意点が書き込まれ、最後に一言、
『逃げるなよ』
と装飾も遠慮もないぶっきらぼうな文字列で釘を刺された。
翌日、夕方。
指定のバスに乗って指定のバス停で降りると、トタン製の質素な待合小屋の中に眼鏡を掛けた長身の男――田代が仁王立ちして待っていた。意外だったのは田代の隣に端正な容貌の青年、水上雪路がいたことである。先日のメッセージアプリでのやり取りは、グループチャットではなく古谷と田代の間だけで行われたものであり、田代発案の勉強会に雪路まで巻き込まれているとは思わなかった。
「お前も来るの」
「うん」
古谷の問いに雪路は頷き、苦笑した。
「家近いから活動圏が被るんだ。昨日駄菓子屋でアイス買ってたらこいつが来て、変なこと言い出してさ。君一人じゃ何だか可哀相だから、俺も付き合ってやることにした」
レンズ越しに鋭い三白眼を光らせて、田代は「フン」と鼻を鳴らした。偏屈そうな眼差しが雪路の澄んだ瞳とぶつかって、二人の間で意味ありげな目配せが交わされる。付き合いが長いためだろう、それで通じてしまったらしい。特に何を言い合うこともなく、雪路は肩を竦め、田代はずんずん歩き始めた。
古谷としては置いてけぼりを食らったようで疎外感を覚えないわけではないが、それよりも感心する心地の方が強かった。言葉を介さない意思疎通というのは、気息のあった曲芸に似ている。傍から見ていて面白い。
「田代。君、そんなだから友達少ないんだぜ」
「お前に言われたかないね」
揶揄い混じりに楽しげな笑みを浮かべた雪路をぎろりと睨み、田代は小さく舌打ちした。
鋭く細長い青葉の合間に、金色の実が光っている。田圃の稲はもう、秋の到来を予感させる面立ちだった。
山間の集落は柔らかな夕陽に照らされて、いかにも長閑な様相である。暑さも平地よりは幾分優しく、時折吹き抜ける風は清々しかった。実家周辺ではあまり見掛けないハグロトンボやイトトンボがついと近くを横切る度に、物珍しくて古谷は思わず目で追ってしまう。ツクツクボウシがオーシーツクツク……と特徴的な、晩夏を告げるどこか寂しいような声で鳴いていた。
10分か15分ほど歩いたろう。
緩やかな坂沿いに家屋の建ち並ぶ一角があり、そこでふと田代は立ち止まった。
「ここ、俺んち」
そう言って田代が指差したのは、昭和期に建てられたらしい雰囲気の、よく手入れされた二階建ての家だった。水上家のように驚嘆するほど大きくはなく、かといって小さいというわけでもない。車を三、四台停めてまだ多少のゆとりがある庭と農作業用と思われる小屋もある――要するに田舎では割合一般的な家であった。
鍵が掛かっていない玄関戸をがらりと引き開け、
「ただいま!」
と田代は叫んだ。
廊下の奥からTシャツに膝丈の半ズボンという恰好をした妙齢の女性が現れて、いらっしゃい、と顔を綻ばす。マロンブラウンのショートヘアがよく似合う、溌剌とした印象の女性だった。母親にしては若すぎる。姉だろうか。と古谷が思う間に、彼女は田代とよく似た鋭い目付きで弟を睨み、
「アンタね」
と口を開いた。
「友達にあんま迷惑かけんとき」
「うっせぇ、バ」
「おい、クソガキ」
「……すんません」
出し抜けに始まり秒で終わった姉弟喧嘩に古谷は戸惑い雪路をちらと窺えば、狼狽える様子もなくのんびり二人を眺めている。どうやらこの食って掛かるようなじゃれ合いが彼等の平常運転らしい。
「私がどうこう言うことじゃないから煩くは言わんけどね、こーいうことするからアンタ」
「もうあっち行ってろよ、姉ちゃん!」
「すぅぐ拗ねる」
呆れた様子で口をへの字に曲げた田代姉は、不意にこちらを向いて笑顔を浮かべ、
「面倒な奴でごめんね」
と弟の腹を小突いて肩を竦めた。
田代が始終たじたじだったのを見るに、家族内の力関係は姉の方が上なのだろう。家人に軽く挨拶をして二階に上がり、田代の部屋へ入ったところで、
「あいつ……」
田代はやっと苦虫を噛み潰したような顔で文句を零した。
「やたら突っ掛かって来やがって」
「心配してるんだろ。たぶん」
「けっ」
雪路の言葉を鼻で笑って、田代は畳にどかりと腰を下ろした。外はもう随分暗くなっている。ここらの夜は暑気が足早に落ち着いているらしく、扇風機を回すだけでも閉め切った部屋は充分涼しかった。
折り畳み式の円い座卓に頬杖を突き、さて教材でも広げるのかと思ったら、田代は傍の本棚から漫画を取り出し、それをぱらぱら読み始めた。雪路も部屋の隅に寄せられた来客用敷き布団に凭れて座り、菓子やジュースが詰まったビニール袋をガサゴソと探っている。
古谷はつい眉根を寄せた。
「勉強会、するんじゃないのか?」
「んな面倒なモンするわけねぇだろ!」
「は? 課題は?」
「もう終わってらぁ」
「……おい、水上」
「俺も、もう終わってる」
困惑した。
実のところ、古谷も盆前に全て片付けてしまっている。だから人の課題を手伝いながら自習するつもりで今日は来たのだ。なのに誰一人――発案者の田代でさえ課題が残っていないというのはどういうことか。これでは勉強会が成立しないではないか。
「田代お前、『溜まっている課題を清算するのだ』とか言ってなかったか」
「方便だよ、方便。理由付けなきゃ、
「………」
付けても十分気味が悪かった。という一言をどうにか呑み込み、古谷は説明を求めて雪路の方へ視線を向けた。
偏屈な田代に対して「どうつもりだ」とか「何を企んでるんだ」とか質問しても、既出の情報以外出てくるとは思えない。だから言外に事情を知っていそうな雪路を頼ったのだが、肝心の雪路は掌に転がしたラムネの模様に気を取られ、最早こちらを見ていなかった。
『逃げるなよ』
「君一人じゃ何だか可哀相だから」
「田代。君、そんなだから友達少ないんだぜ」
「こーいうことするからアンタ」
「面倒な奴でごめんね」
ここに来るまでに言われた台詞を思い出すと、どうも何かしら田代は厄介なことをしようとして、周囲はそれを察しながらもあえて黙っている――そういう構図が頭に浮かぶ。では何をしようとしているのか。考えても、古谷にはよく分からなかった。
想像するにしても、推理するにしても情報が足りなすぎる。
不審に思いつつも隠されているものを強引に暴くほどの差し迫った理由も見当たらず、古谷は友人二人と漫画を読んだりゲームをしたり菓子を食べたりノートパソコンで映画を観たり……漫然と青春の1ページらしい夜を過ごした。
事が起こったのは、0時を過ぎた頃である。
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