箱(下)
駅舎の外は、存外に繁華な町だった。
どうやら観光地であるらしい。土産物屋が混じる商店街を通り抜けると、
「あの路線沿いに、海なんかありましたっけ」
古谷が思わず呟いた横で、
「しんきろうだ!」
と誰かが叫んだ。子供の声である。見れば、父親なのだろう――男に手を引かれた少年が、目をきらきらさせて海を指差していた。
夕陽を呑み込もうとしている赤い海の彼方、空との境が曖昧な水平線の辺りに黒い影が揺らいでいる。これが蜃気楼か、と初めて見る光景に古谷はぼんやり立ち尽くした。距離感のいまいち掴めない影は伸び上がったかと思えば急速に縮み、震え、霧散し、固まって、絶え間ない変化の末に水平線いっぱいに横並びする無数の人影となった。それがだんだん大きくなる……と思った瞬間、
「おい、君」
南天に肩を叩かれ、古谷ははっとした。
「こんなとこにあるもの、まじまじ見るもんじゃないぜ」
言って、行こう、と歩き出す。古谷は慌てて南天の背を追った。いつかも似たようなことがあった気がする。あの日の亡友の呆れ顔がふと頭を過り、古谷は苦笑した。
「蜃気楼ってあんなんなんですか」
「んなわけなかろー。僕も見たこつないけどさ」
はっきりした行く当てがあるわけではない。足の赴くまま町を歩く内、辺りはすっかり夜めいてきた。建物に挟まれた細い路地は外灯も室内から洩れる明かりも少なく、殊更暗い。その中にあって煌々と光を放つ店を見つけて、古谷は「あっ」と目を瞠った。
「あそこです!」
木製ドアの前に白地の電飾看板が置かれている。記された文字はやはり読めないけれど、珈琲のイラストがあるので、たぶん喫茶店なのだろう。
(やっと辿り着いた)
嬉々として隣を向けば、南天は何やら渋い顔付で店を睨んでいた。ドアに近寄ってハンドルを引き、
「ちぇっ」
詰まらなそうに舌打ちした。
「どうしたんです」
「招かれちょらんけん入れんや」
うーむ。と眉根を寄せて腕を組み、やがて南天は「何が来ても返事せんで、いなくなるまでじっとしとき」そう言ってから、
「入ったらそこ、座るといいよ」
窓際の席を指で示した。
からん、ころん。
ドアを開けると、ベルが鳴った。
蜜色の電灯に照らされたレトロチックな店内には、誰もいない。客も、従業員も。しばし立ち尽くし、どうやら勝手に席を選んでいいらしいと察した古谷は、南天に指示された通り窓際の席に座った。
四人掛けのボックス席だが、空いているのだから別に気兼ねする必要はないだろう。黒い風呂敷包みをテーブルに置き、奥へ寄る。電車やバスに乗る時もそうなのだが、複数人掛けの席を使う場合は、通路からなるべく遠い位置に座る方が古谷は落ち着くのであった。
手持ち無沙汰を紛らわそうと、スマホを見る。
電源ボタンを押しても、画面には何も表示されなかった。充電は半分以上残っていたはず――怪訝に思いつつも仕方がないので、鞄を探って暇潰し用にと一応持ってきていた文庫本を取り出した。祖父の店を手伝うメリットの一つがこれである。古本が無料か、かなり安い値段で手に入る。
どこかで聞いた覚えがある、しかし曲名は知らないクラシック音楽を聞き流しつつ、古谷は本のページをめくった。好きな作家の短編集だ。どれくらい待つか分からないため、短めの話を選んで読む。
一話読み、二話目を読もうとしたところで、
「もぅし」
声が聞こえた。
古谷を、呼んでいる。
驚いて顔を上げれば、中折れ帽を被った黒ずくめの紳士が一人、古谷が座るボックス席の傍らに佇んでいた。黒い風呂敷包みをじっと見詰めている。
「もぅし」
抑揚の乏しい声でもう一度言って、男は包みを指差した。
「そこにいますか」
厭に暗い雰囲気の男だった。瞳孔の広がりきった瞳は虚ろで、視線の焦点がいまいち合っていない印象を受ける。死体が動いてるみたいだ、とぼんやり思った。箱がぽそぽそ何事か呟いている。そうだ。古谷は目を瞬いた。何か答えないといけない。
口を開きかけた瞬間、
こつ。
穏やかなクラシックが充溢する店内に、不思議な澄明さで異音が響いた。
こつ。こつ。
小さな音だが、間近で聞こえる。硝子を固い物で突くような―――
そういえば南天が店の外にいる。古谷に伝えたいことがあって硝子を叩いているのか、と窓の方を窺えば思い掛けず真っ暗だった。狭い路地に室内の明かりが零れているのだから、多少は外の様子が判ってもいいはずなのに。
深海。宇宙。
広大無辺の暗黒空間に忽然と、この喫茶店が存在している。そんなイメージがふと頭を過り、足許の地面がいきなり崩れたような不安感が、古谷の背筋をすぅっと駆けた。外に何もないから、何も見えないのではないか。
黒い窓が、蜜色の照明を反射している。結露で薄く曇った硝子板の表面は鏡となって、店内がほんのり映り込んでいた。
「そこにいますか」
こつ。
また音が鳴った。
眉を顰める。鏡の中と外が、違う……?
鏡の中には、狼狽えた表情の古谷がいる。それは同じであるのだけれど、風呂敷包みと中折れ帽の男の姿は鏡面上にどうしても見当たらなかった。その代わり、古谷の対座に誰かが座っている。
こつ。
その誰か――青年がノックするように窓を叩くと音が鳴る。古谷が気づいたのを認めて、曖昧な鏡像の彼、水上雪路は微笑んだ。
顔の前に人差し指を立て、
しー。
という風に唇を動かす。
「そこにいますか」
戸惑いなのか再会の高揚なのか緊張なのか恐怖なのか判然としない理由で心臓が高鳴っている。中折れ帽の男の手がこちらへ伸びて、黒い風呂敷包みを持ち上げた。
「窓際、座っちょいてよかったろ」
古谷が蒼褪めた顔で店から出ると、ドア脇に突っ立ってカロリーメイトをもそもそ食べていた南天がくぐもった声でそう言って、
「おつかれさん」
能天気にケラケラ笑った。
古谷としては「はあ」とか「まあ」とか悄然と頷くしかない。事が済んでみれば、今までの自分の行動が一切理解できなかった。
なぜ見知らぬ人間から碌な説明もなく託された不審物を、こんなけったいな場所へ届けようと思ったのか。なぜ、包みの中の声を聞こうとしたのか。なぜ、ここが届け先だと分かったのか。なぜ何度も異様なものと接していながら、それをおかしいとも危険だともまともに判断できなかったのか。
考え始めたらキリがない。
「……今日は早く寝たいです」
「おう。君、気ぃ抜いとるけど、帰るまでが遠足やけんね」
未だ元気な南天に力一杯背中を叩かれ、現在いる場所がどうも異界であるらしいことを思い出し、
「ああ、はい」
古谷はげっそり肩を落とした。
行きは何かに導かれるように歩いていたのですっかり失念していたが、素面に戻ってみれば土地勘のない町である。どこをどう通れば駅へ戻れるか、そもそも自分がどこにいるのかすら定かではない。
「あの、もしかしてここ、来たことあります?」
「あってたまるか!」
笑って言いつつ、南天は全て承知しているという風に迷いない足取りで進んでいく。古谷は南天を信じて、はぐれないよう気をつけて歩く他なかった。
しばらくしてやっと、見覚えのある場所に出た。
松が並ぶ海沿いの道だ。ここを通って、宿屋が密集した一角と商店街を抜ける。そうするとたしか、来る時に使った駅へ辿り着く。ほっと安堵の息を吐いたところで、ふと違和感を覚えて古谷は眉を寄せた。何だか行きと様子が違う。
浜のあちこちに篝火台が設置され、朱い炎が
ぃよぉ―――――っ。
伸びやかな男の掛け声と共にどこかで拍子木を叩く音が鳴り、直後、
ばん!
空気が震えた。浜にいる人々――年格好も性別もばらばらの群衆が、全く一斉に、軍隊のような統制された動きで手を打ったのである。
ばん!
一つでは些細な音も重なり合えば、轟音になるらしい。ばん!ばん!ばん!と繰り返される音は万雷の拍手とも違う強迫的な響きとリズムを持って天地を揺るがし、
ばん!ばん!ばん!ばん!ばん!
機械的な一律さで手を打ち続ける人々の中、一人だけ違う動きをしている者がいると見れば、それは真珠の首飾りの女だった。黒い風呂敷包みを大事そうに抱えている。
ばん!ばん!ばん!ばん!ばん!
ばん!ばん!ばん!ばん!ばん!
音に押されるようにして、女は海へと踏み込んだ。足が水に浸かり、膝が水に浸かり、太腿が水に浸かり、腹が水に浸かり、それでも構わず静々と、冬夜の海を深い方へ深い方へ進んでいく。真っ黒な空と海の境目で、陽炎の如き何かが揺らめいた。胸が水に浸かり、そして、
「こんなとこにあるもの、まじまじ見るもんじゃないって言ったろ」
南天に声を掛けられ、古谷は「はい」と慌てて頷いた。思わず立ち止まっていたらしい。いつの間にか南天との距離が少し開いている。小走りで追い付いて、
「何です、あれ」
聞きたいような、聞きたくないような。躊躇ったがどうしても気になってしまい、結局尋ねた。黒い風呂敷に包まれた箱。呼び声。蜃気楼。死体めいた男の言動。箱を抱えて海へ入った真珠の首飾りの女。今まで起こった事の繋がりを考えてみると、不吉な絵図が茫漠と浮かび上がりそうになる。
「知らん」
さっぱり答えて、南天は首を傾げた。
「何やっとるかは何となく分かるけどね、何のためにやっとるかはよう分からん」
「その、あれ、放っといていいんです?」
「気軽にどうこうできる規模じゃないもの」
見えるからって山や川、動かせるわけじゃないからね。
独り言つように言って、南天は笑った。諦観が根底にあるともひたすら暢気なだけとも取れる、あっけらかんとした笑みである。
「手ぇ出すにはでかすぎるし、関わるには忌まわしすぎる。やなモンあっても知らんぷりして、帰ることだけ考えとき。それ以上の手伝いは、僕等にもちょっと難しいわ」
背後――遠ざかった浜の辺りで怒声とも歓声ともつかない声が上がった。振り返りかけ、逡巡して古谷は前を向く。厭な想像が頭を巡るが、自分を助けるために動いてくれた者がいるのだ。軽率な好奇心でそれを無碍にするのは無粋な気がする。
僕等。
ふと思い出して、古谷は口を開いた。
「そういえば、あいつ来てくれましたよ」
「うん。だから窓際座りぃ言うたんよ」
ジェットコースターに乗った時のような、一瞬の浮遊感と落下感。
「うわっ!」
咄嗟に叫んで身を竦めれば、目前に立つ高校生や会社員らしき人々が、驚いた様子で座席に腰掛けている古谷を見詰めた。
「え。は?」
ぽかんと目を瞬いた古谷の横で「寝惚ちょんのか、君」南天がケラケラ笑うと、周囲の人々は何か察した風に小さく苦笑し、平素の無関心に戻って窓の外やスマートフォンへ視線を移した。ローカル線の見慣れた列車の中である。
窓外の空はほんのり赤く、車内は人で充ちている。はっとしてスマホを取り出し確認すれば、ちゃんと待受画面が表示され、17時43分と時刻も確認できた。頭を掻く。さっきの浮遊感と落下感はうたた寝から急浮上する時の感覚とも似ていた。
全て夢だったのではないか。
一瞬そう思いかけたが、南天がのんびり「帰りは楽でよかったわ」と呟いたので、どうも現実だったらしい。
「あの」
「ん?」
「突き落としましたよね」
「うん。よかれと思って」
駅名が読めない件の駅で、南天と古谷は列車を待っていたのだ。南天はここを使えば帰れると言うものの、古谷は少し不安だった。時刻表を読めないために列車の到着時間が不明瞭で、考えてみればそもそもの話、ちゃんと来るという保証もない。本当に大丈夫だろうかと南天を窺えば、細い瞳を更に細めて何事か思案している様子であった。
「南天さん」
「ちょっとそこ立ってみ」
いきなり言って、南天は地面の点字ブロック付近を指差した。
「で、①目ぇ瞑って耳を澄ます。②列車が近づいて来る音が聞こえる。③音が止んだら目ぇ開ける。そしたら列車来とるけん、マジで」
戸惑いながらも、古谷は従う以外に選択肢がない。言われた通り目を瞑り、耳を澄ませた。そうすると確かにだんだん列車の駆動音が近づいて来て、もうすぐこの駅に着くんじゃないか――そう思った瞬間、
背中に思い切り体当たりを喰らったような衝撃を感じた。ようなというか、たぶん喰らった。
思い掛けないことだったので踏ん張れず、身体が線路へ放り出されて、見開いた目にテールランプの白い光が飛び込んだ。そして気づけば馴染みの列車の座席に座って「うわっ!」という間抜けな悲鳴を上げていたのだ。
「事前に説明してくれてもよかったですよね!?」
「怯んだらいかんし、気構えとると怖かろー思って。ホラ、歯医者とか注射の待ち時間みたいに」
南天の気遣いは全く的外れとも言えず、古谷は次の文句を思いつけないまま憮然とする他になかった。ありがたさと不意打ちで脅かされて迷惑だという気持が混在している。
やり場のない不満を呑み込み、座席に背を預けていると、次第に瞬間的な恐怖心の余韻が解けて「帰ってきたんだ」という安堵が心身をじわりと温めた。そういえば、ずっと外を歩いていた。冷えた身体に車内暖房が心地好い。
疲れから微睡んでいたのだろう。気づけば地元の駅に着いていて、南天に「降りるぞ」と腕を軽く小突かれた。
駅舎を出る。
陽はもう沈み、藍色の空の西端に残照で赤らんだ雲が薄くたなびいていた。出発から約6時間が経過しているが、体感ではもっと長かったように感じられる。前回――水上家で迷った時と同様、あの場所も時間が奇妙な流れ方をしていたのであろう。
「今日はありがとうございました」
南天に頭を下げ、お礼は、と古谷は問い掛けた。面倒事に付き合わせた自覚がある。金銭の要求はしないつもりのようだが、せめて何らかの形で謝意は示したかった。
「かりんとう饅頭」
予て考えていたらしい。南天は迷わず答えて「図書館近くの和菓子屋の。多めに買っちょいて」と、にんまり笑んで付け足した。
「家族で分けるけん」
「水上の分もいりますか」
「ないと拗ねるよ」
だろうな。
数が足りない饅頭の箱を前にして詰まらなそうに不貞腐れている雪路を想像し、古谷はつい苦笑した。
「それじゃ、また」
軽い世間話の後、定番の一言を言い合って別れた。暗い家路を自転車で駆ける。ペダルを漕ぎながらふと、古谷は思い出した。『水上事務所』とは結局のところ何なのか――ずっと気になっていたことを、南天にまだ尋ねていない。
遠からず、かりんとう饅頭を持って行く予定である。その時にでも尋ねてみようか、と思ったものの少し考え、やっぱり止しておくことにした。聞けばたぶん答えてくれるだろうが、弟がよく知らないでいる兄の仕事を、弟の友人は知っているというのも妙な話だ。
別段、知らねばならないことでなし。
宿直室の扉の内側。通学路にある謎の工場。幽霊屋敷の過去。調べてみたら分かるけど、調べてみないと分からない。日常の片隅には、そういう微妙に不思議な物事がひとつふたつ転がっている方が面白かろう。まあ、いつか知る機会があるとすれば、雪路の口から聞いてみたいような気がする。
――――、――。
あの喫茶店で中折れ帽の紳士が『STAFF ROOM』というプレートの掛かった部屋へ入るのを見送った後、雪路は何か言うように唇を動かし、瞬きの間に消えてしまった。後に残ったのは暗闇が晴れ、窓明かりにほんのり照らされた路地が透ける硝子であって、その上にはもうそこにあるものをただ映す普通の鏡が薄ら存在するだけだった。
声は聞こえなかったものの、口の動きや表情から何と言ったかは察せられる。
それじゃ、また。
雪路は確かにそう言った。
そう言ったなら、古谷が生きている間か死んだ後かは定かでないが、きっとまたいつか会えるのだろう。
いくらぼんやりした奴であっても、十年後、二十年後、最悪古谷が天寿を全うするくらいまでには『水上事務所』の正体ついて、何かしら答えらしきものを得ているかもしれない。ゆっくり話せる時が来たら、四方山話をするついでにでも問い詰めてやろうと思う。
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