梅樹下

 ローカル番組が太宰府天満宮の梅が見頃である旨を嬉々として報じ始めると、どうやら春が来たらしいとぼんやり感じる。そしてそれを見掛ける度に、古谷ふるやはいつも花見をしたいような気になるのだが、思い付いて心当たりの場所へ適当に足を運ぶ年もあれば、雑多な用事をこなす内に忘れてしまって結局見頃を逃す年もあった。

 今年は後者で、気づいてみると近場の梅は盛りを過ぎて花が疎らな寂しい状態だった。仕方ない、来年見よう。そう半ば諦めていたものだから、亡友・水上みなかみ雪路ゆきじの家がある山間の集落へやって来た時、古谷は目を瞠って驚いた。

 家々の庭や畑、山の所々に、梅花らしい白い花がいっぱいに咲いていたのだ。紅梅の差し色も美しく映え、いかにも春めいた華やかな装いである。

 先日世話になった礼として、かりんとう饅頭約束の品を水上家に届けた。玄関先で菓子箱を渡す折、そういう世間話を古谷がすると、


「山ン方やからかな。毎年、平地よりは咲くの遅いよ」


 雪路の兄、南天よしたかは細い瞳を更に細めて首を傾げた。言われてみれば、確かにここは古谷が住んでいる田舎町の中心部と比べると空気が冷たい。春の訪れがほんの少しだけ遅いのだろう。

 思い掛けず宝物を見つけた気分で、古谷は水上家を後にした。集落を軽く巡って、梅が見事な場所を探してみよう。都合良いスペースがあれば車を停めて、ちょっと花見をしてから帰る。酒――は運転するため飲めないけれど、甘酒か団子でも持ってくれば良かったな、と古谷はのんびり考えた。






 気温は低いが、昼時の陽射しはほんのり暖かい。まだ正午にはなっていないものの、太陽は天高く登り、青い空の真ん中辺りで燦々と輝いていた。

 花見に相応しい、良い日和である。

 当てもなく車を走らす内、遠目にも目立つ紅梅の大樹を見つけた。どうも神社の敷地内に植わっているらしく、近づいてみれば小高い丘の下に石鳥居と上へ続く階段があった。鳥居の周囲はちょっとした空き地のようになっており、車を三、四台くらいは停められそうだ。

(ちょうどいいや)

 古谷は一人頷いて、その空き地の端に車を停めた。車から降り、階段の前に立ってみる。手摺がない年季の入った石段だった。凸凹しているとまではいかないけれど、平かとも言いがたい。足許を確かめつつ、ゆっくりと慎重に登った。

 最後の一段に足を載せたところで前を向き、

「え」

 思わず古谷は間の抜けた声を洩らした。

 苔生した狛犬がちょこんと控える古い社の脇に枝垂れ梅の大木があり、豊かに溢れる細枝を仄紅い花々が可憐に優美に彩っている。その、梅花の滝の奥――黒い幹に寄り添うように、女が一人佇んでいた。

 立烏帽子に射干玉の下げ髪、白い水干、赤袴、佩刀、扇、微笑みを湛えた美しい顔……いや、精巧な仮面だろうか。唇の紅が映える真っ白な面は、人形のように固まってほんの僅かも動かない。

 その姿にどことなく見覚えがあり、困惑しながらも何だったかと記憶を探って、古谷は(ああ)と思い当たった。


 白拍子だ。


 奏者もいないはずなのに、柔らかく伸びやかな笙の音が虚空から滲むようにして響き出し、楽音に合わせて女がゆるりと腕を持ち上げる。

 舞っている。

 滴る花枝、散り降る花弁と戯れるが如き舞だった。

 長い袴や袖が流麗な身体の動きに沿って地面と触れ合うのだが、土に汚れる様子もなく清らかで、足音すら聞き取れない。古谷はしばしの間、木洩れ日の中で踊る女に見蕩れた。

 五分、十分、どれくらい経ったろう。

 楽音が次第遠退いていき、目を瞬いた刹那の隙に、女の姿はふつりと消えた。境内は静寂に包まれて、人の気配は杳として感じられない。張り詰めていた糸が解けて、ほぅ、と古谷は細い吐息を洩らした。白昼夢とはこういうものを言うのかもしれない。






 夢心地のまま石段を降りたところで、鳥居前の空き地に古谷のもの以外にもう一台、車が停まっているのを見つけた。見知った造形の車である。近寄ってみれば、車中の人物がこちらに気づいて顔を上げ、にんまり笑んだ。

「いいもん見れたかい」

 車の外へひょいと出て、声を掛けてきたのは狐顔の青年――南天だ。口振りからして、どうやら彼女について何か知っているらしい。

「あの、あれは」

 古谷が問うと、南天は神社を見上げて愉快そうに瞳を細めた。

「梅の精とかここン神様とか色々言われちょるけどね、実際の所は誰も知らん。ただずっと昔から、梅の盛りの間だけ現れるんよ。で、舞を見せてくれる。それだけ」

「それだけ、ですか?」

「うん、それだけ。悪戯したり求婚したりする阿呆もたまにはおったらしいけど、ふっと掻き消えて、そいつン前にはもう現れんくなる。別に祟りや事件を起こすわけでなし、長閑な御方よ。でも注意点が一個あるにはあって、観客が一人以上いるとね、煩がって出て来らっしゃらんの。だからまあ、君、梅の話しとったろ。それで気が向いて、美味い菓子もあるしと思って、僕も花見がてら見物に来たんだけれど、先客がおるようだったんで、戻るまでそこでぼーっと待っちょったんよ」

 一息に喋り、南天は上衣のポケットからビニール袋を取り出してみせた。中にはかりんとう饅頭の包みが二個入っている。

「去年は雪路と一緒に見たんだけどね」

 独り言つように言って、懐かしげに南天は微笑した。

「その」

「ん?」

「観客が一人以上いると、出て来てくれないんですよね」

「そうやけど」

「なのに、水上と一緒に見たんです?」

 観客が一人以上ということは、二人や三人だと白拍子が現れない、そういうことだろう。南天の語ったルールを考えると、雪路と一緒に、つまりは二人で彼女の舞を見るのは不可能なのではないか。古谷の疑問に対し、南天は「あー」と難しい顔付きで首を捻った。

「他ン奴と二人の時は駄目だったんよ。でも、雪路と二人の時は別に良かった。思うにあいつ、人間としてカウントされてなかったんじゃないかしらん」

「そんなこと」

 あるわけないでしょう。と言い掛けて、雪路の底抜けに澄んだ眼差しが頭を過り、古谷はつい口を噤んだ。白拍子がどういう基準で人か否かを判断しているのかは不明だが、見ようによっては人間でないとなるのも頷ける。

 そんな風に思えてしまうほど、水上雪路という青年は人間味のない奴だった。

「ある、かもしれないですね……」

「やろー!?」

 弟の話をしている時の南天は常より楽しそうである。ジャンパーのポケットに両手を突っ込んだままゆったりと身体を揺らして、にこにこ笑っている。

「そういや君、昼飯は?」

「まだです。帰って食べます」

「じゃ、あんま引き留めるのも悪いなぁ。気ぃつけて帰り」

 別れ際、不意に南天は「あ」と小さく声を上げ、人差し指を顔の前に立てて悪戯っぽくにぃっと口角を吊り上げた。

「ここで見たもののこと、秘密にしてな。梅ンこつも、彼女ンこつも。人が多くなると、もう来てくれんようになるけんさ。そうなったら皆、寂しがる」

 皆、というのはこの土地に住む人々を指しているのだろう。彼女を春の訪いを告げるものとして歓迎し、彼女のための静寂を連綿と守ってきた人々。足蹴にするのは無情だと感じ、古谷は黙って頷いた。






 車を走らせながら、ぼんやりと景色を眺める。梅花に彩られた集落を抜けると野花の様子が微妙に変わり、やがて河原に菜の花が咲き群れているのが目の端に映った。開き始めの黄色い花弁が太陽を浴びて光っている。

 それを見て、菜の花のおひたしや天ぷら、炒め物などが頭に浮かび、ぐぅと腹が鳴ったものだから古谷はつい自嘲した。さっきまでは風流な心地でいたけれど、土台は花より団子の性分らしい。

 腹が減っている。

 何か春めいた物を食べたい気分だった。梅ヶ枝餅――といきたいところだが、太宰府まで行かねば食えない。平地の方では桜の蕾が僅かに綻び掛けていた。和菓子屋に寄れば、案外もう桜餅を置いているかもしれない。


 あの集落は、四季の移ろいが下界とほんの少し違う。水上家の枳殻垣も平地よりはちょっとだけ遅れて白い花を咲かすのだろう。


 高校時代はあまり気に留めなかった季節の諸相を、今は見詰めてみたいと思う。いずれまた、亡友が生まれ育ったあの土地を訪れてみよう。

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